女神の美食7

 ぐにゃぐにゃと、半分になった頭の断面が蠢いていた。

 茶色い中身が剥き出しとなり、所々からぶちゅりぶちゅりと音を鳴らして液体が噴き出している。人間が……否、大抵の生物がこれほどの大怪我を負ったなら、即死は免れない。仮に生き長らえる事が出来るほど生命力に優れた生物でも、出血と感染症によりいずれ死に至るだろう傷だった。

 もしも此処を何も知らない通行人が通ったなら、おぞましい姿の『亡骸』を前にして絶叫を上げるに違いない。夜を迎えていなければ今頃誰かが見てしまい、この住宅地は大きな騒ぎに包まれただろう。

「もう、小突くにしてももう少し手加減してくださいませんこと? 顔が崩れてしまいましたわ」

 されど当の『亡骸』自身は、落ち着き払った口調で平然と悪態を吐いてみせた。口なんて、もう顎しか残っていないのに。

 やがて蠢いていた顔の断面が盛り上がりだし、失った部分を補完していく。修復に掛かった時間はほんの数秒。紙で切った指の傷よりも早く、完璧に、大月はその顔を元通りにする。

 浮かべるのは、まるで何事もなかったかのような微笑み。これまでと全く同じ、お淑やかさと優しさが同居する柔らかな表情。

 しかしその顔を向けられた花中が、安らぎと信頼を感じる事はなかった。

「な、あ……? え、な、なん……」

「生憎手加減をしたつもりはありませんので。いやはや随分としぶといですね一撃で仕留めるつもりだったのですが」

「うふふ、これでもしぶとさには自信がありますの」

「ああつまり下等という事ですね? 漫画で見ましたよ下等な生き物ほど生命力が強いって」

「下等ではなく、シンプルで適応的と呼んでほしいものですわ」

 困惑する花中を自らの後ろに隠しながら忌々しげにぼやくフィアに、大月はあくまで上品に語らう。ミリオンも静かに花中の前へ、フィアの隣へと移動していた。対峙する『三体』の間には静かな闘志がぶつかり合い、ただの人間である花中にも場の空気が変わっていくのが感じられる。

 これは戦いの気配だ。

 花中は狼狽えた。何に? 大月が人間ではなく、人智を超えた生命体……ミュータントだったと知ったから。そして『友達』同士が争おうとしているから。この二つを一度に突き付けられて、狼狽えずにいられる訳がない。

 だけど一番動揺を誘ったのは、その友達が自分に事だ。

 普段なら、どうしてこんな事をしたのかと尋ねるだろう。しかし今回は、それが出来ない。

 大月の口元を見るだけで脳裏を過ぎる記憶。お喋りをするにはあまりにも大きく、裂けるように開かれた口。外気に触れた口内でぬたりと光る涎、剥き出しとなった牙のようなもの。

 何故自分を襲ったのか? ちょっと想像すれば答えはすぐに見付かる。後は見付けた答えを『拾う』かどうかだけ。

 花中は、すぐには拾えなかった。

「しかし思っていた以上にあからさまに襲い掛かってきましたね。まさかこうも露骨にとするなんて」

 『友達』が自分を食べようとしていたなんて――――認められる訳がないのだから。

「だってあまりにも美味しそうなんですもの。思いっきり齧り付きたくもなりません?」

 しかし大月は誤魔化すどころか、僅かな言い淀みすらもなく肯定する。まるで、行動を起こす前であっても訊けば答えたかのように。

 その態度が花中の心を一層締め上げるが、傍に居るフィアとミリオンは平然としていた。大した驚きなど、抱いている素振りすらなかった。

「ふぅむあなたの言いたい事は分からなくもないですね。私も大きな虫を捕まえた時はそうしますし……ですが花中さんを食べさせる訳にはいきません」

「私としても、はなちゃんを食べられる訳にいかないわね。お引き取り願うわ」

「あらあら、困りましたわね。わたくしとしても、此処まできて諦めるつもりなんてありませんのよ? なら当然、どうなるか分かってますわよね?」

「ええ勿論。あなたがバラバラになるのでしょう?」

「あら? 燃え尽きる、の間違いでしょ?」

「んもぅ、みんなまとめて仲良くお腹の中、が出てこないなんて。お二方とも、もうちょっと想像力を発揮してほしいものですわ」

 如何にも世間話のような軽い口調で言葉を交わすフィアと大月だが、どちらも相手から目を一切逸らさない。全身に力を滾らせ、隙を消していき、どす黒い殺意を纏う。どちらかが動けば、もう片方も瞬時に動き出せる状態が出来上がっていた。

