地獄の魔物5

 全く以て出鱈目な強さだと、ミリオンは感嘆とも呆れとも付かない気持ちを抱いた。

 ムスペル。

 北欧神話に登場する炎の巨人の名前を与えられるとは、随分と大袈裟な奴等だ。しかし感じ取れる力は決して名前負けしていない。いや、むしろこれは巨人というよりも神々と呼ぶ方が相応しかろう。

 ロシアの地に現れたムスペルは、人間達が放った水爆をその身にしかと受けている。正確な数は不明だが、ミリオンが数えた限りではざっと二百数十発。焦土と化した範囲から推定するに一発数メガトン級の代物だ。大まかな計算ではあるものの、合計一千メガトン相当撃ち込まれたようである。半径数キロは草一本どころか、溢れ出した溶岩すら残っていない。全く容赦のない事だ。

 しかしムスペルは今もピンピンしている。いや、それどころか『活性化』したようにミリオンには感じられた。自分と同じく熱エネルギーを活用する術を有しているのかも知れない。

 怪物の多くには、ちょっとやそっとの水爆は通用しない。多くの核保有国が『実験』し、その結果は日々テレビニュースや新聞報道に載っているためこれは確かな事だ。しかしながらこれほどの核を喰らいながら怪我一つ負わないとなれば……ムスペルの力は並の怪物の域を超えている。

 恐らくは奴等の力はミュータント、それも戦闘能力に優れた種に値するだろう――――これがミリオンが推し量った『一般的』なムスペルの力だ。

 ロシアの大地に現れたこのムスペルは一般的な、つまりミュータント化していない個体だろう。何故そう思うのか? 難しい話ではない。体長五百メートルという出鱈目なサイズの生物がミュータント化したなら、一般的なミュータント程度の強さで済む筈がないというだけの事だ。

【……バルルルル】

「ふぅん、こちらが小さいからって油断はしないと。厄介ねぇ、こういう動物は退き際を見誤らないから」

 目玉などないが睨み付けるように顔を向けてくるムスペルに、空中を漂うミリオンは肩を竦めながら独りごちる。しかしその視線をムスペルから逸らそうとはしない。

 草木一本生えていない焦土にて、二体の『化け物』が無言で向き合う。ムスペルは両腕に当たるヒレを広げ、どっしりと大地に構える。ミリオンは浮遊高度を三十メートルほどまで下げつつ、直立不動の姿勢を維持していた。ミリオンとムスペルの距離はざっと一キロほど。人間に限らず多くの動物において、それだけ離れている生物を認識しておく必要はないが……体長五百メートル超えのムスペルと戦うとなれば、むしろ近過ぎるぐらいの距離感だ。

 場には未だ核の力が残っているのか、炎のように熱い風が吹き荒れる。人間ならば防護服なしでは直ちに火傷を負い、命を奪われる苛烈な環境。しかし二体にとってはそよ風でしかない。ムスペルもミリオンも淡々と、されど劇的に闘争心を燃え上がらせ、己が力を高める。じりじりとした殺気が周囲を満たし、穢れた空気を張り詰めさせていく。

 その中でミリオンは、にやりと笑う。

 確かに恐るべき生命体だ。ミュータントではないのにミュータント並の力があるのだから。人間ではどう足掻いても勝ち目などない、圧倒的超生命体と言えよう。

 

 自分は、そんじょそこらのミュータントよりも遙かに強いのだから。

【バルォオオオオォンッ!】

 最初に動き出したのはムスペル。楽器を叩き鳴らすような重厚感のある咆哮を上げた

 刹那、ムスペルの口から透明な『何か』が発せられる!

