大桐玲奈の襲来3

「……ママ、何してるの?」

 パジャマ姿の花中は呆れきった眼差しで、母を見下ろしていた。

 正確に言うと母の姿は殆ど見えていない……山盛りになった本の下からはみ出ている、見覚えのある手にそう呼び掛けただけだ。手は花中の声を聞くとピクピクと動き、藻掻き、しかし諦めたようにぱたりと力尽きる。今のが返事だとすれば、本の下に居るのは間違いなく花中の母・玲奈であろう。

 何かをやっていた最中本が雪崩のように襲い掛かり、母はその生き埋めになったのか。そして本が重たくて上手く動けない、という事だと花中は推察した。中々の大惨事だが、されど花中にとってはものである。

 本や標本箱が山積みにされた塊が、歩く隙間もないぐらい大量に置かれたこの部屋……母の書斎においては。

「か、花中ぁ~たすけてぇ~……片付けしてたら、本が、崩れてぇ……」

 しばらくして本の下から母の声が聞こえてきた。自分の予想が全て当たっていたと悟り、花中は肩を落とす。

 普段なら助けなくもないのだが……今回は別だ。

「もぉー、探し物があるならわたしに言ってって、何時も言ってるのに。朝は忙しいから自力でなんとかしてね」

「ヴぇっ!? か、花中!? 花中ぁ~!?」

 助けを求めてのたうつ母の手を無視して、花中は母の部屋から出た。それから額に手を当て、深々と項垂れる。

 物凄い音と悲鳴がしたので跳び起き、部屋へと向かってみればこれである。

 今日は学校がある日。本来なら朝六時に起きるところ、それより三十分も早く起こされてしまった。今から二度寝をするのは、些かリスキーなのでしたくない。このまま起きるしかないだろう。

 別段三十分早く起きたところで、問題がある訳ではない。昨日も ― 普段より少しだけ遅い時間とはいえ ― 午後十時前には寝たのだから、八時間以上ぐっすり睡眠を取れている。気温や騒音などによる寝苦しさもなかったので、肉体的精神的には完璧に回復している筈だ。

 しかし理屈を幾ら捏ねくり回しても、寝ぼすけな花中にはその三十分が惜しい。

 胸に沸き立つ自堕落な感情。それに後押しされて、はぁ、と口からため息が漏れ出てしまう。

「花中さぁ~ん……どうでしたかぁ?」

 丁度そんな時に横から声を掛けられたので、花中はびくりと身体を震わせた。

 振り向けば、そこには寝惚け眼のフィアが居る。勿論作り物であるその『身体』の眼差しは偽物だが、感情に直結したものでもあるので本当に眠いのだろう。玲奈が立てた物音で起きたのは花中だけではない。人外の聴力を有し、研ぎ澄まされた本能を持つフィアが跳び起きない筈がなかった。

 一応差し迫った危険はないという事もすぐに察したようで、今ではこうして眠気がぶり返しているようだが……身内が原因だけに、花中としては申し訳ない気持ちになる。

「うん、大した事なかった。ごめんね、起こしちゃって」

「んー? 何故花中さんが謝るのですか? 物音を立てたのは花中さんのお母さんですよね?」

「……うん。そう、だけどね」

 フィアの考え方に、花中は少しだけ言葉を濁らせる。フナであるフィアはあくまで個人単位で他者の行いを判断するが、人間である花中は母の『失態』を自分の事のように感じてしまうのだから。

 花中は大きなため息を吐き、母の書斎から離れる。廊下で話をするのも難だと思い、リビングまで移動した。テーブルの席に座り、また一息吐く。

 フィアは花中の隣に座り、眠たそうに欠伸をした。フィアの性格からして、本当に眠たいから欠伸をしただけだろう。が、人間はそこに『他意』を見出す生き物。友達の些細な行動一つが、母への不満に変換される。

「もぉー、ほんとママは昔っからだらしないんだから……」

「昔から? 例えばどんな感じなのですか?」

 花中が独りごちると、フィアはその独り言の詳細を求める。きっと大した意味はなくて、花中とお喋りがしたいだけなのだろう。

 身内の恥部を明かすようで少々躊躇いはあるが、今朝の憤りは未だ胸にくすぶっている。鬱憤を晴らすように、花中はフィアの質問に答えた。

「……小学校の頃に、授業参観が、あったんだけど」

「じゅぎょーさんかん? ああなんかテレビで見たような気がします。授業中に親が遊びに行くやつですよね」

「えっと……うん。本当は、ちょっと違うけど、そんな感じのやつ。えっとね、それで、授業参観が、あって、ママが来てくれる事に、なったんだけど……」

「けど?」

「……その日最後の、授業が対象なのに、何故か、その日最初の授業から、来てたの。一日休み取れたとか、一秒でも長く、わたしを見ていたいとか、そんな理由で。おまけに白衣姿で、直前まで何かを解剖してたのか、色んな汁をべっとり付けた、状態だし」