 もしも動き出したフィア達の間に突っ立っていたら、きっとその者は一瞬で両者の力で叩き潰され、原形の残らないぐちゃぐちゃな肉塊へと変貌するだろう。そんな事は、過去何度もフィア達の激戦を見てきた花中は当然分かっている。

 分かっているのに、足が前へと出るのが止められなかった。

「……なん、で……」

「ん? なぁに、花中ちゃん」

 無意識に零れた言葉に、大月はすんなりと答える。まるで何事もなかったかのように。

 それが花中の心を一層締め付けた。

 少なくとも花中は、大月と友達になったと思っていた。たくさん遊び、たくさん話をし、たくさん分かり合えたと信じていた。かけがえのない、とまではいかなくても……失ったら嫌なものぐらいにはなれたと願っていた。

 自惚れと言われたなら、言い返せない。この気持ちは花中じぶんに『人』を見る目がなくて、勝手に抱いただけの幻想だと指摘されれば、確かにその通りだとも思う。

 だとしても、花中には問わずにいられない。

「わたし達、友達じゃ、なかったんですか……そう思って、いたのは、わたしだけ、だったのですか……!?」

 友達だと思っていたのは、自分だけだったのかと。

「勿論、花中ちゃんとわたくしはお友達ですわ! とっても大事な!」

 すると大月は堂々と、逡巡する素振りも皮肉めいた物言いをする事なく、花中の言葉を肯定してみせた。

 あまりにも当然のように肯定するものだから、花中は呆気に取られる。心の奥底で今も抱いていた、自分すら見落とすぐらい小さな願いが叶ったのに。

 大月もまた、自分を友達だと思ってくれている? だとしたら先程口を開けて迫ってきたのは、何かしらのジョーク? 理解が追い付かず、問い詰めた側である花中の方が動揺してしまう。

「な、なら、なんでわたしを、た、食べようと……」

「だって、やっぱり美味しそうなんですもの。お友達がいなくなるのは悲しい事ですけど、でもお腹が空いたのですから、食べたくなるのは仕方ないと思いませんこと?」

「と、友達は、食べ物じゃ……」

「あら。どうして?」

「どうしてって――――」

 困惑のあまり噛み合わない問答をしばらく続けてしまう花中だったが、ついに違和感の正体に気付きハッとする。されどそれは花中に希望をもたらさない。顔を真っ青にし、頬を冷たい汗が流れていく。

 

 フィアやミリオンのような『友達』の間でも、何度か感じた事のある感覚。人間である自分と、動物や無生物である彼女達との間に考え方の差があるのは当然だ。しかし此度のそれは、今までとは明らかに違う。受け入れられない? 納得出来ない? そんな生ぬるい隔絶ではない。

「うふふ。一緒に過ごした時間、とても楽しいものでしたわ。みんなで一緒に食べたご飯はどれも最高でしたし、動物園での出来事もよい思い出です」

 大月は花中に感謝の言葉を告げる。そこに悪意はない。彼女は、本当に花中達と過ごした一日を楽しんでいたのだから。そこに侮蔑はない。彼女にとって今日一日の出来事は、きっと何時までも忘れないものとなったに違いない。

 それほどの想いを抱きながら、それでもなお躊躇なく、

「でも知れば知るほど、美味しそうに思えてきたんですの。ほら、人間だって牛がどんな風に育ってきたかを知って、美味しそうだとか、この育て方なら安心出来るとか思うでしょう? あれと同じですわ。花中ちゃんがとても素敵な育ち方をしたと知って、すっごく美味しそうに思えたから、つい食べたくなってしまいましたの」