「むっ……!」

 人間の目には捉えられない『何か』。されどミリオンは迫り来る『何か』を前にして、己が身を強張らせた。

 周りの分子が発熱している。

 ミリオンの『赤外線センサー』は世界の色合いが変わっていくのを見逃さなかった。素早い動きは得意ではないが、人間ほどすっとろくもないミリオンは即座にその場から飛び退く。

 一キロほど距離を取っていた事が功を奏し、ミリオンは飛んでくる『何か』を間一髪で回避。しかし安堵する暇はない。すぐにその身を翻し、ミリオンは自分の居た場所を通過する『何か』を解析した。

 答えはすぐに判明した。分子、或いはそれよりも更に小さな単位の粒子を……そんなエネルギーを撃ち出してきたのだ。どのような原理の代物かは不明だが、ミュータントではないこの個体に使えるという事は、ムスペルにとっては標準的な力らしい。名付けるならば振動波とでも言うべきか。

 この技の威力は凄まじい。振動波の通過した大地が、一瞬にして溶解するほどだ。土塊は紅蓮の溶岩となり、扇状に広がった『大河』を形成する。それも百メートルや二百メートルなんてものではない。ざっと十キロは伸びている。水爆により吹き飛んだ溶岩の海が、瞬きしている間に蘇ってしまった。

 粒子を震動させる……運動量を与える事で加熱したのだろう。元々は地中で岩盤を溶かしながら進むための能力か? 瞬く間に地面を溶岩に変えたという事は、大地を千五百度以上まで一瞬で加熱したと思われる。原理不明なので確信はないものの、数秒と浴びればあらゆるものがプラズマと化す筈だ。人類文明の産物で、これに耐えられるものは存在し得ない。

 挙句有効射程一万メートル、広範囲に拡散となれば航空機すら簡単に落とせる。しかも本気とは程遠いであろう『最初の一発』でこの性能だ。本気を出せばどうなるか、分かったものではない。

 なんという底知れぬパワーなのか。三十分前の情報ですら最低三十二体も出現しており、今や百体ぐらい現れていてもおかしくないが、人類を滅ぼすだけならこの一体だけで事足りるだろう。

「そうこなくちゃ、面白くないわよねぇ!」

 敵の存在に狂喜するかの如く、ミリオンは獰猛な笑みを浮かべた。

 攻撃を回避したミリオンは空中で体勢を立て直し、超音速で飛行。ムスペルへ突撃する! 接近してくるミリオンを感知したのかムスペルは大口を開け噛み付こうとしてくるが、小回りはミリオンの方が上手。歯と歯の間をすり抜け、ミリオンはムスペルの側面へと回り込む。

「ふんっ!」

 そして無防備な脇腹に、ミリオンは己の拳を叩き付ける!

 本来、ミリオンは肉弾戦が最も苦手だ。ミィどころかフィア相手にも、恐らく格闘戦では勝ち目がない。無数の個体の寄せ集め故に、筋肉などの専門的器官を持たない事の弊害だ。

 だが、ミリオンにはそれを補う技術がある。

 全身を形成する個体から熱を生成し、拳の一点へと集中。集まった高密度の熱エネルギーを能力により運動エネルギーへと変換する。そして運動エネルギーを明け渡すのは、刃のように突き出された手の先にある大気分子。

 運動エネルギーを纏った分子は直進し、正面にある分子を押し出す。押し出された分子は、更に前の分子を押し出していく。連鎖する衝突の中で空気は圧縮され、手の形――――刃のようになり、音速の数十倍の速さで相手に突き刺さる。

 ちゃんと名付けるならば超圧縮大気ブレード。

 ノリで名付けるならば、見えない超強力パンチだ!

【バ、ルオオオオン!?】

 ミリオンの超圧縮大気ブレードを受け、ムスペルは呻きを上げながら仰け反る。一千メガトンもの水爆を平然と乗り越えた身体に、確かなダメージを与えた証だ。

 しかし致死には遠く至らない。

 ムスペルは五百メートル以上あろうかという巨体を大きくしならせ、ミリオンにタックルを仕掛けてきた!