「はぁ。そうですか」

 フィアは何が変なのか分からないとばかりに首を傾げた。人間以外にとっては、玲奈の言動はおかしなものではないだろう。しかし人間にとってはおかしな点しかない。

「あの日は、ほんと恥ずかしかったんだから! 今までわたしの事を、怖がってたクラスメート達が、心から同情してくるんだよ!? 分かるこの気持ち!?」

「いいえ全く分かりません」

「しかも放課後、何故か校庭で虫取りしてて、クラスの男子すら、どん引きさせたり!」

「虫取りの何が変なのです? 美味しそうな虫でもいたのでは?」

「あと夏の遠足の時、お弁当が、傷むといけないからって、何故か戦争に持ってくような、固形レーションだった時もあるし!」

「お腹を壊すよりはマシかと思うのですが」

「中学の水泳の時、普通のスクール水着じゃなくて、何故かえっちなやつに入れ替えてるしぃ! 思春期男子を悩殺よ♪ とかほんと何言っちゃってるの!? ほんとバカなのぉ!? その所為で炎天下の中プールに入れず、見学する羽目になったんだから!」

「あの花中さんちょっと落ち着いた方が……」

 あまりにヒートアップし過ぎて、とうとうフィアに止められる。今まで吐き出す機会がなかったもので、つい歯止めが効かなくなってしまった。花中は乱れた息を少しずつ整え、無意識のうちに上がっていた腰を下ろす。

 まだまだ話したい事は山ほどある。伊達に十年以上一緒に暮らしていないのだ。親に振り回された経験は、両手と足の指を全部使っても数えきれない。本音を言えばここぞとばかりに全て話したいのだが、だけどそれを全て吐き出す頃にはきっと夜明けを迎えているだろう……今日ではなく、明日の。そろそろ抑えねばなるまい。

 猛省する花中に対し、フィアは珍しいものを見られたとばかりに上機嫌な笑みを浮かべる。溜め込んでいた不平不満を多少なりとぶちまけてスッキリした反面、恥ずかしいところを見られてしまい花中は頬を赤らめた。その赤面すら、花中大好きなフィアには愛らしいものでしかなく、より機嫌を良くさせるのだが。フィアの眠気はすっかり飛んだ様子だ。

「しかし聞けば聞くほど花中さんとあの人間はあまり似てませんね性格だけでなく髪の色とかスタイルも全然違いますし。カエルの子はカエルという言葉がありますけど花中さんには当て嵌まらないようで。もしかして本当の親は別にいるのでは?」

「……親戚の人にも、よく、言われる。でも、ちゃんとママの子だから。妊娠してる時のママとか、産まれたばかりのわたしとか、写真がちゃんと、あるもん」

「おや証拠はあるのですね。だとするとやはりミステリーです。あの人間の子供である花中さんが何故こんなビビりで生真面目なのでしょう?」

 心底不思議そうに首を傾げるフィアに、花中は思わず苦笑い。しかしながら間違いなく自分は母の子であり……そしてこの性格になったのも、母及び父の影響だと思っている。

 今からでも思い返せる幼少時代。母も父も、親と呼ぶにはあまりに破天荒で、仕事と娘以外には関心のない人だった。公園などに連れてきてくれても、何故かそこで生き物の事ばかり伝授してくる。友達の作り方なんか教えてくれなかったし、片付けもしないから部屋は『汚宅』と呼ばれる一歩手前。その癖娘には愛情たっぷりに接するため、周りからは良い家族と思われる有り様だ。

 結果的に動植物の知識は付いたし、家事の腕前は人並み以上に付いた。今の花中を育ててくれたのは、間違いなく両親の『教育方針』であろう。ビビりなのは……思い返すと父が割と警戒心の強い人なので、そっち方面の遺伝だと思われる。

「あはは。人間、似ているのだけが、親子の形じゃないから」

「なんか随分と実感のこもった言葉ですねぇ……まぁ花中さんがそう言うのならその通りなのでしょう。私も親と似てるかといえば多分似てないでしょうし」

 フィアは思い返すように、天井を仰ぐ。確かに彼女は、きっと親とは似てないだろう。こんなにもお喋りで、どんな敵にも挑む好戦的な性格のフナなんて、花中は知らないのだから。