 優先してしまうほどに、大月の食欲は大きい。

 大月と花中の違いなどその程度でしかなくて、だけど、決して相容れない事が分かってしまった。

「ぁ、ぁ……」

 怯え、後退りする花中だったが、躊躇った歩みは亀のように遅い。

「ああっ、やっぱり我慢出来ませんわ! いただきまぁーす♪」

 対する大月はさながら猛獣の如く瞬発力で、フィア達の前まで出てしまっていた花中へと駆け出した

 瞬間、大月の頭が爆ぜる。

 文字通り爆発し、四散したのだ。フィアが殴り飛ばした時は半分残っていた頭は、此度は跡形もない。首どころか胸部の一部まで吹き飛んでおり、鎖骨の辺りまで肉が抉れていた。人間ならば即死以外にあり得ない、致命的な損傷である。爆発の余波で大月の身体は暴走するトラックにでも撥ねられたかのように大きく飛び、市街地の道路を激しく転がった。

 花中の目には、何かしらの ― 例えば高速で飛来する物体が直撃するといった ― 前兆を捉えていない。しかしそれでも、何が起きたのかを察する事は出来た。

 不可視にして予兆なし、それでいて確実に致命的な一撃を与える……これは友達ミリオンの得意技なのだから。

「はぁーい、これにて終わり……って、なれば良いんだけどねぇ」

 自慢げに勝ちを宣言、したそうなミリオンだったが、その言葉の最後は明かに期待などしていなかった。

 何分、大月は頭が破損しても平然としている姿を既に花中達に見せている。大月にとって『頭部』がさして重要でない事は間違いない。今回は半壊どころか消失しているが、果たしてどの程度の違いがあるのか。

「んもう、これはちょっとやり過ぎじゃありませんこと? 頭どころか服まで吹き飛んでしまいましたわ」

 実際大月は、一体何処から声を出しているのか不明だが、まるで堪えていない声色でぼやきながら立ち上がった。肉体の断面が蠢き、新たな身体が生えてくる。頭部破裂の余波によって服も破損していたが、こちらは修復される気配もない。結果、新たに生えてきた大月の麗しい身体の一部が露わとなったが、大月はさして気にしていないようだ。

 あまりにもダメージがないからか、ミリオンは顔を顰める。フィアの方も不機嫌そうに鼻を鳴らし、鋭い眼差しで睨み付ける。

 何度も頭を吹き飛ばされた大月も、少なからず表情を変えた。ただし彼女はフィア達と違い、敵意など感じられない、あどけなさのある怒り顔を作るだけ。

 その感情の軽さが、『人間』には一際おぞましく見えた。

「なぁーにがやり過ぎよ。平気で生えてきてるじゃない」

「服の話ですわ! あなた方と違い、わたくし、服の方は自前じゃないんですもの。この服、可愛くて気に入っていたのに……大体いきなり頭を吹き飛ばすなんて、わたくしがただの人間でしたら今頃あの世でしてよ?」

「別に人間だったからって、対応変えるつもりもないけどねぇ。あとアンタが人間じゃない事は最初から気付いてたから」

 さも大した事ではないかのように語られたミリオンの言葉に、大月は少し驚いたように目を見開き、花中は大月以上に驚きの表情を浮かべた。

 ミリオンが大月の正体を見破った事は、左程不思議な事ではない。ミクロン単位の微少物質の集合体であるミリオンにとって、他者の体内を調べ回る事など造作もないのだから。外見を取り繕ったところで、内臓、骨格……血管構造や筋繊維密度まで再現せねば、ミリオンの『目』は誤魔化せない。

 花中が驚いた、否、ショックだったのは、それを知っていながら教えてくれなかった事の方だ。人間だろうとそうでなくても対応を変えるつもりがないのだから、花中が知っても知らなくても同じなのだろうが……理屈ではなく、感情が不快感を覚える。

「でもまぁ、流石にはなちゃんを食べようとするとは思わなかったけど。ねぇ、さかなちゃん?」

「いえ私は勘付いていましたけど」

 そしてフィアの言葉は、一層の混乱を花中に与えた。

「……どういう事?」

「あまり睨まないでください。私とて最初から気付いていたら花中さんに話して無理矢理にでもコイツと会わせませんでしたよ。気付いたのはついさっきです。具体的にはお肉屋さんですね」

「肉屋で?」

「わたくしとしても、後学のために是非とも教えてほしいものですわ。何故わたくしの気持ちを見抜けたんですの?」

 ミリオンだけでなく、見破られた側である大月までも前向きな好奇心を露わにしてフィアに尋ねる。問われたフィアは肩を竦めただけ。些細な事でも自慢する彼女らしからぬ、謙虚さを見せる。