「ぐっ!」

 両手を身体の前で交叉させて受けるも、ムスペルの巨躯と激突したミリオンは弾丸以上の速さで吹き飛ばされ、溶岩の海へと叩き付けられる。水爆の直撃を不動で耐えたミリオンが抵抗すら儘ならない。衝突時の衝撃により溶岩が爆発したかの如く舞い上がり、何百メートルもの高さの溶岩柱を作り上げた。

「まだまだぁ! こんなもんじゃ足りないわよ!」

 されどミリオンを怯ませるほどの力ではない。ミリオンは溶岩のど真ん中にて、溶岩を掬い上げるように両手を振るう。

 再び放つ超圧縮大気ブレード。だが此度加熱する粒子は空気ではない。

 溶岩こと大地の主成分であるケイ素を気化させたもの。大気の主成分である窒素と比べ、ケイ素は倍近い重さを誇る。十分なエネルギーを蓄積させ、大気の時と同じ加速度を持たせれば……その威力は倍になるのだ!

 ミリオンが振るった手先より放たれる、超速の刃。これを避けられる生物は、ミリオンの動体視力を遥かに上回るミィぐらいなものだ。巨体故敏捷性に欠けるムスペルには回避不可能。

【バルォオオンッ!? バル、バルルルル!?】

 脳天に刃の直撃を受け、ムスペルは大きく仰け反る。余程痛むのか身体をくねらせて大暴れ。その度に大地が激しく揺れた。

 暴れるだけで地震を起こすとは、スケールの大きな生物だ。だが地震風情でミリオンを止める事など叶わない。

「おまけでもう一発!」

 ミリオンは再び超圧縮大気ブレードを撃つ! 目指すはのたうち回るムスペルのど真ん中であり、

 撃ち出した瞬間、ムスペルがその場から退

「な……!?」

 ミリオンは驚愕した。

 ミリオンとて雑な攻撃を放ったつもりはない。のたうつ動きを観察。こちらから視線を外し、尚且つ体勢を崩した時を狙って超圧縮大気ブレードを撃ち込んだ。どのタイミングで察知しようが絶対回避出来ない……とはもう言えないが、ほぼ確実に命中する筈の攻撃だった。

 なのにムスペルは捩らせた身体を一気に伸ばし、その反動で身体を跳ばしたのだ。強引な回避方法もさる事ながら、こちらの超音速攻撃を感知した事の方がミリオンは気に掛かる。一発目二発目はろくな回避運動すら出来なかったのに、どうして三発目だけはああも的確に躱せたのか。

 考えられるのは、三発目の超圧縮大気ブレードにだけムスペルの本能を強烈に刺激する『何か』があったという可能性だ。例えばフィアは頭上からやってきた気配ならば、光速の数パーセントもの速さで飛来する金属塊さえも易々と躱せる。ムスペルにも似たような力があったのだろう。ならば一体何が奴を刺激したのか……

 ミリオンは聡明だ。フィアやミィに比べれば遙かに。だからこそ『謎』を前にすると僅かに考え込み、動きが止まってしまう。

 野生の世界で生きるムスペルが体勢を立て直すには、その僅かな時間で十分だった。

【バルォオオオオオオオオオォン!】

 超圧縮大気ブレードを躱して間もなく、ムスペルは咆哮を上げる!

 次の瞬間、ドーム状に熱が広がった。

 全方位への振動波攻撃だ。ムスペルを中心にした半径十数キロが加熱。大気はプラズマ化によりスパークし、大地は液化し溶岩へと変貌する。

 接触すれば如何にミリオンとてダメージは避けられない。しかしドーム状に広がるとなると、横に移動して回避……という訳にもいかない状況だ。おまけに振動波の拡大スピードはかなりのもの。ミィなら全力で後退すれば振りきれるかもだが、ミリオンの速さでは到底間に合いそうにない。

「これでどうかしらっ!」

 そこでミリオンが選択したのは、自身の周辺原子を『加熱』する事だった。

 振動波は物体を振動させる事で熱している。即ち正確には加熱ではなく、原子を一定周期で振動させているだけ。仮に超低温の空気を周りに囲っても、振動波を止める事は敵わない。それは例えるなら津波に対し水の壁を用意するようなもの。水の壁は津波を止めるどころか、津波の一部となって守るべき対象に襲い掛かるだろう。

 しかしあえて加熱……原子を振動させればどうか? それも振動波の波形と上手くものを用いればどうなる?

