第二夜

やはり、彼はいた。


今日のような雨のじめじめと踊る夜なんかには、あの得体の知れぬ高等遊民が繰り出しているだろうとふと思った。サッシを開け放しでもしようものなら、蛙だとか夜烏だとかが、ゲロゲロバッバッと、まるでボーナスの入ったサラリーマンかのごとくに乱舞しているさまが、聞こえてくるのだ。

良い夜に趣のある肴ですねえとでも呟きながら、またあの場所で飲んでいることだろう。

美味しそうなつまみが手に入ったことだし顔を出してみる価値もある。


彼は僕の姿を見とめると、良い夜ですねと声をくれた。

ええ、良い夜です。なんせ、

「蛙がこれだけ鳴いているんです。非常に趣のある」

ほら。


「今夜は少し高揚が見られますからね。1本目はこちらをどうぞ」

「これは、日本語ですね」

「ええ、日本のものです。好みなんて聞いてないぜsorryというビールです」

「音楽もなんだか先日のものより少し明るいですね」

「ええ、Lee Konitzです。お気に召すと良いのですが」

「とんでもない。この空気感のために来てみたんですよ。いただきます」


「今夜もいるんだろうなあと思って来ましたが、でもいてくれてなんだか嬉しいです」

「こんな夜なんかにはいつでもいますよ。なんだって私は好事家ですからね。それよりおつまみをありがとうございます。牡蠣の燻製の缶詰ですね」

「合うと良いのですが」

「合う合わないではないのですよ。合うお酒をお出しするだけです」


「次の曲はUyama Hirotoですね」

「これもまた雨音や蛙の声と」

「無粋ですね。それまでです。お代わりは?」

「すみません。いただきます」

「次はデリリュウムを開けましょうか」

「蘭科の植物に似た名前ですね」

「酒飲みの幻覚といった名前ですよ。いただきましょう」


雨足は増していった。

彼はまた少し明るげな曲に切り替えた。Nujabesというらしい。

蛙はいなくなった。

ただ時々車のエンジン音がして、我々の夜宴に違う色を添えた。

この男の感じる世界はどこにある。涼しげに飲んでいやがる。雨音の風情か。分かるような気もする。それだけだ。


「少しゲームをしませんか」

3本目のヴォヌに切り替えた頃合いに、目の前の酒飲みはそう切り出した。

面白そうじゃあないか。

「次に通りかかる車が上りか下りか、賭けましょう」

「もちろん罰ゲームは」

「あるでしょう。話をしてくださいよ。私はあなたの就職活動いかんが聞きたい。先日の話の続きですよ。自分で遮った癖に、私は聞きたがり屋なんです。何らのアドバイスだってできないのですけれど。退職の理由ですとか」

「では僕が買った場合にはあなたの秘密を1つ教えてください」


彼は上りと言い、僕は下りと応じた。

なかなか通りがかりはなかったけれど、曲がまた変わりそれはMatryoshkaだと彼が発した頃に、明かりが現れ下り方面へと進んで消えた。

僕の勝ちですね。

アハハ、慣れないことはするものじゃありませんね。


「ちょうど長尺曲ですし、頃合いも良いのでしょうね」

煙草に火をつけてから紫煙をくゆらし、そしてややあって、彼は話を始めた。

「秘密も秘密。ひとつ話をお聞かせしましょう」


「とても恥ずかしいことですがね、私は昔ぐれていたんですよ。不良という奴ですね。ともに悪いことをするパートナーがいたのですがね、私は彼を殺してしまったのです」


「え、どういう」

「私は話下手なんです。どうか遮らずにお聞きください。もちろんそれはあやでもなんでもなく、私の過失によるものです。が、信じる信じないは、お任せしますよ。なんせ荒唐無稽に響くでしょうからね」


「私はその彼と組んで荷物の配達をしていたのです。そうして魔が差して、それを横領するようなった。一度にたくさんを運ぶのです。ばれようもない。そうしてくすねた少量を、また別の人間に売って儲けていたのですね。しかし手広くやりすぎた」


「もちろんその荷というのは宜しくない物でね、私たちはある日、仕事だというので指定された場所へ行ってみると、たちまち組み伏せられてしまった。散々殴られてねえ。聞かれたんです。さてどちらが首謀者だと」


「私は恐くって彼を指差した。彼はなんのアクションも起こさなかった。私は解放された。彼は、その時以降見かけなくなった」


「おや、ボーカル曲になりましたね」

飲み助は笑み、燃え落ちそうな煙草を慎重に摘み上げ、だが吸い込むことはせず煙をふぅと中空へ吐き出した。思うより白く浮かび上がったそれは、しばらく僕たちの眼前をたゆたうと、風向きの変化に振り込んだ雨粒のなか霧散していった。

「これはB.I.G JOEですね」

まさに、煙に巻かれる。違いない。


今日はこれでお被楽喜となった。

口中の甘い余韻に反し、なんだか考えることの多い夜となった。

あの高等遊民は正直になんて話していないだろう。けれど最後のあの曲。それまでと毛色が違うというわけでもないのに、ただラップが乗っていたというだけで、男の過去にリアリティを加味するかのよう。


帰り着き傘を畳むと先日の光景が思い起こされた。だが、降雨。生き物の気配、蛙。他、なし。

無粋、ねえ。

「おやすみなさい」

そのすぐ後に飛翔せし雉を見ることなく、僕は部屋に入る。

今宵はこれまで。

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