女神の美食6
大月に案内されて辿り着いた広場は、大きな賑わいを見せていた。
大月曰く、普段この場所は防災公園として使われているらしい。遊具の類は置かれておらず、芝生すら生えていない土の上には小さな物置が一つぽつんと建てられているだけ。平時は暇を持て余した中年男性がジョギングしたり、老人がラジオ体操をしたりする程度の活用しかされていないという。
だが、今日は違う。
老若男女、歳も性別も問わず大勢の人で溢れていた。子供特有の嬉しさに満ちた叫びが響き、大人達の幸せそうな笑いがこだまする。しかし賑やかさを作るのは、そんな人間達の声だけではない。ぷーぷーがーがーといった、人間以外の声もたくさん含まれていた。
今日この広間には、人間だけでなく動物達も居た。
移動式動物園の『展示物』として連れられた、たくさんの家畜達だ。掲げられた看板によると今回の展示テーマは『生活に密接した動物』との事で、様々な家畜が連れられてきている。子豚やアヒルなど、性格が大人しく、仮に暴れても怪我の心配がない小さな生き物ばかり。そんな家畜達との触れ合いがこの移動式動物園の見どころの一つであり、幼子達は興奮のあまり叫びながら小さな獣達の生の質感を堪能していた。
「ほほーうこれが豚ですか。随分と小さいのですねぇ」
ちなみに子供達の中に金髪碧眼の『野生動物』も混じっていたりしたが、それに気付いている人間は彼女の友達である花中ぐらいなものだろう。
フィアは今、子豚を両手で抱え上げ、ニコニコと笑顔を浮かべていた。子豚の方もつぶらな瞳でフィアを見ており、近付こうとしてかよちよちと手足を空回りさせている。人懐っこくて実に可愛らしい。そしてフィアは可愛いものが好きだ。かなり気に入ったらしく、ご機嫌になっているのが花中には分かる。
友達が楽しそうにしていて嬉しくない筈もない。フィアの様子を横で見ていた花中の顔にも、自然と笑みが浮かんだ。
「ところで花中さんこの豚はあとどれぐらいで食べられるようになるのですか?」
……気に入ったものの『死』をあっさりと口に出来る感性に、ちょっとばかり笑みを強張らせもしたが。
「……この子は、お肉には、しないと思うよ。多分ペット用の、ミニ豚だから」
「ペット用なのですか。食べ物をペットにするなんて人間とは物好きなものですねぇ」
一通り触って満足したのか、フィアは子豚を両手から開放。一般的に動物にとって触られる事はストレスになる筈だが、そこは流石ペット用に改良された品種か。子豚は特に疲れた様子もなく、よちよち歩きで近くに居た子供に歩み寄っていた。フィアは手を振り、子豚を見送る。
「うふふ。可愛い動物がいっぱいで良いでしょう?」
そうしていたフィアの後ろに、ひっそりと近付いてきたのが大月だった。
フィアは子豚を抱いていた時と同じ笑顔を浮かべたまま振り返り、声を掛けたのが大月である事を目視確認するや露骨に不快さを露わにする。『人間』としてあまりにも不躾な態度に、すぐ隣でこの仕草を見ていた花中は狼狽えてしまう。
さりとて大月はそんな『小さな』事は気にしない。浮かべた笑みを微動だにさせず、フィアと正面から向き合う。
こうも近付かれると流石に無視も出来ないのか、フィアはあからさまにテンションの下がった声で大月の問いに答えた。
「そうですね可愛いものは好きですから。出来れば花中さん以外の輩には帰ってもらいたいところですけど」
「あら、手厳しい。わたくしとしては、あなたとも仲良くしたいのですけど」
「私にその気はありませんので」
好意的な言葉を投げ掛ける大月に、フィアはそっぽを向いて拒絶した。大月はこれでも不機嫌さ一つ見せず、にこにこと微笑んだまま残念そうに肩を竦めるだけ。あまりにも大きな心の器を見せる大月の姿に、事の成り行きを見守っていた花中は安堵を覚えた。むしろ何時までも警戒している友達の方に、呆れにも似た想いを抱いてしまう。
