大桐玲奈の襲来2

「いやはやあなたが花中さんのお母さんとは思いませんでしたよ。全然似てませんし」

 自分のした事を特に反省する様子もなく、フィアは暢気に自分の感想を述べる。

「あははっ! いや、私もまさか娘の友達がこんなに強いとは思わなかったわ~。組み伏せようとしたのに、逆にやられたのは初めてよ」

 そんなフィアと対する玲奈も、襲われた事などすっかり忘れたかのように、けらけらと楽しげに笑い返す。隣には眼鏡を掛けた女性が、苦笑いを浮かべていた。

「もぉー、帰ってくるならちゃんと帰ってくるって言ってよぉ!」

 そして花中は、嬉しさやら憤りやら呆れやら、様々な感情がごった煮となった叫びを上げる。

 大桐家リビングにて花中は母の玲奈と、玲奈が連れてきた助手 ― 夢路ゆめじさかえというらしい。半月前から玲奈の助手として雇われた新人だとか ― と共に、テーブル席に着いている。フィアとミリオンも同席し、三人と二匹でテーブルを囲んでいた。本来このテーブルは四人席なので椅子が足りないが、フィアが花中の後ろに立ち、抱き付く姿勢でいる。

 ちなみに花中は母である玲奈に、エアメールなどで「訳ありの友達を家に住まわせている」という説明でフィア達の存在を伝えてある。人外であるとは流石に書かなかったが、その性格などについては話のタネとして何度も書いておいた。その甲斐もあってか、玲奈は既にフィア達と打ち解けている様子だ。一時はどうなる事かと思ったが、仲違いなどなくて花中は安堵する。

 不安がなくなれば、後はもう衝動に突き動かされるのみ。母とは約三年ぶりの再会だ。話したい事は山ほどあるし、話してほしい事もたくさんある。

 何より、何故いきなり帰ってきたのかを知りたい。両親が国外へと旅立ったあの日の記憶に誤りがなければ、は帰ってこないと聞いた。あの日は確か一月だったので、間もなく三年を迎える頃ではある。しかし過去の経験からして、長期の出張は予定よりも遅れる方にズレるのが何時もの事。そこから更にプラス一年は伸びてもおかしくないと思っていた。そもそも帰ってくるなら一報ぐらいある筈だ。何故急に帰ってきたのだろうか? その疑問を感情に突き上げられるようにして吐き出したのが、先の叫びであった。

 ところが玲奈は、花中の疑問に首を傾げる。何故花中が困惑しているのか、全く心当たりがないかのように。

「あれ? 五日ぐらい前に、パソコンの方にメール出した筈なんだけど。もうちょっとしたら家に帰るよーって」

「え? ……えと、そんなの、来てましたか?」

「んー? なかったと思うけど」

 母からの意外な回答に、花中は普段からパソコンを共有しているミリオンに尋ねてみる。が、ミリオンの答えは花中と同じもの。お陰でますます混乱してしまう。

「あの……玲奈さん。そのメールって、確か環境的な問題で送れなかったから、日本に着いてから送るーって言ってたような……」

 その疑問の答えは、おどおどした栄が教えてくれた。

 花中はジトッとした眼差しで母を見遣る。玲奈はその眼差しから逃げるように天を仰ぎながら、あー、と今になって思い出したと言いたげな声を漏らした。

 やがて完全に思い出したのか。玲奈は花中に向けてぺろりと舌を出した、「やっちゃった♪」という暢気な感情しか読み取れない表情を見せる。

 花中の案外脆い堪忍袋の緒は、あっさりと切れた。

「もぉー! ママは何時もそーいうところ雑なんだから!」

「いやー、悪い悪い。今度から気を付けるからさ」

「それ毎回言ってるじゃないっ! 毎回言って、直った事一度もないでしょ!」

「そ、そんな事ないわよ。ほら、標本とかちゃんと整理するようになったし……」

「アレは整理って言わないの! 積み上げてるだけじゃん! 昔は積んですらいなかっただけでしょ!」

「ううぅぅ……栄ぇ、娘が母に厳しいわ。これが所謂反抗期というやつなのかしら?」

「いや、極めて真っ当な娘さんじゃないですか。とても玲奈さんの娘さんとは思えません」

「ちょ、それ酷くない!? いくら私でも今のは傷付くわよ!?」

「普段の自分の言動、振り返ってから傷付いてください。というより玲奈さん、家ではちゃんとしてるって言って、職場だと全開でだらしないですよね。サンプルとかの管理、全部こっち任せだし」