 答えは振動波と原子の揺れが干渉し合い、互いの振動を掻き消す事になる。

 ミリオンが展開した超高温の空気が振動波とぶつかり、互いに波長を打ち消し合う。触れればプラズマ化するほどの高温大気は、振動を相殺した事で静止状態――――つまりは超低温へと遷移。一瞬にして絶対零度へと変化する。

 冷却された大気は液化し、透明な液体や青色の液体が地面に落ちた。振動波もまた打ち消されて消失する。振動波が接したのはほんの一瞬だけ。一瞬打ち消せれば、続けてやってくるものはない。

 ミリオンは難を切り抜け、にやりとほくそ笑む。ムスペルにその笑みは小さ過ぎてまず見えていないだろうし、見えたところで意味など理解出来ない筈。しかし自身の放った攻撃が打ち消された事を理解する……そのぐらいの知能はあるらしい。驚いたように身体を強張らせ、ずるずると這いずるようにムスペルは後退りする。

 その隙を逃すつもりは、ミリオンには毛頭ない。

「今度は、こっちからお返しよ!」

 ミリオンは四股を踏むかのように、大きく足を大地に叩き付ける!

 ミリオンが踏み付けた場所より、放射状に広がっていく『力』。それは大地や大気にこれといった変化を起こさないが……されど決して優しいものではない。

 原子共振破壊波。

 一年以上前、ミリオンがアルベルトとの戦いで身に着けた力だ。特定の原子のみを選択し、破壊する事が出来る共振波を放つ……どんな物質で出来ていようが防げない破滅の一撃である。

 此度放った共振波は、炭素を選択して破壊するもの。地中奥深くに潜むムスペルの生体構成元素は不明だが、地上生命と同じ起源の生命体ならば炭素化合物タンパク質で出来た存在の筈だ。肉体を形成するタンパク質を分解すれば、如何に水爆に耐えられる生命体でも即死は免れない。

 共振波は他の原子には干渉しないため、ムスペルが放った振動波と違い、原子の振動高熱という『予兆』も生じない。精々大気中の二酸化炭素が分解され、酸素濃度が増える程度だ。接触前の感知はほぼ不可能であり、必然回避も出来ない。

 ムスペルはミリオンの行動の意図が分からずその場に立ち続け――――ミリオンが放った振動波の直撃を受ける!

【バルギィオオオオオオオオ!?】

 ムスペルの全身の表皮が弾け飛び、マグマのように赤い血液が噴き出す。あたかも全身の生皮を剥がされたような傷であり、紫色の筋肉が丸見えだ。これだけの深さの傷となれば相当の痛みを伴うのは当然であり、ムスペルは苦悶の叫びを上げる。叫びは遙か彼方まで響き、大気のみならず大地さえも震わせた。断末魔と呼ぶに相応しい絶叫だ。

 しかしミリオンの表情は、沸き立つ警戒心により強張る。

「(コイツ、なんらかの方法で共振波を防いだわね)」

 本来なら、皮が引っ剥がされる程度で済む筈がない。傷は真皮を貫き、内臓まで粉砕する……簡単に言えば全身がぐずっと溶けながら爆散するのが『正しい』結果だ。そうならなかったという事は、なんらかの防御を試みたという事に他ならない。振動波を用いて強引に波長を中和したのか、この戦いでは見せていないなんらかの能力を用いたのか。用いた原理はミリオンにもさっぱり分からないが。