「まぁ、すぐに仲良くしましょうとは言いませんわ。ゆっくりじっくり、互いの事を知り合って、少しずつ仲良くしましょう?」
尤も大月は呆れるどころか、何処までも暢気なものだった。
本人に苛立ちも焦りもないのに、他人が一生懸命になっても仕方あるまい。大月を見習い、花中も慌てるのは止める事にした。それに此処は移動式動物園である。触り放題な動物達が目前を可愛く動き回っているのに、眺めるだけなんて勿体ない。
花中は早速辺りを見回し、跳ねるウサギを見付けた。ウサギの品種にはあまり明るくない花中だが、ふわふわもこもこの体毛で覆われている愛くるしくも『管理』が面倒臭そうな風体からして、食肉目的の家畜ではなくペット用の品種だろう。
恐る恐る花中が近付いてみれば、ウサギは逃げるどころか花中の顔をじっと見つめたままキョトンと立ち止まる。丸くて大きな瞳、もこもこの身体、大きな耳をぴょこぴょこと動かす仕草……あらゆる要素が可愛らしさとなって花中の心を撃ち抜く。足腰から力が抜けてへたり込んでしまいそうになるも、一瞬で全身を強張らせて対抗。体勢を立て直すや花中はウサギ目掛けおどおどと跳び掛かった。
迫りくる花中を避けもせず、ウサギは花中の両手に大人しく掴まれる。瞬間、掌から伝わる光悦的感触。ふわふわもこもこと思っていたがとんでもない……ぽわぽわふわわんだ! 当人以外には伝わらない擬音しか例えが浮かばない、極上の柔らかさが花中の脳裏を雷光の如く駆け巡り、幸福感で精神はどろりと溶かされる。顔の筋肉がマシュマロよりも柔らかくなるのを花中は自覚し、絶対人に見せたくない表情になっている事も察したが、溶けた精神は世間体など気にも留めない。
質感だけで心がダメになる、圧倒的可愛らしさ。触っただけでこの有り様なのに、止めとばかりに両手の中でウサギさんがこてんと小首を傾げたらどうなるか?
花中の心の奥底で微かに残っていた理性は、跡形もなく消し飛んだ。
「か、かわ、可愛いぃぃぃぃ……!」
ウサギをぎゅっと抱き締め、花中はぽわぽわな体毛に顔を埋める。動物らしく濃厚な体臭が鼻を刺激するものの、嫌な臭さではない。むしろ甘くて優しい、一言で例えるなら「可愛い」香りだ。匂いさえも人間を魅了するとは、この生命体は恐るべき進化を遂げたものだと感嘆さえ覚える。
正直、花中は今このウサギ以外に興味が持てない。完全に魅了された。一応辺りを見回してみれば、フィアは逃げるアヒルを追い駆け回し、ミリオンは子ヤギを撫でている。大月も子豚を愛でるのに夢中なようだ。なら、自分がウサギばかり見ていても誰も文句はあるまい。
花中は毛皮に顔を埋め、思う存分ウサギの魅力を堪能して――――
「ねーねー、おねえちゃん」
いたところ、不意に声を掛けられた。
ウサギから離れるのを惜しみつつ顔を上げてみれば、花中の前には一人の女の子が立っていた。年頃は五歳ぐらいだろうか。ぱっちりと見開いた目でこちらを見ていて、笑顔はヒマワリのように元気で明るい。如何にもお転婆そうな子だ。キラキラと瞳を輝かせながら、花中の事をじっと見つめている。
そして女の子の後ろには、女の子の両親らしき男女が立っている。ニコニコと笑みを浮かべながら、二人の大人は女の子と花中を見ていた。
「えと、なぁに?」
「あのね、わたし、そのウサギほしいの」
花中がおどおどと尋ねると、女の子はそう答える。どうやらウサギを触りたいようだ。