「……ママ? 家ではだらしなくても、仕事場ではちゃんとしてるって、言ってなかった?」

「あわ、あわあわわわわわ……」

 見た目小学生ぐらいの小さな娘に詰め寄られ、平均的な大人の女性である玲奈はあからさまに狼狽。

 言われずとも分かっていた事だが、それでも花中は腹を立てる。大人なのだから、そして『親』なのだから、もっとしっかりしてほしいと。

「もうっ! ほんと気を付けてよね!」

「はい……ごめんなさい……」

 なので最後にビシッ! と叱り、玲奈はしょんぼりしながら謝った。

 ……その後、花中の身体はそわそわと揺れ動く。チラチラと玲奈の方を見て、物足りなさそうに眉を下げ、口許をもにょもにょと動かした。

 確かに母はだらしないところのある人だ。勢いで行動して、それに振り回された事も一度や二度ではない。

 しかしそれでも玲奈は、花中にとって三年ぶりに再会した肉親だ。再会出来て嬉しくない訳がない。出来れば今すぐ跳び付いて、たくさん甘えたい。けれども怒ってしまった手前、ちょっとやり難い。

 気持ちを抑えきれずそわそわしていると、ミリオンや栄がくすりと笑った。フィアだけが首を傾げ、花中の挙動不審ぶりを訝しんでいる。

「……ねぇ、花中。お母さんちょっと花中成分が足りなくてやる気が出ないから、花中の事、ぎゅーってしても良いかしら? させてくれたら、今度からちゃんと出来そうな気がするの」

 そして玲奈は優しく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら両腕を広げた。

 花中の顔は一瞬で花開いたような満面の笑みに代わる。椅子から立ち上がり、抱き付いているフィアの腕からするりと抜けて、そそくさと玲奈の下に駆け寄った。それから十分に近付く前にジャンプ。玲奈の胸元へと跳び込む。

「えへへへへー。もぉ、仕方ないなぁ。ママは甘えん坊なんだからぁー」

 口では渋々とばかりに、けれどもその顔をとろんとろんに蕩かしながら、花中は母の胸に顔を擦り付ける。玲奈は抱き締めてくる娘の頭を優しく撫でながら、心底幸せそうに目許を和らげた。

 実に微笑ましい、親子の仲睦まじい姿。ミリオンと栄も、和むように微笑む。

「うぎぎぎぎぎ……!」

 ただ一匹、フィアだけが悔しそうな眼差しで睨んでいたが。

 尤も母親とべたべたするのに忙しい花中は、一番の友達からの視線に気付かない。それに今更ながら確認しないといけない事がある。

 玲奈の滞在期間だ。昔から仕事ですぐ海外へと行っていた母の事。今回の帰宅も、何時まで家に居るか分かったものではない。

「あっ、そうだ! ママは何時まで家にいるの?」

「ん? そうねぇ、今回はちょっと家に寄っただけだから、一週間ぐらいかしら」

「一週間……」

 言葉にするとより一層、あまりの短さに気持ちが落ち込む。しかし明日には家を出るという訳ではないのだと、前向きに考える。一週間もあれば、色々出来る事もあるではないか。

 例えばこの三年間で大きく成長した筈の、料理の腕前を見てもらうとか。

「うんっ、分かった。えっと、晩ご飯はうちで食べるよね?」

「ええ、勿論そのつもりだけど」

「なら今日の晩ご飯、わたしが作るから!」

「あら、そう? 久しぶりの花中の手料理だから、とても楽しみだわ」

「えへへ。じゃあ、準備してくるから、ゆっくりしててね!」

 花中は玲奈の胸元から離れると、キッチンに爛々とした駆け足で向かう。

 母の好きなものはなんだったか。確か野菜があんまり好きじゃない、ガッツリとした肉食系だった筈。なら今夜の料理はお肉メインの……

 うきうきとメニューを考える花中だったが、その思考を妨げるように自分の身体を抱き締めてくる感覚に見舞われる。なんだと思い後ろを振り返ると、自分の身体に腕を回し、ぴたりと密着した状態で仏頂面を浮かべるフィアが居た。花中と目が合ってもその顔を微動だにさせず、かなり不機嫌である事が窺い知れる。

