第三夜
やはり彼はいるのだろう。
仕事には慣れた。
お局たちからの睨めあげるような目線にも耐性がついた。上司は怒鳴らなくなった。もっともこれは、不能者のレッテルを貼られたからかも知れないけれど。
客から理不尽なクレームをつけられて2時間も拘束され、それを招いたのは君なんだから終わらなかった仕事はサービス残業していってねと、話の通じぬ人非人どもに苛め抜かれた夜だ。
奴らの脳みそに六法全書を捩じ込んでやりたい。いや、妄想でなら何度もそうした。毎晩の肴はそれだ。加えて今夜は、道理も知らぬ馬糞(件の客だ、もちろん)の口に算数ドリルを押し込む空想でもって、アルコールを流し込んだ。
あれだけ常識を持ち得ていないのなら、六法全書だなんて馬に念仏だからね。それとも漢字ドリルの方が良かったかしらん。
狭い部屋で1人安酒を煽っていると、過去ばかりが無性に思い起こされてならない。
それももっぱら学生時代のことばかり。
ああ、どこで間違ったというのだ。
人生もボードゲームの樹形図のごと俯瞰できれば良いのに。
もう冬だ。師走だ。
こんな時間に外へ出るものじゃあない。
風はなけれど、頬に触れる外気はしっかりと体温を奪っていく。
僕は馬鹿じゃなかろうか。
こんな夜に、こんな季節に、それでも彼はいるだなんて。
例の場所までくると、やはり、微かにあの変質者の気配がした。
わざと音を立て金蓋を押し上げたが、身じろぎした様子もない。
「久しぶりですね。お元気でしたか」
見透かすような彼の視線。
対し、もう上手く笑えていないのではないか、切り貼りしたかのような僕の表情。
「ご無沙汰しています。やはりいらっしゃいましたね。寒いでしょう」
「けれどそこが良いんですよ。酒も煙草も」
「寒い方が美味しいですか」
「ええ。それに、星も、立ち上る音も、町あかりも、音楽の闇に消え行く様も、冬のほうが愛おしい」
眼前、山にかかるようにしてオリオン座が仰ぎ見えた。
彼は言う。
「今夜はウイスキーばかりなんですよ。お供は、まずこれはbonoboですね。どうぞ」
差し出した一杯に、彼はスポイトで水を垂らした。それはBGMの合間に溶け込んで消えた。液面の波紋まで見えたかのように錯覚した。
「ボウモアの18年です」
乾杯。
仕事には慣れた。
女性社員の陰口や、先輩社員からの愚痴を聞き流す術も会得した。やっと研修期間が終わる。
人を殺したのだとか言う変質者の、間の伸びた口調がひどく苛立ちを誘った。
予想できたことだのに。
それでもここに来たのは何故だ。
「今のあなたにはこちらの方が良いのでしょうね。ポートエレンの1979。香草の香りを味わってみてください。BGMも変えましょうかねえ」
「それは、どんな」
音楽は切り替わった。
彼は返事の代わりに人差し指を立てた。
どんなお酒かも、どんな音楽かも、僕にどんな心気を見て取ったのかも、答えてはくれなかった。
ただ、「8th wonderの曲です」とだけ発してくれた。
酒はおいしくなかった。何か物足りない。そしてうがい薬を飲み下したかのような変な飲み口。
音楽も耳を素通りする。
この男の選別にこんなミスがあるだなんて。
僕はグラスを置くと場を立った。
男は笑んだ。
なんの笑みだ。
部屋に帰り着くとすぐに布団へ飛び込んだ。
まん丸お手玉のごとくの雀が飛び去ったが、苛立ちとともに鍵を開ける僕は知りもしなかった。
その雀がじっと部屋の扉を見つめる。
僕は、バイソングラスの後味を感じながら目をつぶり、待つ。
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