別段、ウサギは花中が抱いているものしかいない訳ではない。辺りを見渡せば何匹も跳び回っている。性格の違いがあるのでここまで大人しく触らせてくれるかは分からないが、見た目はどれも大差なく、花中が抱いているのと同じ品種と思われる。恐らく人懐っこさに大差はない筈。わざわざこのウサギを渡す必要はない。
しかし人が楽しんでいる様子を見ると、それが欲しくなる、という気持ちは花中にだってあるものだ。五歳ぐらいの幼子ともなれば理屈よりも己の感情が優先されるだろうから、尚更である。何より、花中はウサギ一匹に固執するほど子供ではないのだ。『お姉さん』らしいところを見せてやらねばなるまい。
「……うん、良いよ。はい、どうぞ」
「わーい!」
ほんのちょっと、あくまでほんのちょっとだけ(個人的見解)躊躇してから、花中は女の子にウサギを渡す。すると女の子は、年相応とはいえ中々パワフルな力で花中からウサギを自分の下に引き寄せる。子供らしい乱暴さにちょっと驚きつつも、ウサギを触れて喜ぶ女の子の姿を見て花中は笑みが零れた。
「えへへ、ぎゅーっ!」
ただしその笑みは、女の子が思い切りウサギを抱き締めた事で引き攣ったが。女の子は余程嬉しいのか、ウサギをまるでヌイグルミか何かのように力いっぱい抱いたのだ。
可愛いと喜んでくれたのは良いが、いくらなんでも興奮し過ぎだ。五歳ぐらいとはいえ、人間とウサギでは大きさが違い過ぎる。力いっぱい抱き締めれば、小さい生き物には堪ったものではない。実際ウサギは苦しそうに、きーきーと悲鳴を上げている。
もしかすると、このままではウサギの骨を折ってしまうかも知れない。そうなれば当然治療が必要だが、動物園が『閉園』するまではその機会は訪れないだろう。いや、うっかり異常を見過ごされる恐れもあるし、他の子供に弄り回される可能性もある。
最悪、衰弱の果てに死んでしまうかも知れない。
「あ、あの、も、もっと優しく、ね?」
「やぁ! この子はもうわたしのなの!」
なんとか説得してみようとする花中であるが、女の子は聞く耳も持たない。むしろ花中がウサギを狙っていると思い込んだのか、ウサギを抱き締める力を一層強くした。ウサギのか細い悲鳴が、花中の焦りを強くする。
一体どうしたら、この子はこちらの話を聞いてくれるのか。
「あっ!」
悩んでいると、ついにウサギは暴れ出し、女の子の腕から逃げ出した!
慌てて捕まえようとする女の子であったが、そこは流石捕食者に襲われる事が宿命付けられた草食動物。素早い動きで女の子の腕をすり抜ける。
正直花中はホッとした。あの身軽な動きならば骨折はしていないだろうし、再び女の子に捕まる心配もない。この女の子には申し訳ないが、ウサギにはこのまま人気のない場所まで逃げてもらって……
「おっと」
そんな花中の願いを砕いたのは、女の子の父親だった。
女の子の父親は、自分の方へと逃げてきたウサギを押し付けるようにして両手で捕らえたのだ。ウサギは小さな鳴き声を出し、暴れるが、大人の力からは抜け出せない。
「はい、今度は離すんじゃないぞ」
「うん!」
「ああ、ちょっと待って。今カメラ起動するから」
そして父親は、女の子にウサギを手渡してしまった。女の子は嬉しそうにウサギを受け取り、先程と全く変わらない乱暴な抱擁で捕らえる。女の子の母親も彼等を何一つ咎めず、暢気にスマホのカメラモードを起動させていた。
ウサギはジタバタと暴れ、逃げ出すのを諦めていない。しかし女の子も、その両親も、ウサギの抵抗を気にも留めていない。あたかも、そんな行為は起きていないかのように。
「あ、あ、あの」
あまりにもウサギが可哀想で、花中は思わず彼等に声を掛けてしまった。
呼ばれた三人は花中の方を振り向き、とても社交的な笑みを向けてくれる。敵意など何処にもない。仮面を被っているかのような胡散臭さもない。何処からどう見ても善人のそれだ。