「えと、フィアちゃん? どうしたの?」

「……むぅー」

「え? あ、ちょっとフィアちゃん? 抱き付くのは良いけど、ちょっと、キツ、き、ききぎぎぎぎぎ……!?」

 不思議がっていると、フィアは段々と花中を強く抱き締めてきた。最初はちょっと強めで済んだが、数秒で苦しい、というより痛いの領域に達して花中は苦悶の声を上げる。が、フィアは中々力を弛めてくれない。というより力の高まりが止まる気配すらない。

「こーら、はなちゃんをそのまま絞め殺すつもり?」

 ミリオンがフィアの背後からツッコミを入れなければ、その言葉は案外現実になったかも知れなかった。

 無事解放された花中は、全力疾走したかのように息が乱れる。アピールではなく本当にそのぐらい苦しかったのだが、しかし元凶であるフィアは反省するどころか更に不機嫌そうに眉を顰めるだけ。苛立った口調でミリオンに言い返した。

「だって花中さんさっきからあの人間にべったべたべったべたしてるじゃないですか! 花中さんの一番の友達は私なのに! ちょっと嫉妬して強く抱き締めるのも仕方ない事です!」

「いや、そりゃあべたべたもするでしょうよ。あの人、はなちゃんのお母さんなんだし。しかも三年ぶりの再会よ?」

「だからどうしたというのですか。人間が親や家族を特別視するのは知ってましたけどあんなに仲良くする必要はないと思います!」

 フィアの力説に、ミリオンは呆れるように肩を竦める。人間であれば、三年ぶりに帰ってきた肉親に娘が甘える図は容易に想像が付くだろう。されどフィアは人間ではない、というより子育てをする種ですらないのだ。テレビや漫画で家族愛を語られても、これまでピンと来なかったに違いない。フィアは親の愛情というものを受けた事もなければ、必要とすらしなかったのだから。

 対して友情は人智を得てからずっと感じてきたもの。親愛の情なる『意味不明』なものに負けるのが気に食わないのだろう。そう思うと花中には、フィアを無理に引き剥がすのも可哀想な気がしてきた。

 何より、親に対して嫉妬してくれるぐらい自分の事を好いてくれるのが、花中としては正直嬉しい。

「えっと、苦しくないぐらいの強さなら、抱き締めてて、良いよ。いっぱい、ぎゅってしてね」

 花中が許しとお願いを伝えると、フィアは一瞬キョトンとしたように呆け、即座に満面の笑みを浮かべながら改めて抱き締めてきた。

 ミリオンは呆れきったため息を吐き、「相変わらずさかなちゃんには甘い」と独りごちる。無論その言葉は花中の耳にも届いたが、友達に抱き締められる感覚への幸福に比べればこの程度の苦言はなんのその。表情はすっかり蕩け、頭の中は嬉しさでいっぱいだ。

 今日はなんて幸せな日なんだろう。

 家族に囲まれ、友達に囲まれ……こんな楽しい日が来るなんて、三年前には想像も出来なかった。夢のようなシチュエーションが現実となったのである。この瞬間を無為に過ごすなんて、あまりに勿体ない。

 ママに喜んでもらうためにも、本当に美味しいご飯を作ろう。最高に美味しいものを一緒に食べて、笑い合って、フィアちゃんがそれにヤキモチを焼いて、フィアちゃんともたくさん遊んで……

「ところではなちゃん、水を差すようで悪いんだけど」

「ぁふぇ?」

 夢心地に浸っていたところ、ミリオンからの言葉で意識を現実に引き戻される。水を差す、との事だが一体なんだろうか? 懸念するような事項など何かあっただろうか……心当たりがなく、花中は首を傾げる。

「冷蔵庫の中身、ジャガイモしかないけど

何を作るつもりなの?」

 そんな花中に、ミリオンは哀れむように尋ねてきた。

 花中は固まる。言われた事を、脳が理解するのを拒んでいたので。脳が理解を拒んだので、何事もなかったかのように冷蔵庫の前まで移動し、開ける。中身は空っぽ。氷温室も冷凍室も空っぽだ。正確には醤油やらマヨネーズやらは入っていたが、噛んで食べる系のものはない。