 無論全身の皮を剥げば、十分に致命傷だ。人間、いや、大抵の動物ならごく短時間で死に至るだろう。

 だがコイツはまだまだ当分は死にそうにない、否、こんなものでは死に至らないとミリオンは感じた。

【バル……ルルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォンッ!】

 一際大きな咆哮。それと共にムスペルの全身の筋肉が波打ち、

 次いで膨れ上がった筋肉はボコボコとした肉塊へと変化し、さながら皮膚のような質感へと変わる……否、さながらではない。

 本当の皮膚だ。ムスペルは驚異的な速さで肉体を再生させているのである!

「ちっ! ミュータントじゃないのにどんだけ多才なのよコイツ!」

 悪態を吐きながら、ミリオンはもう一度共振波をぶつけてやろうとする。多少防がれはしたが、大きなダメージは与えたのだ。ならば二発三発と立て続けに喰らわせれば、傷は奥深くまで浸透する筈。そうすれば十分に勝機はある。

 ミリオンの考えは実に正しいものだった。正しいからこそ、に違いない。

【バルォオオオオオオオォォンッ!】

 傷の再生も程々に、ムスペルは三度目の振動波を放つ。ミリオンに一発目として放ったものと同じ、直線的な照射だ。

 ただし今度はミリオンに向けてではなく、己が立つ大地に向けてであったが。

 振動波を受けた大地は、一瞬にして溶岩へと変化。ぐつぐつと煮えたぎる液体に、ムスペルの身体を浮かせるほどの浮力はないらしい。ムスペルの身体はずぷりと沈んでいく。

 ムスペルもまた身体をくねらせ、自ら作り上げた溶岩に頭を突っ込ませる。身体の動きと自重により、溶岩はムスペルの全身を呆気なく沈めた。風呂から零れるお湯のように溶岩が噴き出し、周辺の大地を埋め尽くす。

 時間にすればほんの一~二秒の出来事。

 その間に、ムスペルはミリオンの前から姿を消してしまった。ミリオンが二発目の原子共振破壊波を放つ、コンマ数秒前の出来事だ。

「……逃がしちゃったわね。やれやれ」

 ミリオンは肩を竦めながら足先に溜めていた破壊の力を霧散。己の失態を素直に受け入れる。

 勝てるかどうか分からない、むしろ分が悪い相手との戦い……負けられない理由があるならば兎も角、そうでないなら逃げるのが得策だ。実に合理的な選択である。人間ならプライドがどうたらこうたら、指示がなんたらかんたら、守るべきものが云々かんぬんなどと言うところかも知れないが、そんなものが許されるのは人間社会だけだ。野生でそんな感性はなんの得にもならないし、返って不利益を被る。命あっての物種というやつだ。

 実際ミリオンとしても、ムスペルに逃げられてしまうのはちょっと困る。確かにムスペルの戦闘力や能力など、生態を探るという意味では先の戦闘により目的はしかと達した。地中へ追い払う事で、地上環境がこれ以上激変するのも多少は食い止めたといえる。

 しかし倒せなかった。

 もしもここで仕留めて死骸を回収出来れば、より多くの情報が得られた筈だ。生理的な、或いは構造的な弱点も見付けられた可能性がある。その弱点は恐らく東京に現れたムスペル……ミュータント化したと思われる個体にも有効な筈だ。いや、むしろそうした情報なしに挑むのはほぼ自殺行為である。

 何しろムスペルはミュータント化せずともミュータント並に強い。そこらのインフルエンザウイルスが、ミサイルどころか水爆すら受け付けない強さになるのがミュータント化だ。この戦闘力強化の倍率をムスペルに掛けたならどうなる事やら。もしも東京に出現した個体が本当にミュータントならば、正直真っ向勝負では勝てる気がしない。