しかし彼等はウサギを手放そうとしない。
「うん、どうしたんだい?」
「え、えと、あの、う、ウサギが、苦しそうで……」
「苦しそう? ああ、確かにね。この子まだ小さいから、ちょっと加減が出来ていないね」
説得してみたところ、女の子の親も現状を認識してくれた。自分の説得は届かなくても、親の言葉なら聞いてくれる筈だ。
「でもほら、こんなに嬉しそうだからさ、取り上げるのも可哀相だし」
親がちゃんと言ってくれれば、の話だが。
「……は、ぁ、え?」
「ほら、写真撮るわよー。こっち向いてー」
唖然となる花中の目の前で、親子は団欒を続けた。何処までも幸せそうで、一見して理想的な家族の姿そのものだ。子供の腕の中で苦しそうにしているウサギを除けば。
ウサギがどれだけもがいても、苦しんでも、彼等の笑みは崩れない。
ようやく、花中は気付いた――――この人達は、ウサギの事などどうでもいいのだ。怪我をしようがストレスで病気になろうが、子供が喜ぶならばそれで問題ないと思っている。いや、考えてもいない。
彼等にとってウサギとは、その程度の存在でしかないのだ。
「あ、あの、う、ウサギ……」
なんとか説得しようとする花中だったが、しかしなんと伝えれば良いのかが分からない。どう伝えたところで、彼等はウサギの命を『娘の笑顔』よりも上位に置かないと理解してしまったから。
されど花中が迷っている間も、女の子はウサギを抱き締める腕を弛めない。ついにウサギは抵抗を止め、ぐったりしてしまった。
「ちょっと失礼しますわ」
顔を青くした花中の肩を優しく叩きながら大月が現れたのは、丁度そんな時だった。
ハッと花中が我に返った時、大月は早歩きでずんずんと女の子達一家に歩み寄っていた。子供にしか見えない花中と違い、大月の見た目は立派な淑女。突然近付いてくる見知らぬ『大人』の姿に、一家も少なからず不思議そうに目を向ける。
大月はそんな彼等の視線を受けてもお構いなし。静かに、丁寧に、立候補するかのように上品な仕草で片手を上げた
「えいっ」
「ぎゃぶっ!?」
のも束の間、大月は片手を振り下ろし、ウサギを抱えていた女の子の脳天にチョップをお見舞いした。
紛う事なきチョップである。ビンタのような淑女らしい一撃ではなく、雄々しく正確な打撃だ。叩かれた女の子はあまり可愛らしくない呻きを上げ、ウサギを抱えていた手で叩かれた頭を押さえる。
当然ウサギはこの瞬間に開放された。ぐったりとしていたウサギはよろよろと体勢を立て直すと、慌ててこの場から逃げていく。無事かどうかは分からないが、これ以上の悪化はない。その点については花中も安堵する。
代わりに、新たな火種も撒かれたが。
「ちょっと、いきなり何をするの!?」
叩かれた女の子の両親が、怒りを露わにしたのだ。
娘に暴行を震われたのだ。彼等が怒るのは至極当然、いや人間としての『義務』である。しかし大月は怯みもせず、それどころか胸を張った堂々とした佇まいで立ち向かう。
「もっと敬意を払いなさい!」
そして発する言葉に宿る力強さは、直に言われていない花中すら仰け反らせるほどのものだった。
直接ぶつけられた一家は、まるで暴風でも受けたかのように後退り。大月はその視線を足下の、小さな女の子に向けた。女の子はすっかり怯えた様子で、大月と目が合った瞬間身体を震わせる。
逃げるように俯く女の子だったが、しかし大月は女の子の顔を両手でがっちりと掴み、無理矢理上げさせた。今にも女の子は今にも泣きそうな顔をしていて、ふるふると震えるばかり。
「良いですか? 相手には常に敬意を払うのです。例えそれが、自分より小さな命であったとしても」
怖がる少女に、大月はもう一度、少女に言い聞かせる。今度は、いくらか優しい言葉遣いで。