 最後に開けた野菜室にあったのは、視界を埋め尽くすほど大量のジャガイモ軍団のみ。

「……あれぇ?」

「はい、現実逃避しないように」

 わざとらしく首を傾げる花中の耳に、ミリオンの厳しい言葉が突き刺さった。

 ……………

 ………

 …

 かくして迎えた夕飯時。

「……えと、その……わぁーい、とても美味しそうね! 花中の作った料理は、その、艶が違うわ!」

「あ、うん。ママ、無理しなくて良いから……」

 明らかに頬を引き攣らせ、無理矢理笑顔を浮かべている玲奈に、花中は俯きながらそう伝えた。

 テーブルの上に置かれたのは、茹でジャガ。

 ジャガイモを茹でただけの、シンプルな一品。とはいえ実際に食べてみれば、味気ない料理とはきっと思わないだろう。国内で大量生産された結果、新鮮且つ品質の良いものが数多く出回っている。勿論粗悪なものも珍しくないが、目利きが出来る花中にとって、ものさえあれば良品を見付けるのは容易な事。この茹でジャガも、最高峰の味覚を堪能させてくれる筈だ。

 ……等々語ったところで、テーブルの上にジャガイモしかない状況が変わる筈もなく。

「えっと……もしかして、振り込むお金、足りなかった? ごめんなさい、お母さん達最近の日本の物価には疎くて……」

「ふぇ? え、あっ、違うよ!? お金が足りないんじゃなくて、ちょっと買いそびれちゃって……」

 あまりにも貧相だからか、生活費が足りないのだと勘違いされてしまった。慌てて訂正する花中だったが、しかし『買いそびれた』と呼ぶにしても寂し過ぎるラインナップ。玲奈は眉を顰めてしまう。

「多分、流通量そのものが少ないんじゃないですか? 日本の食料自給率って元々低かったのに、最近だと怪物の大量発生で輸入が儘ならないのかと」

「あ、そゆこと?」

 栄が補足するように説明してくれた事で、玲奈はようやく納得した。

 とはいえ今度は栄の方が、悲しむような表情を浮かべたが。

「……正直、ここまで食糧事情が悪化してるとは思いませんでしたけど。まさかジャガイモしかないなんて」

「これでもお国がすぐに政策を打ち出して、実施したお陰でマシなんだけどね。あの政策がなかったら、それこそ食べるものに困ったんじゃないかしら?」

 栄のぼやきに、ミリオンが起こり得た現実を教える。それがますます栄の表情を曇らせ、食卓は暗雲のようや雰囲気に包まれた。

 これはいけない。折角のご飯を暗い顔で食べるなんて、あまりにも勿体ないではないか。なんとかして明るくしなければ……

「ふむ花中さんは確かこういう雰囲気の食卓が嫌いでしたよね? 食べ物の種類が少なくて落ち込んでいるのでしょうか?」

 考えていると、隣に座るフィアがそう尋ねてきた。

 フィアちゃんが食卓の雰囲気を気にしてる? 普段なら考えられない事に驚きを覚えるも、フィアとの同居生活もなんやかんやで一年半を迎えている。今のフィアなら理解は出来ずとも、花中の気持ちを読み取るぐらいの事は出来るのだ。そしてフィアは花中の笑顔が大好き。どうにかしてその笑顔を取り戻そうとするのは、決しておかしな行動ではない。

 花中はこくりと頷いて肯定すると、フィアは自慢げな笑みを浮かべた。それから自身の纏うドレスの襟元に手を突っ込んで、ごそごそと服の内側 ― のように傍からは見えるが、実際は『体内』に腕をぶっ刺している ― を弄り、ぽんっと小さな虫カゴを取り出した。まるで『手品』のような行いに、玲奈と栄の視線がフィアに向けられる。

「でしたら仕方ありませんね! 今日の晩ご飯にしようと昼頃捕ってきた私秘蔵のとびきりデリシャスなものを皆さんに振る舞ってあげましょう! なぁに花中さんが笑顔になってくださるならこれぐらいお安い御用ですよ!」

 そして花中の意見を特に訊かず、フィアは虫カゴの中身を取り出してテーブルの上に置く。置いていったのは、肉の塊だった。

 肉の大きさはかなり大きく、重さにして一キロはありそうだ。表面は白く、断面はかなり密度の高い筋肉が詰まっている。生臭さ、などの不快な臭いはなく、むしろスパイスが効いているかのような、食欲をそそる芳醇な香りを漂わせていた。