 或いは人間……というより多細胞生物が親と似ているというのは、幻想なのかも知れない。分裂ではなく交配して増える自分達は、親とは必ず何かが違う。両親の遺伝子を半分ずつしか受け継がず、その半分ずつすら気紛れに起きる『乗り換え』 ― 減数分裂時に染色体同士が交叉する事で起きる、天然の遺伝子組み換え現象である ― や突然変異によって変性するのだから当然だ。有性生殖を行う生物は、そうして次世代の多様性を増やす事で環境変化に強くなり、生き残りやすくなったとされている。多細胞生物の子供達は、両親と違う事が重要なのだ。

 だけど。

「良かったですね花中さんもあまり似てなくて」

 そう言われると、ちょっと悲しくて、少しムカついて、かなり寂しくなるのは……自分が人間だからなのだろう。自然と、花中は顔が俯いてしまう。

「……そう、かもね」

「まぁ親がどんな人間でも花中さんは花中さんですからね。私は気にしませんよ……あっとそうそう一つ花中さんに訊きたい事があったのですよ」

「? 訊きたい事?」

 頭の中にある暗い気持ちを振り払うように花中が顔を上げると、フィアはこくんと頷いた。どんな質問が来るのかと、花中は佇まいを直してフィアと向き合う。

「花中さんどうして昨日から母親の事をママと呼んでいるのですか? 今まで割とお母さんと呼んでいたと思うのですが」

 そしてフィアがさもなんて事もないかのように尋ねてきた瞬間、花中は背筋を伸ばした体勢のまま固まった。

 ……固まったまま、動かない。瞬きもしない。代わりにどんどん顔が赤くなる。今にも湯気が上がりそうなほどだ。

「……え、ぁ。わ、わたし、ママって、言ってた……?」

 ようやく出てきた言葉も、まるで錆び付いたブリキ人形の動きのようにぎこちなく、震えている始末。花中の変化に、純粋な好奇心で尋ねたであろうフィアは首を傾げる。

「はい昨日からばんばか言ってます。まぁ前々からちょいちょい言ってましたけどね。言い直してる事も多かったですし」

「そ、そん、そんな、事、な、あ、えぅ、え、あ……」

「もしかすると本来はママと呼んでいるのですか? だとしたら何故わざわざお母さんと言い換えているのです? 必要性を感じないのですが」

 動揺し、まともな言葉を紡げなくなる花中に、フィアは更なる質問という名の追及をしてくる。

 花中はフィアの事をよく知っている。彼女にこちらを馬鹿にする意図などなくて、純粋な疑問から尋ねているのだ。だから正直に「人間は大きくなったら親の呼び方を変えるのが、社会的なルールなんだよ。わたしは、つい言っちゃうんだけど」と答えればそれで納得する。そういうものなのかと思い、尚且つそれ以上の事は思わないだろう。ましてや花中を蔑んだり、見下したりなんてしない。

 けれども花中は答えられない。何故ならこれはプライドの問題なのだ。野生ではこれっぽっちも役に立たない、人間社会で生きていく上でも邪魔になる事が多い自分自身の感情。そしてその感情は刺激されると、他の色んな感情を暴走させる。本来なら羞恥だけ覚えれば良いのに、ごちゃごちゃと別の感情まで沸き立たせた。

 こうなると、感情の制御なんて夢のまた夢な訳で。

「~~~~っ! んぅーっ!」

「え? 何故私を叩くのですか花中さん? あの花中さん? もしもーし?」

 ぽかぽかとフィアに連続へっぽこパンチをお見舞いする事が、花中に出来る精いっぱいの回答だった。




 と一人娘の背中が遠くなっていく。

 学校へと向かう花中達を見送りながら、玲奈は安堵したように息を吐いた。

 朝から怒らせてしまったが、我が娘はやはり人一倍優しい。なんとか自力で本の山から這い出した自分のために、朝ご飯を用意してくれていた。嬉しさから衝動的に抱き締めたら、それだけですっかり上機嫌になったのは……こんなにも好いてくれているのだと嬉しい反面、悪い男に騙されそうで少し心配にもなる。頼もしい友達がいるようなので、杞憂で済みそうだが。