「け、けいい……?」
「相手の事を認める気持ちですわ。あなたはウサギさんの事をオモチャだと思っているみたいですけど、ウサギさんはあなたのオモチャじゃありません。強く抱き締められたら痛いでしょう? ウサギさん、苦しくて泣いていましたわ」
「で、でも、ウサギさん、かわいいから」
「ウサギさんはあなたに抱かれるために可愛くなったのではありません。あなたがウサギさんを勝手に可愛いと言っているだけですわ。ウサギさんは、自分勝手で、意地悪をするあなたの事が大嫌いでしょうね」
「う、ふぐ、うううう……!」
ズバリと大月がウサギの気持ちを『代弁』すると、女の子は声を詰まらせ、目に涙を浮かべ始めた。
女の子はウサギを虐めていた訳ではない。可愛くて堪らなくて、我慢が出来なくて、つい力がこもってしまっただけなのは、花中にも分かっている。抱いているのはあくまで好意なのだ。
なのに相手に嫌われていると言われたら、ショックに決まっている。心が純粋で、未熟な幼子ならば尚更だ。
「おい! 娘はまだ小さいんだぞ! そんな酷い事を言うなんて」
「そうよ! 物には言い方ってものがあるでしょ!」
女の子の両親は怒りに震え、大月に噛み付く。
「敬意を払いなさいと言ったでしょう!」
だが、大月の怒りは親心さえも捻じ伏せた。
「敬意を払うのはウサギさんに対してだけではありません! あなた達の自分の子に対してもです!」
「じ、自分の子にって」
「小さいから言っても分からない? 言う事を聞かない? どれだけ馬鹿にすれば気が済むのですか! その子だって一人の人間で、自分で考える頭があるんですのよ! ならちゃんと説明するべきではなくって!?」
「そ、それは……」
大月の言い分に、両親達は言葉を詰まらせる。
そして近くで聞いていた花中も息を飲んだ。
自分は、あの子供に敬意を払っていただろうか?
見ず知らずの子だ。それにウサギの扱いがなっていないとも思っていたし、話を聞いてくれないからとすぐに彼女の親を説得しようとした。何より『お姉さん』だからという理由でウサギを渡していた。
敬意なんか払っていない。それどころか見下していたといっても過言ではない。
ただ、相手が自分より年下というだけで。
「……少し、熱くなり過ぎましたわ。あなた達の言い分があれば聞かせてくださいませ。一方的に捲し立てるのはフェアではありませんもの」
感情的だった自分を戒めながら、大月は両親達に意見を伺う。彼等がすぐには答えを出さずとも、それで話を打ちきろうとはしない。
どんな意見であろうとも受け入れる寛容さ。
どんな意見であろうともぶつけられる自信。
どんな意見であろうとも尊重する『敬意』。
大月にはその全てがあるのだ。その意思のこもった言葉が届かぬ筈がない。
「……いや、自分達が悪かったと思います。子供だからって、甘やかして、注意もしなくて……」
「叱っても無駄だって、思っていました……」
女の子の両親は俯きながら、大月の言い分を認めた。
自分の主張を通した大月は、しかしそれを聞いて嬉しそうにはしない。むしろ同意するような、物悲しい微笑みを浮かべる。
「わたくしは結婚もしておらず、子供もおりません。ですから、あなた方の苦労も知らず、出過ぎた事を申したかも知れません。もしそうでしたら、その点については謝らせていただきます」
ぺこりと頭を下げ、自分にも落ち度があったと謝る大月。
そんな彼女の下に、女の子はとぼとぼと歩み寄る。
「……わたし、ウサギさんとどうしたら、なかなおりできる?」
そして大月に悲しげな表情を浮かべながら尋ねると、大月はようやく明るくて優しい笑みを浮かべた。
「ちゃんと、ごめんなさいと言えば良いのですわ」
「ほんと? ウサギさん、それでゆるしてくれる?」