 フィアやミィが他のムスペルを仕留めてくれていれば、自分の失態は大した問題ではないのだが……

「期待は、出来ないわねぇ」

 ミリオンは正直な考えを口に出す。『最強』であるこの自分にも為し得なかった事だ。相性云々を考慮しても、あの二匹に出来るとは思えない。

 ……数秒ほど考え、ミリオンは悩みを思考の隅へと寄せる。

 元より絶望的な戦いだ。そう簡単に打開策が見付かれば、それこそ自分達が間抜けという話である。今は出来る事から一つずつ片付けていくしかない。

 この地のムスペルから得られる情報は、もう十分に得られた。花中達と合流し、こちらの情報を渡して話し合おう。何か、新しい知見を得られる可能性がある。

「それに……人間の目には今の戦いがどう映ったか、ちょっと気になるしね」

 ミリオンは両腕を広げ、子供が飛行機の真似をする時のようなポーズを取る。

 ただしミリオンの場合、これで本当に空を飛べるのだが。

 空気を加熱し、その膨張による作用を推進力にしてミリオンは飛ぶ。速度はざっと時速三千五百キロ。これでも本気からは程遠い速さだが、一秒で一千メートルほど突き進む超スピードだ。百キロ離れた地点まで飛ぶのに、二分も掛からない。

「お待たせー」

「遅いっ!」

 だからムスペルが逃げてから左程経たずに戻ったつもりなのだが――――遠くに逃がしていた晴海は、涙目になりながら文句を言ってきた。

 地上からの高度約九百メートル地点。分離したミリオンの『一群』が絨毯のように展開している上に、晴海は所謂女の子座りの体勢で居た。この高度ならば地平線はざっと百十三キロ先であり、百キロ離れた地点でのミリオンとムスペルの戦いは観測出来た筈。

 勿論これだけ距離があると五百メートルあるムスペルの姿でも、小さくてろくに見えないだろうが……絨毯のように展開している一群の上には『双眼鏡』が用意されている。あの双眼鏡はミリオンが集結したものであるが、本物よろしく遠方の景色を拡大表示する事が可能だ。むしろ人間が作ったものよりもコンパクトで軽量、そして高性能である。

 双眼鏡を用いていたなら、こちらが勝った事は見えていた筈。なのに中々戻ってこなくて不安になっていたとすれば……この子も案外可愛いところあるのね、等とミリオンは思う。

 そんなミリオンの考えを、彼女が向ける生暖かい視線から察したのだろうか。泣きべそを掻いていた晴海の顔は、段々と怒りの形相へと変わっていく。

「な、何よその目は! こっちは心配してたのよ!?」

「ああ、ごめんなさいね。別に馬鹿にしていた訳じゃないのよ? ただ立花ちゃんは女の子らしくて可愛いなぁって思っただけ」

「それは馬鹿にしてる以外の何ものでもないでしょぉーが!」

 ミリオンは正直に、ミリオンなりの謝罪をしたつもりだったが、晴海は一層顔を赤くした。そういうところがますます女の子らしいと感じたミリオンは思わず笑みが零れ、晴海は一層ヒートアップしていく。

 ミリオンとて心は乙女の一員。フィアとか畜生ミィとか連中とは違い、割と人間味のある人格をしている。一戦交えて疲労したメンタルを癒やすべく、このまま和やかなガールズトークに洒落込むのも悪くない。

 しかし今はそれよりも。

「ところで立花ちゃん、観察してて何か分かった事はあったかしら?」

 地上世界の危機をどうにかする方が優先だろう。

 ミリオンに問われ、晴海は吐き出そうとした言葉を堪えるように口を閉じる。しばらくは拗ねたような顔をして、やがて困ったような顔になり……最後は申し訳なさそうに顔を俯かせる。