 実際、フィアにとっては自慢するにも値しない話なのだろう。だからフィアは、勿体ぶる事もなく教えるのだ。

「別に大した話じゃありません。初めて会った時あなたの口から漂っていた臭いがあの肉屋の店主のものだった事を思い出しただけですから」

 花中の心臓を一時止めてしまうような、辛い言葉を。

「……ああ、そういう事。狙いが分かったから機嫌を良くしたのね。分かってしまえば、何に警戒すれば良いかも分かるから緊張する必要もないと」

「成程、相手によっては臭いでバレてしまう、と。今度から花中ちゃんのような人間に近付く時は、事前にしっかり歯磨きをきておくとしますわ」

 フィアの説明で、ミリオンも大月も納得する。なんの抵抗もなく、なんの疑いもなく、なんの感傷もなく。

 花中だけが、理解出来ていない。

 いや、頭が理解を拒んでいる。神経細胞達が迅速に導き出した結論を、感情が拒んでいる。そんな筈がない、ではなく、そんなのは嫌だ、と駄々を捏ねて。だけどいくら嫌がっても、『理性』は感情を叩き潰してしまう。

 大月と花中達が出会ったのは昨日であり、その時大月の口から店主の臭いが漂っていた。そして肉屋の店主は昨日から行方不明になっていて、大月は人間を食べてしまう。

 人間を食べる存在が、口からとある人間の臭いを漂わせる……つなげて考えれば答えは明白。反論を考えても言葉として形になる前に『結論』によって蹴散らされ、霧散してしまう。

 訊きたくない。誤魔化したままにしたい。だけど理性はそれを許さない。

「お、大月さん……あなたは、お肉屋さんの、店主さんを……どうしたの、ですか」

 ついに花中の口は理性によって操られ、

「昨日美味しくいただきましたわ」

 大月は、なんの躊躇いもなく答えた。

「あそこまで美味しかった人はそうはいません。きっと毎日美味しいものを食べ、よく働き、幸せな日々を過ごしていたのでしょうね。ここ最近食べた中では間違いなく一番でしたわ」

「その言い方からして、他にも何人か食べてるわね?」

「ええ。この二週間で何人頂いたかしら……三十人ぐらい?」

「一日二人以上とは呆れるほどの大食漢ですねぇ……」

「友人にもよく言われますわ。まぁ、あの子はわたくしとは逆に極端な小食なのですけど……いえ、無食と言うべきかしら?」

 フィアもミリオンも大月も、さも世間話でもするかのように語る。当然だ。その言葉は所詮他人事に過ぎないのだから。

 人間である花中以外にとって。

「……どう、して」

「うん? 何かしら、花中ちゃん」

「どうして、人間を食べるのですか……?」

 花中の口からは、無意識にその問いが出てきていた。

 大月の言葉が『真実』ならば――――彼女は、既に何十もの人間の命を奪っている事になる。恐らくは先程のように大きな口を開け、丸齧りにしてきたのだろう。襲われた人は逃げる間もなく餌食となり、目撃者は存在しない。社会から見れば、それは『行方不明』だ。

 即ち、大月こそがこの町で多発していた行方不明事件の元凶。

 行方不明者の中には幼い子供達、そして花中の知り合いが含まれていた。彼等には友人や家族がいて、その誰にも彼等がどうなったのかを知る術はない。だから家族や友人達は待ち続けるのだ、決して帰ってくる事がない大切な人を。

 知人達の悲しみは、所詮は他人である花中には想像も付かない。想像も出来ないほどに、深い事しか分からない。

 花中は知りたかったのだ。理解したかったのだ。人々の死に、人々の悲しみに、どんな理由があるのかを。どうしてそのような目に遭わねばならなかったのかを。

 だが、大月は不思議そうに首を傾げた。それから空を見上げるように小さく顔を上げ、人差し指で愛らしく自分の唇を撫で始めた。あたかも、何故問われたのかすら分かっていないかのように。