「すぐに許してはくれないかも知れませんわね。でもね、謝らなかったら、ずっと嫌われたままですわよ……さぁ、怖がらないで。まずは自分の方から歩み寄りましょう」
大月に後押しされ、女の子は大きく頷くと隅に逃げたウサギの下へと駆けた。両親達も大月に向けて一礼すると、女の子の後を追う。
三人を見送ると、大月は花中の方へと振り向いた。そして深々と、本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。つい頭に血が上ってしまい、楽しい催しを台無しにしてしまいましたわ」
「いえ、その、気にしないでください。その、むしろ、カッコいいと、思いましたし」
謝る大月に、花中はお世辞抜きに思った事を伝えた。
あらゆる人と対等に話し合う。
同じ理念を持つ人は数多く居るだろう、が、そこに例外を作ってしまうのが人間だ。動物だからとか、子供だからとか、馬鹿親だからとか、大人だからとか……自分の話が通じないと、すぐに見下し、対等の範疇から追い出してしまう。
そんな
「どうにも昔から、こう……『敬意』が足りないのを見てしまうと、カッとなってしまいますの。さっきの親子みたいに、自分に恩恵を与えてくれている存在に感謝の一つも見せない態度と言うのかしら。もうほんと、ああいうの見ると我慢出来なくて」
「……それはきっと、大月さんが、誰に対しても、優しいからだと、思います」
「もう、お世辞は止めてくださいまし。わたくし、優しくなんかありませんわよ?」
照れているのだろうか、大月は逃げるように顔を背ける。それがなんとも可愛らしくて、花中は思わず吹き出してしまった。
優しく、格好良くて、可愛くて。
果たしてこの人に欠点などあるのだろうか? あったとしても、それもまた魅力になってしまうのだという確信が花中の中に出来上がる。一緒に居れば居るほど、大月の事が好きになる。
気付けば大月という人間は、花中にとって『知らない人』ではなくなっていた。
「ねぇねぇ、はなちゃん。あっちに仔牛がいるわよ。ミルクあげられるみたいだけど、行ってみない?」
「え? あ、はいっ! 行きます! 大月さんも、行きませんか?」
大月と話していると、ミリオンがやってきて新たな動物について教えてくれた。二つ返事で答えてから、花中は大月も一緒に行こうと誘ってみる。
未だに照れているのか、大月はちょっぴり膨れ面。されどその顔はすぐに笑顔へと戻った。彼女もまた躊躇いなく「勿論」と答えてくれる。
まだまだ移動式動物園の中には、触っていない動物がたくさんいる。
のんびりなんかしていられないと、花中は大月と共に、ミリオンの下へと駆け足で向かうのだった。
「あー……楽しかったぁ」
「ええ……楽しかったですねぇ」
ふにゃふにゃに蕩けながら、花中とフィアは満足感を露わにする。容姿は全く似ていない一人と一匹は、しかし今この瞬間に限れば、まるで姉妹のように同じ表情を浮かべていた。
「うふふ。楽しんでもらえて何より。わたくしとしても誘った甲斐がありましたわ」
大月も幸せそうな花中達を見て、上機嫌に微笑む。フィアは一瞬だけ大月を睨み返したが、すぐに余韻がぶり返してきたのだろうか。目付きを鋭く出来たのは、ほんの十数秒だけだった。
仔牛へのミルクあげ、ヒヨコ触り放題、仔羊との抱き合い……移動式動物園で、花中達は存分に動物達を愛でる事が出来た。花中は動物自体が好きだし、フィアは可愛いものが大好き。彼女等は時間を忘れるほどに動物園を楽しめた。
「まぁ、お陰ですっかり夕方だけどねー」
楽しみ過ぎて、本当に時間を忘れてしまったが。茜色に染まった町の景色が花中の心に突き刺さる。しんみりではなくグサグサと。