 フィアは花中が笑顔になると信じてか、上機嫌に胸を張る。玲奈と栄は、まじまじとフィアが置いた肉塊を見つめながらキョトンとしていた。肉である事は一目瞭然だが、牛肉や豚肉とは明らかに違う見た目と香りだ。これがなんの肉か、さっぱり分からないのだろう。

 唯一花中だけが、その物体に見覚えがある。見覚えがあったので、一瞬顔を青くした。

 ――――これ、白饅頭の肉じゃん。

 ……白饅頭と気付きながら「ああ、この手があったか」とも花中は思ったが。白饅頭の肉は美味だ。焼いてそのまま出しても料理として通用するぐらい、複雑で気品ある味をしている。品質や安全性に関しても、数ヶ月前焼いただけの代物を食べた花中には堂々と保証出来た。

 成程、これは確かに至上の一品と言えよう。

「……あの、これは、なんのお肉ですか?」

 栄が、極めて当然の疑問を言葉にする事さえ考慮しなければ。

「ふふふふふ。これは白饅頭という動物の肉です。とても美味しいのですよ!」

「白饅頭? あの、玲奈さん? この辺りにはそういう名前の生き物がいるのですか?」

「うんにゃ。私が知る限り、そんな名前の生き物は聞いた事もないけど」

「それはそうでしょう何しろ白饅頭は泥落山に暮ら」

「そ、そそそそんな事より! 折角出してくれたんだから、た、食べよう! わたしも一度食べてるから、大丈夫だよ! すごく美味しいから!」

 ベラベラと何もかも話そうとするフィアを遮り、花中は母と助手に実食を勧める。自慢話を邪魔されフィアは拗ねるように唇を尖らせたが、花中がぎゅっと抱き付いたのですぐ笑顔に戻った。

 対して人間である玲奈と栄は互いの顔を見合い、不思議そうに首を傾げる。そりゃ訝しむよね、と花中は自分の大袈裟な行動を後悔した。あんな露骨に話を妨げれば、何かあると察するのは難しくない。

「……まぁ、花中が大丈夫って言うなら、大丈夫なんでしょうね。良いわ、食べましょ。やっぱり夕飯にはお肉がないとね!」

 それでも玲奈は、花中の言葉をすんなりと信じてくれて。

 こんな些細な言動が、花中の心をきゅっと締め付ける。ただし嫌な締め付けではない。抱き締めてもらうような、温かで心地良い拘束感。

 自分に出来るのは、自分の言葉を本当にする事。幸いにして、自分にはそれを可能とするだけの技術がある。

「待ってて! 今料理してくるから!」

 満面の笑みを浮かべた花中は腕捲りをし、フィアが取り出した肉を素手で掴むやキッチンへと駆け込む。

「……可愛い娘さんですね」

「でしょー。私の一番の自慢なんだから」

 背後から聞こえてきた褒め言葉に頬を熱くしながら、花中は『ステーキ』の調理を始めるのだった。




「……毎晩十時前に寝るとは、うちの娘はまだ小学生だったのかしら?」

 豆電球の明かりだけが照らす部屋の中。ベッドの中で寝息を立てる娘の頬を撫でながら、玲奈はぽそりと独りごちる。花中のベッドの隣にはフィアが寝転ぶ布団があり、フィアは大きく口を開けっ放しにしながら、吐息一つ立てずに寝ていた。

 どちらも幸せに弛みきった笑みを浮かべており、玲奈は顔をくすりと綻ばせた。音を立ててしまったかもと後から気付き慌てて片手で口を塞いで、娘達が起きていない事を確かめてまた小さく微笑んだ。