 なんにせよ娘の心配は必要なさそうだと感じ、玲奈は穏やかな笑みを浮かべる。それに思えば、娘の高校の制服姿を生で見るのは初めて。エアメールなどで写真は何度も見ているが、やはり実物は違う。小さかった娘がもう高校生……時間が経つほどに、玲奈の笑みは『穏やか』から『だらしない』へと移り変わっていった。

「玲奈さん。そろそろ続きをしますか?」

 ただしその顔は、栄の一言を境に変貌する。

 真剣で、思い詰めた表情。

 それは娘を溺愛する母親の顔ではなく、人の上に立つ者の顔だった。

「ええ、そうしましょう。花中が帰ってくるのは何時も午後四時ぐらいらしいから、後片付けや報告も考えて二時前までには見付けたいわね」

「玲奈さんが普段からちゃんと部屋を片付けていたら、五分で見付かる筈なんですけどね」

「……その点については大変申し訳なく思います」

 そんな真面目な顔も、三十秒と経たずに弛んだ笑顔に。栄もにこりと笑い、二人は共に玲奈の書斎へと入った。

 いや、正確には入る一歩手前で、二人とも立ち止まったのだが。

 書斎の中は酷い事になっていた。何百冊と積まれた本の山は崩れ落ち、足の踏み場がない。標本箱は山積みとなって行く手を塞ぎ、多数の薬品入りの瓶が床に並んでいる。

 まるで強盗事件の現場のような荒れようだが、これでも昨日よりはマシだったりする。昨晩遅くまで玲奈と栄の二人で、夜明け間際には玲奈一人で片付けをしていたのだから。

「……見れば見るほど、気が滅入るなぁ」

「こらこら、助手が博士より先に参らないでよ。一応あの後私だけでちょっとは片付けたんだから」

「殆ど変わらないように見えるのですが。というか玲奈さん随分と元気ですね、夜明け頃から掃除してる割には。私なんかまだ眠いのに。何時間ぐらい寝たんですか?」

「んー、一時間半ぐらいかしら。ちょっと寝方のコツがあって、スッキリ起きられる方法があるのよ。ま、あんまりやると流石に体調崩すから一週間が限度だけど」

「良いなぁ。今晩教えてくださいよ」

「暇な時にね……さて、念のために復唱しましょうか。私達が何を探しているのか」

 忘れてないわよね? 玲奈が確かめるような視線を送ると、栄は勿論と伝えるように頷く。

「体長十ミリほどのコバチ。その標本ですよね」

 それから迷う事なく答えてみせた。玲奈はニッコリと褒める笑みを浮かべる。

「その通り。あの『事件』さえなければ部屋に寝かせてても良かったんだけど、そうもいかなくなっちゃった」

「そう言えば、なんでそのハチの標本の回収に来たのですか? すると何か不味いのでしょうか」

「うーん、正直なところ十中八九杞憂で終わりそうな話なのよねぇ。アレの宿主は日本に生息していない固有種だし、分類群も全然違うし。ただ……」

 玲奈は言葉を句切り、栄を見る。その眼差しは真剣なもの。冗談を話す素振りなど、一切ない。

 だから、

「もしかすると、人間を化け物にしてしまうかも知れない種だからね。万が一でも可能性を残す訳にはいかないわ」

 その言葉に、嘘はないのだと分かる。

 ごくりと、栄は息を飲む。ゆっくりと口を開き、迷うように閉じ、そしてまた開いて――――やはり閉じた。

 玲奈はそんな栄の背中を、バシンッ! と力強く叩く。

「あははっ! 怖がらなくて良いわよ。死んだのは随分前の話なんだし、本当に万が一に備えてなんだから。仮に生き返っても、その寄生メカニズムを研究すれば医療に役立てるかも知れないわ」

「そ……そう、ですか。分かりました。そのぐらいに思っておきます」

「そうそう。そうした研究のためにも、標本が必要なの。だから回収に来たというのも理由の一つね……さ、無駄話はそろそろ終わりにして、『仕事』を始めるわよ! あ、昨日と同じく対象らしきものを見付けたら私に教えて。最後の同定作業は私がやるから」

「はいっ!」

 玲奈の指示を受け、栄は元気よく返事をしながらしゃがみ込む。

 まずは、部屋の入口を塞ぐ本の移動。

 社会人二人は、黙々と部屋の片付けを始めるのだった。

 ……………

 ………

 …

 果てが見えない。

 部屋の片付けを初めて、早一時間。栄は部屋の入口からほんの数十センチ進んだ場所で、立ち往生を強いられていた。

 積み上がる本。これは大した問題ではない。まとめて廊下に出してしまえば済む。薬品などの瓶も、どれもケースでしっかり保存されているので割れる心配はない。乱暴に扱わず、丁寧に退かせば済む。