「どうしてって、どういう意味かしら?」

「だ、だって……だって食べ物なら、人間以外にだって、あるじゃないですか。あなたは、牛肉も、食べていたし、アイスだって食べて、野菜とか、お米だって、食べて……」

「そうですわね。どれもとても美味しいものでしたわ」

「なら! 人間を食べる必要なんて」

「でも、一番美味しいのが人間なんですもの」

「は、ぇ、え……?」

 大月のあっけらかんとした答えに、花中は呆気に取られた。ただしそれは数瞬の出来事でしかない。

 やがて花中はその顔を真っ青に染め上げた。

「人間にだってあるでしょう? 毎日食べても飽きなくて、目の前にあったら我慢出来ない食べ物が」

 大月は告げる。まるで自己紹介をするかのように。

「わたくしの場合、それがたまたま人間だっただけですわ。ああ、勿論牛肉やお野菜も好きですわよ?」

 大月は微笑む。感謝と慈しみを感じさせるように。

「だけどやっぱり人間が一番ですわ。お肉の濃厚な甘味、血の程よいしょっぱさ、内臓の刺激的な苦味……ああ、思い出すだけで涎が零れてしまいますわ」

 大月は歓喜する。大好物を前にした子供のように。

 語られた数多の言葉により、花中は全てを察した。察したが故に言葉を失った。

 大月は、ただ食べたかっただけなのだ。

 人間が食べる。そこに複雑な想いなどなく、やらねばならない使命もない。食欲という誰しもが持つ本能故の行動であり、そこに善も悪も存在しない。

 つまるところ大月にとって人とは、人にとっての牛や豚と変わらないのだ――――人間よりも熱くて深い、『食べ物』への感謝の心を抱いている以外には。

「さて、わたくしの想いは理解してくださったかしら? でしたら大人しくお腹に……収まってはくれないみたいですわね」

 口許から垂れる涎を拭うと、大月は残念そうに肩を竦める。

 何しろ彼女と花中の間を遮るように、フィアとミリオンが立っているのだ。先程までおどおどしながらも大月を問い詰めていた花中は、今や俯きながら小さく震えるだけ。フィア達の影に隠れてしまい、大月からは微かにその手足が見えるだけとなっていた。

 これでは直進しても、フィアとミリオンにぶつかるのが先である。そして人間とフィア達の力の差は歴然。フィア達は人間ほど簡単には食べられない。

 フィア達を見据えながら、大月はしばしこめかみの辺りを指でとんとんと叩く仕草を交えて考え込む。やがて、観念したようなため息を吐いた。

「流石に、あなた方を同時に相手するのは難しそうですわね。念入りに準備してから、改めて頂戴するといたしましょう」

「おっと逃げられるとお思いですか? 花中さんを襲うつもりである輩を野放しにするほど私は優しくありませんよ」

「そうねぇ。私としても、出来ればここでアンタを焼却処分しておきたいのだけれど」

「うふふ、これでも逃げ足には自信がありますの。形振り構わなければ、結構いけると思いますわ」

 じっと睨み付けるフィアとミリオンを、大月は余裕のある笑みで返す。

 そのまま三匹は黙りこくり、静寂が場を満たす……が、その時間は僅かなものに過ぎない。

 我慢など利かないフィアが、すぐに動き出したのだから。

「だったらこれからも逃げ切れますかぁっ!?」

 フィアは大きく腕を振り上げる、と同時に、コンクリートで固められた道路に無数の傷が瞬く間に刻まれていった。

 フィアの十八番である『糸』だ。それも一本二本ではなく、一瞬にして何十何百もの数を放ったのであろう。刻まれた傷の数が、放たれた『糸』の多さを物語っていた。『糸』は非常に細く花中人間の目では捉えられないが、恐らく道路の道幅いっぱいに、小柄な花中ですら抜けられないほど隙間なく展開されているだろう。行く先にある電柱があっさりと切り倒され、その切れ味が普段の、戦車すらも切断可能な鋭さを有していると察せられた。

 唐突にして容赦のない攻撃に、大月は回避する動きを見せる暇もない。瞬きする間に数十メートルと進む破壊は大月を飲み込み、大月の身体には幾つものが出来た。

「それでは皆さん、御機嫌よう」

 だが大月は何一つ堪えず、優雅に別れを告げる。

 直後、大月の身体は勢いよく無数に分離。あろう事か肉片の一つ一つが『独自』に動き、まるで自我を持つかのように四方へと飛び散ったのだ。

 中には花中目掛け飛んでくる肉片もあり、フィアが叩き落とさねば花中は肉片塗れになっていたかも知れない。

 とはいえ、花中達の方へと飛んできた肉片は全体の極一部。大半は花中達とは真逆の方向に、文字通り逃げるように飛んでいってしまう。飛ぶといっても鳥や虫のように自由な飛行ではなく所謂放物線で、やがて自由落下していく姿が見えたが……目測ではあるが数百メートル以上飛んでいる肉片も少なくない。人間の目では、正確な着地点を推し測るのは無理だ。