ミリオンのぼやきに、フィアの方は時間を有意義に使えたとばかりに上機嫌な鼻息を吐いていたが、花中は「ふぐっ」と図星を突かれた事に呻く。無論花中とて先の動物園での時間を無駄だとは思っていない。
ただ、人間である花中は
「……確かに、ちょっと遅く、なり過ぎましたけど……」
「あら? 何か用事がありまして?」
「えと、用事と、言いますか……ちょっと、牛乳を切らしちゃって。この後、買いに行こうかなって」
ぽそりと零した独り言を聞かれ、花中は事情を打ち明ける。花中は朝食時に牛乳を飲むのが日課なのだが、その牛乳が今朝なくなってしまったのだ。残り少なくなっている事には気付いていたが、昨日は頭の中が肉一色だったためすっかり失念していたのである。
とはいえ、牛乳がなければ生きていけない、なんて事は勿論ない。だから別に、どうでも良いと言えばどうでも良いのだが……
「まぁ! それは大変! わたくしとした事が、食事の邪魔をしてしまうなんて! もっと早くに引き上げる事を伝えるべきでしたわ……」
しかし大月はそう思わなかったらしい。大月はわたわたと本気で狼狽える。食事をこよなく愛する大月にとって、その食事の準備を邪魔したとあっては、己の信念をも揺るがしかねないのだろう。
無論花中はこんな『小さな事』で怒りはしない。そもそも時間管理がなっていなかった自分の責任である。何も知らなかった大月を責める道理などない。加えて言えば、別に手遅れという話でもないのだ。
「いえ、気にしないで、ください。買い物なら、今から行けば、良いですし……ほら、あそこの商店街で」
花中が指差した先には、普段から利用している商店街があった。夕飯の買い物ぐらいなら、あの場所でなんとでもなる。
「……ごめんなさい」
それでも大月は、未だに項垂れたまま。どうやらかなり本気で凹んでいるらしい。
どうしたら大月を元気付ける事が出来るだろうか。花中は少しばかり考え込む。何か、大月の喜びそうなものがなかったか……
「あ、そういえば、
「特製肉まん!? なんですのそれは!」
そこでふと閃いた発想を無意識に呟いたところ、大月は素早く食い付いてきた。身を乗り出し、目がキラキラと輝いている。先程までの憂鬱さは何処へやら、面影すらない。
「え、えと、なんでも、高級和牛を使った、とってもジューシーな一品、とか」
「まぁまぁまぁ! そんなものがあったなんて! ああ、わたくしとした事が、昨日来た時は見逃してしまったのかしら!」
その勢いに押されて知っている情報を伝えると、大月は一層の興奮を露わにする。頬を赤らめ、地団駄を踏むように足踏みまでしていた。
そして我慢ならないとばかりに、大月は商店街へと駆け出してしまった。思いっきり、花中を置いてきぼりにして。
元気になってくれたのは良いのだが、食べ物好きにも程があるのではないか? なんとも自由な大月の行動に、思わず花中は苦笑いしてしまう。とはいえこのままでは大月とはぐれてしまい、再会出来なくなりそうだ。
「……とりあえず、あの人については私が追い駆けておくわ。はなちゃんは買い物に行ってきて」
呆れが困惑に変わった頃、ミリオンがそう申し出てくれた。
花中が頷く前にミリオンは歩くような動きで、しかしその速度は明らかに人間が走るよりも速く、大月の後を追う。またしても置いていかれた花中だが、今度は戸惑わない。これはミリオンの『善意』なのだから。
「わたし達も、行こうか。牛乳を買いに」
「そうですね」
共に残されたフィアは花中の言葉に同意すると、花中の手を握ってくる。花中はその手を握り返し、フィアと一緒に商店街へと入った。
夕暮れの商店街は人気がなく、フィアと花中が横並びで歩いても通行人の邪魔にはならない。友達と自由に歩ける事が楽しくて、花中は思わず笑みをこぼす。