 一番の難敵は、室内の大部分を占めている標本箱だった。

 栄達の目的はある種のコバチの標本だ。つまり部屋に置かれた無数の標本箱の中の『何処か』に目当てのものがある。しかし玲奈の記憶で確かなものは、そのコバチを標本にしたのがかれこれ十年以上前である事だけ。どんな標本箱にしまっておいたかは流石に忘れた……というより他にも色々希少かつ特異な昆虫を採取していて、そいつだけが ― 少なくとも採取した当時は ― 特別だった訳ではないので、他の標本と同じ箱を使ってしまったのである。そのため遠目からはどれが目当ての標本箱か分からず、中の標本を一体一体チェックする必要があったのだ。

 流石に標本箱の中身ぐらいはキッチリしていて、科レベルで箱は分けられていた。しかしそれでも一応隅から隅はチェックせねばならない。何かの拍子に、うっかり別の箱に入れてしまった事もあるかも知れないのだから。

 おまけに性質の悪い事に、目当てのコバチは体長ほんの十ミリ程度。殆どの種が体長数ミリ~一ミリ未満であるコバチとしてはかなり大型だが、人間からすればあまりに小さい昆虫だ。玲奈は極めて迅速に識別出来たが、まだまだ未熟な栄にはそう簡単には見分けが付かない。最終的な同定作業は玲奈が行うので、栄はあくまで『それっぽい』ものを探すのが役目だが……これでもかなりの時間を必要とする。

 そしてコバチの判別が出来る玲奈は今、崩れた本の下敷きとなって身動きが取れなくなっていた。

「さ、栄ぇ~! たずげでぇ~」

「玲奈さん、もう何度目ですか? 流石に一日三度も埋まるのはアホだと思うのですけど」

「だ、だって、本の山の向こうに標本箱があって、だから手を伸ばして取ろうとしたら崩れてきて……」

「横着するからです。ほんとにもぅ……」

 栄は埋もれた玲奈の傍へと駆け寄り、本を退かして玲奈を救出する。これだけで数分の時間を取られた。

 こんな調子で、調査は大変ゆっくりとしか進められなかったのである。栄が疲れたようにため息を吐くのも、無理ない話だった。

「ああ、もう。全然進んでる気がしない。ほんと、これ一週間で終わるんですか?」

「た、多分……」

「あんまり酷いと、娘さんに手伝ってもらわないと駄目かもですねー」

「うぅ……それは流石に勘弁してほしい……また怒られちゃう」

「じゃあ、きっちり期間内に見付けないといけませんね」

「うん……」

 意気消沈したように俯く玲奈。栄は肩を竦めながら立ち上がり、再び標本探しを始める。玲奈も何時までも落ち込んではいられないと思ったのか、標本の同定作業を再開した。

 再び、無言の時間が流れる。ガタゴトと箱を動かす音、本の擦れる音、崩れる音と女の悲鳴……時間は刻々と過ぎていく。あっという間に三時間が経った。

 玲奈の方はベテランだけあり ― 何度も本に埋まりながらも ― 集中力を維持していたが、栄の方は少しばかり気が抜けてきた。無論ここまでの作業で経験が身に付き、開始時と比べればずっと効率的に作業を進められるようにもなったが、仕事がやや疎かになっている。

 これもどーせ違うんだろうな……そんな気持ちが傍目にもよく分かる表情を浮かべながら、栄は新たな標本箱を一応はじっくりと眺めた。

 そしてその目を大きく見開く。

 三角形に切られた紙……台紙と呼ばれるそれに貼り付けられた小さなハチ達の中に、腹部に特徴的な赤い斑紋のある個体が存在していた。大きさは一センチ前後。栄は標本箱をそっと床に置き、胸ポケットに入れておいた、しばらく見てもいなかった写真を取り出す。

 標本のハチはとても小さく、肉眼での確認は難しい。細かなところ……例えば足先や顎の形態が異なる事は大いに考えられる。これらの特徴は素人的には些細な違いに思えるだろうが、生物学的には極めて大きな違いだ。ぱっと見似ているというだけでは、目当ての種であるとは断言出来ない。