 玲奈は一人と一匹を起こさないよう、抜き足差し足で部屋の外へと出る。扉を閉める時は慎重に、ゆっくりと動かし……音を立てずに、閉じきった。

「久しぶりの娘との再会、どうだったかしら?」

 そこで一息吐いていた玲奈に、話し掛けてくる者がいる。

 ミリオンだった。玲奈は花中の部屋の扉に寄り掛かってからミリオンに心底嬉しそうな笑みを返し、声が大きくならないようひそひそと答える。

「ええ、最高だったわ。仕事で仕方なかったとはいえ、やっぱ三年近く娘と離れるのは心身に悪いわね」

「なら一緒に暮らせば良いのに。はなちゃん英語もそこそこ堪能だから、外国暮らしぐらい出来るんじゃない?」

「……出来ればそうしたかったけど、連れて行けない場所とかもある訳よ。ちょっと特殊な仕事だから」

 悲しむような、諦めるような、寂しがるような。

 複雑な表情を浮かべながら語られた玲奈の言葉を、ミリオンは「それじゃあ仕方ないわね」と一言で流す。一人と一匹の会話は、ここで一度途切れた。

 しばし、沈黙が続く。

 ミリオンが立ち去る事はしない。玲奈が立ち去る事もしない。相手の出方を窺う、探り合いの沈黙が広がる。

 これは『大人』の会話だった。

「訊きたい事があるんじゃない? なんでいきなり帰ってきたのか、とか」

 改めて話を振ってきたのは玲奈の方。ミリオンは首を横に振り、これを否定する。

「正直あまり興味ないわ。はなちゃんに危害が加わらないのなら、なんだってね。あなたがはなちゃんを虐待してるなら兎も角、きちんと愛していて、大切に扱うならこちらから言う事は何もないわ」

「あら、嬉しい事を言ってくれるわね。実の親からは、お前に母親は無理だーって罵られた事もあったような人間なのに。ま、孫が出来たらすぐに日和ったけど」

「中々の修羅場を経験してるわねぇ。私も昔は色々あったけど……ところで、あなたの方こそ私達に訊きたい事があるんじゃない?」

「どうして?」

 玲奈に訊き返され、ミリオンはくすりと笑う。全てを見透かした、どす黒い瞳で見つめ返しながら。

「私達の正体なんて、とっくに気付いてるでしょ? 娘が人外の化け物と共に暮らしていて、不安にならない?」

 そして自分の推測が正しい事を前提に、自らの正体を明かす。

 玲奈は、僅かな驚きも見せない。肩を竦めて、おどけるような仕草を取るだけ。開いた口から出てきた言葉にも、小さな動揺一つ含まれていなかった。

「なんでそう思う訳?」

「逆に尋ねるけど、なんでそんなにすんなり私達を受け入れられるのかしら? はなちゃんは私達の事を『訳ありの居候』という事にしている。ま、ハッキリ言って怪しい連中よね。だから初対面なら、もう少し観察してくる筈だけど……そんな視線を感じられなかった。まるで私達の事なんて、とっくにお見通しとばかりに。まぁ、もしかしたら雑なあまり、そこまで気が回らなかっただけかも知れないけど」

「……可能性があるなら、そこは詰めなきゃ駄目じゃないかしら?」

「生憎、人間風情に正体を知られたところで、こちらからしたら大したリスクじゃないわ。頭の悪い人間相手なら尚更。だからそこまで追及するのは面倒臭い……で? どうなのかしら?」

 ミリオンが問うと、玲奈はしばし口を閉ざす。されどその沈黙は誤魔化すものではなく、感情を抑えるかのよう。大人として冷静に振る舞うための予備動作。

「それこそ、あなたと同じよ。娘に危害を加えず、むしろ毎日を幸せにしてくれている。そんな相手を、どうして警戒する必要があるのかしら?」

 だけど語り口には、嬉しさが隠しきれていない。

 ミリオンはキョトンとしてから、呆れたような、喜ぶような、そんな笑みを浮かべた。

「あなた、結構能天気とか言われない?」

「よく分かったわね。その通りよ……さてと、用件は終わりかしら? そろそろ自分の用事を片付けに行きたいのだけど」

「ええ、構わないわ。難なら手伝いましょうか?」

「このために助手を連れてきたの。うちの娘の手料理をタダで食べたんだから、その分は労働してもらわないとね」

 話を終えた玲奈は花中の部屋の前から退き、階段を下って一階へと向かう。ミリオンはそれを見送りながら、考え込むように自身の顎を摩る。

「……さぁて、鬼が出るか蛇が出るか、はたまた悪魔が出てくるのか。どちらにしろ、何事もなく終われば文句はないけど」

 ミリオンはそう独りごちると、己の身体を崩しながら虚空に消える。

 夜は更けていく。

 月が天に輝き、町の明かりは少しずつ消えていき、空の星々が輝き始めた。冬眠する草木が風に揺れ、擦れ合う音だけが世界を支配する。

 そして、夜明けも迫ってきた時。

 女性の甲高い悲鳴と、地震のような騒音が、大桐家の中を駆け巡った。

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