「……どうですか?」

「駄目ね。近くに落ちた奴は追えるけど、遠くに飛んでいった奴は速過ぎて追い付けない。落下地点に行こうと思えば行けるけど、どうせ逃げてるだろうし……見付けたところで、他を取り逃がしてる状況じゃねぇ?」

 動物達についてもそこは同じようで、フィアに尋ねられたミリオンは肩を竦めながらそう答えた。宣言通り逃げられてしまい、フィアは不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 その苛立ちを晴らすように足下に落ちていた、花中目掛けて飛び、そして自身が叩き落とした肉塊をフィアは踏み潰した。肉塊は足の裏からはみ出した部分が蠢いていたが、フィアは自らの足の幅を横に広げ、今度は余さず体重を乗せる。再び足を上げた時、肉塊はぴくりとも動かなくなった。

「……このしぶとさは些か面倒ですね。焼いた方が早そうです」

「そうみたいね。なら、今度は私がやってあげるわ」

「任せるとしましょう。取り逃がすんじゃありませんよ」

 止めの刺し方を確認し、フィアとミリオンは淡々と話し合う。事実をありのまま受け止め、先の事を考える余裕が二匹にはある。その程度にしか、二匹は考えていなかった。

 花中とは、違って。

「さてとそれじゃあそろそろ帰るとしますか花中さん……花中さん?」

 フィアが呼び掛けてきたが、花中は口も開かずに俯いたまま。フィアは花中の肩を叩いたり、目の前で手をひらひらと横切らせたりしたが、それでも花中は答えるどころか反応すら出来ない。

 あまりの無反応に心配になってきたのか、フィアは段々おろおろと挙動不審な態度を見せる。対してミリオンはそんなフィアの後ろで肩を竦めるだけ。花中の変調に興味すら示さない。

 ミリオンには分かるのだ。花中の気持ちが。考えている事が。

 だからこそ、どうでも良いのだろう。

「さかなちゃん、あまり気にしなくて良いわよ。ちょーっと気落ちしているのと……あと、そうね。『自責』の念を感じてるだけだから」

「? 自責って花中さん何かしてましたっけ?」

「しちゃったのよ、人間的には。全く、本当に面倒臭い生き物よね、人間って」

「確かに面倒臭いですよね人間って……なんの話ですかこれ?」

 心底呆れるようなミリオンの物言いに、フィアは全くピンと来ていない。

 ピンと来なかったので、フィアはこれを大した話だとは思わなかったようだ。

「仕方ありませんねぇ私が背負ってあげますよ」

 動かない花中を軽々と持ち上げ、フィアはその背中に乗せる。と、花中はすぐにフィアの背中にしがみついた。

 しかし今の花中に明瞭な意識などない。

 あるのは胸に渦巻く激情。その激情のままに花中はフィアに抱き着いただけだ。だから言葉は出さず、静かに顔を埋めるだけ。

 そしてフィアは、人間の感情の機微に疎い。

「花中さん舌を噛まないようしっかり口を閉じていてくださいねっと」

 フィアは花中の変化に気付かぬまま、超人的脚力で高く跳び上がった。

 時速にして百数十キロオーバー。ギリギリ花中が気絶しない程度の加速度を以て、フィアはこの場を後にする。次いでミリオンもその身体を霧散させ、跡形もなく姿を消した。

 辺りには静寂が戻る……が、取り戻したのは静けさだけ。フィアが繰り出した『糸』による傷が至る所に刻まれ、家の壁は一部が崩れ落ちている。切れた電線が垂れ下がり、火花を散らしていた。

 この辺りの住人か偶々通りかかった住人により、この惨状は広く世間に伝わるだろう。野次馬や警察、自衛隊なども来て調査を始めるかも知れない。

 ――――流石に、それは面倒ね。

 まるでそんな事を思ったかのように。

 あらゆる物の隙間から、『彼女』は這い出すのだった。

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