 しかし栄の目には、標本と写真のハチは同一種に見えた事だろう。

「れ、玲奈さん! これ、そうじゃないですか!?」

「ん? おっと、これは確かに……待ってて。今調べる」

 期待感が溢れ出ている栄に呼ばれ、傍までやってきた玲奈はポケットから取り出した白手袋を装着。標本箱の蓋をそっと開き、目当ての標本だけを片手で取り出す。

 空いている方の手にはルーペが握られ、玲奈はそのルーペを覗き込みながら標本を観察する。腹部の斑紋、翅の形状、足の長さ、顎の大きさ……玲奈の作業スピードは栄とは比べようもないほど早く、しかしそれなりの時間を費やす。ごくりと、栄の喉が鳴った。

 しばらくして、玲奈は小さく息を吐く。

 緊張した面持ちの栄に玲奈が向けたのは、心底嬉しそうな笑顔だった。

「ビンゴよ! これがお目当てのコバチよ!」

「ほ、本当ですか!? 間違いなく!?」

「いくらクソ面倒臭い作業だからって、嘘吐いてまで仕事を中断しようとは思わないわよ!」

「やったー!」

 栄は両腕を上げ、そわそわと身体を揺れ動かす。玲奈は標本を標本箱に戻すと、両腕を広げた体勢を取った。OKが出てから、栄は玲奈に跳び付く。

 しばし互いの事をぎゅうっと抱き締め、当人達曰くクソ面倒臭い作業の終わりを喜び合う。抱擁は数分と続き、やがて栄の方から離れた。

「はぁー、良かったです。本当に一週間経っても見付からなかったらどうしようかと思っていたんですよ」

「あはは。まぁ、その時には別の職員に仕事を引き継いだだろうけどね。さて、忘れないうちにコイツは『ボックス』にしまっておかないと。また一から探すとか、絶望的な状況だけは避けなきゃ」

 冗談めかした事をぼやきながら、玲奈は標本を手にとって立ち上がる。栄も一緒に立ち上がった。

「あ、ボックスにしまうのは私がやっておきますよ。玲奈さんは休んでてください。ずっと細かな作業して、疲れましたよね?」

 そして如何にも親切心から出た言葉を、玲奈に投げ掛ける。

 ところが玲奈は、その気遣いに眉を顰めた。何を言っているんだコイツは、と今にも告げそうに口を曲げるおまけ付きである。

「こらこら、さらっとルール違反しないの。コイツの『セキュリティクラス』忘れたの?」

「え? えーっと……あっ」

 玲奈に問われて考え込む事数秒。栄は思い出したとばかりに声を上げ、反省したように俯く。

 分かればよろしいとばかりに、玲奈は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。目当ての標本を指先でゆったりくるくると回し、横目に眺めながら『規則』を伝える。

「そう、セキュリティクラスA。レベルA標本に直接触れるのは主任研究者のみが原則。厳しく言えば、こうやって一緒に標本を探すのもアウトなんだから」

「す、すみません。失念していました」

「気を付けなさいよ? やってる事は地味だけど、一応これでもうちは『秘密結社』なんだから……まぁ、このルールは割と形骸化していて、融通利かせてる事の方が多いけどね。とはいえボックスへのロックは担当者コードを入れるから、研究所で開ける時に規約違反がバレちゃう。流石に、セキュリティ部門に見付かったら始末書と減俸だから、それは勘弁してね」

 玲奈はそう言うと未だ項垂れたままの助手の肩を優しく叩き、それから部屋を出て行った。

 玲奈が出て行った後も、栄はしばらく項垂れていた。やがてガチャリカチャンとリビングの戸を開閉した音が聞こえ……ゆっくりと顔を上げる。

 栄はもう、落ち込んでいない。

 代わりに今の栄の顔にあるのは、侮蔑と増悪に満ちた、身の毛もよだつ形相だった。

「……流石に、そこまで浅はかでもなかったようですね。元より期待はしていませんでしたけど」

 ぼそぼそとどす黒い声で独りごちながら、栄はポケットから小さな機械を取り出す。九つのボタンしかないそれを慣れた手付きで操作し、幾つかのボタンを押すと再びポケットの中に入れた。

 それからしばし、栄は目を閉じ……開く。

 たったそれだけの仕草を間に挟めば、彼女の顔にあるのはおどおどとした、それでいて可愛げのある女性の表情だけ。掛けている眼鏡を片手で、如何にも抜けている雰囲気を作ってから立ち上がる。

「あ、ちょっと玲奈さん! 標本箱の蓋、開けっ放しじゃないですかぁ! ちゃんと片付けないと娘さんに報告しちゃいますよーっ!」

 そして開いた口からは、明るく軽薄な言葉が出てくるのだった。

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