「……あんまり……気になったところが、なくはなかったけど……」

「あら、そうなの? 是非とも聞かせてほしいのだけど」

「う、うん。でも、その、まだ上手く、言葉に纏まらなくて……なんて言えば、良いのかな……」

 ミリオンが話を促してみても、晴海はおろおろするばかり。すぐには話してはくれそうにない。いや、そもそも自分の考えが役立つものだという自信すらなさそうだ。

 無理もない事だとミリオンは思う。もう数えきれないほど人智を超える生命体と接触してきた花中ならば兎も角、晴海はテレビや新聞ぐらいでしかそれらの存在を知らない。実物を見ればその圧倒的力に精神が打ちのめされ、頭が働かなくなるのはごく自然な反応だ。

 無理に言葉を引き出そうとしても頭の中がこんがらがり、記憶を理解しやすいものに改ざんしてしまうかも知れない。現実と異なる情報など無価値だ。出来る事なら早く知りたいが、急いては事をし損じる。

「そう。まぁ、はなちゃん達にも同じ話をする事になるし、今此処で話さなくても大丈夫よ。帰り道で落ち着いて、ゆっくり考えましょ」

「う、うん……ごめんなさい」

「謝る必要なんてないわよ。私なんか直に殴り合ったのに、滅茶苦茶強いぐらいしか分からなかったんだから」

 申し訳なさそうにする晴海に、ミリオンはおどけた答えを返す。すると晴海はくすりと笑みを零した。完全に心の暗雲が晴れた訳ではなさそうだが、笑みを浮かべられる程度には余力を取り戻したようである。

 考える時に大切なのは冷静さだ。慌てふためきながら考えれば、誤った思考の結び付き方をしかねない。落ち着いた、今の精神状態でじっくりと考えてもらおう。

 とはいえこの極寒の地ロシアの北部で考えていては、風邪を引いてしまうかも知れない。それはそれで思考力を奪い、考えを滅茶苦茶にするものだ。下手をすると値千金の記憶が吹っ飛びかねない。直ちに暖かで安全な場所に戻るべきである。

 だからミリオンはパチンと指を鳴らした――――のと同時に、晴海が乗っている『自身』の形を変形させる。

 突然の動きに晴海は反応すら出来ず、絨毯のように広がっていたミリオンは球体を模る。人の姿を取っていたミリオンは球体と合体。黒い物体だけがふわふわと空に浮かぶ。

「……あれ?」

 キョトンとする晴海。何が起きたのか、これから何が起きるのか、何も分かっていない様子だ。

 ミリオンは割と親切である。フィアやミィに比べれば遙かに人間を理解し、その思考回路をよく把握していた。このまま何も説明しなければ晴海が取り乱すと、容易に想像出来るほどに。

「さぁ、日本に戻るわよ。行きよりも速いスピードで」

 だからミリオンは説明した。

 故に晴海は顔を青くした。

 日本の関東圏からロシアのマガダンまでの距離は約三千キロ。ミリオンはこの距離を、行きは約三十分……時速六千キロものスピードでかっ飛んできた。普通の人間なら死ぬような速さだが、ミリオンは晴海の体内へと侵入し、内側から細胞を支える事で彼女の身を守っている。例え時速六千キロ以上の速さで飛ぼうと、同じ事をすれば晴海の身はちゃんと守れるので問題ない。

 ただ、三半規管は慣性やらなんやらで色々大変な事になるだろうが……生憎ミリオンはそこについては一切気にしない。

 何しろ三半規管など持ち合わせていないので、それを狂わされる事がどれだけしんどいのか、まるで理解出来ないのだ。

「え、ちょっ!? ま、待って、それはほんとキツ」

「時間があるとは限らないから却下。大丈夫よ。速ければ苦しむ時間はもっと短くなるから、多分さっきより楽よ」

「そ、それでも数十分は掛かるでしょがごぶっ!?」

 晴海の抗議を無視し、ミリオンは空を駆ける。

 乙女の体内から溢れ出したものが日本海に注がれたのは、それから数分後の事であった。

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