しかしそれ以上にフィアがご機嫌な様子。鼻歌を歌い出し、腕を大きく振っていた。
「フィアちゃん、嬉しそうだね」
「それは勿論! あの大月の奴がようやくいなくなりましたからね! やぁぁっと花中さんを独り占め出来ます!」
尋ねてみると、フィアは嬉しそうに答える。
どうやらフィアは大月の事を未だに嫌っているらしい。友達のなんとも困った感情に、花中は眉を顰めた。
「もぅ、フィアちゃんったら。どうして大月さんを、そんなに嫌うの?」
「それが説明出来たら苦労はありません。ああもうアイツの何が気になるのか……」
苛立ちのあまりか、爪どころか指まで噛み始めるフィア。作り物の指なのでいくら噛んでも痛みなどないし、怪我にもならない。だが、それを知っている花中の目にも『やり過ぎ』に映るほど、深々と噛んでいた。人間ならば今頃肉が抉れ、骨が剥き出しになっていそうである。
そのあまりの苛立ちぶりに、花中も少なからず疑問を覚える。
フィアは好き嫌いに素直な性質だ。だから第一印象で嫌いになったら素直に嫌うし、嫌うに足る理由があれば何時までも嫌う。例えばミリオンなんかが典型的で、フィアは今でもミリオンを嫌っている。かつて花中の命を奪おうとして、自分を殺しかけ、そして今でも必要ならば花中の命を重視しない。退屈な時一緒にゲームをしたり、テレビドラマや漫画の話題を交わしたりはするが、好んで一緒に出掛けようとはしないし、基本不信感剥き出しだ。
逆に言えばミリオンほどの暴挙に出ていても、今は敵じゃないという『根拠』と少しの時間を置けば、フィアは相手が誰であろうともその程度にしか嫌わないという事でもある。
少なくとも大月は花中の命を奪おうとしていないし、嫌がるような事もしていない。フィアに対しても同じだ。精々初対面の時、いきなり友達になってほしいと言ってきて花中を困らせたぐらい。
その程度の事しかしていないのに、何故かフィアは初対面から今に至るまで大月を、ミリオン以上に嫌っている。何故だろうか? 思い返すと、フィアは大月に『違和感』があると言っていた。その違和感を取り除ければ、フィアも大月と打ち解け合えるのではないか……
「まぁアイツの事などどうでも良いではないですか。夕飯の買い物をしませんとね!」
考えようとする花中だったが、フィアは考える事そのものが不快らしい。話を無理矢理打ちきってきた。
花中としてはもっとちゃんと考えたかったが、フィアが言う事も尤もである。このまま思考に没頭していては夕飯の材料を買いそびれてしまいかねない。
別段、締め切りがある訳ではないのだ。家に帰ってから考えても遅くはないだろう。
「……そうだね」
難しい事は頭の隅へと追いやり、花中はフィアに同意した。
「さてさて今日は牛乳を買うのですよね? どちらに行くのですか?」
「うん、コンビニだよ。まぁ、買いたいやつがあれば、だけど。もしくは、新製品とか」
「うーむ花中さん意外と牛乳好きですよね。新製品とかにもよく手を出しますし」
「え? そうかな、普通だと、思うけど」
他愛無い会話をしながら、花中は目当てのコンビニへと向かう。
商店街には北口と南口があり、花中達が入ったのは北口の方。対してコンビニがあるのは南口側だ。そのためほぼ商店街を横断しなければ、コンビニには辿り着けない。
通り過ぎる数々のお店。商店街の常連となった花中にはどのお店も見慣れたものだ。
故にどんなに小さくとも、不自然があれば違和感を覚える。
「あれ?」
唐突に抱いた違和感は、その小さな不自然から始まった。
歩道に、一人の女性が立っていた。女性はふくよかな体系をしていて、花中のような貧弱人間では十人居ても動きを止められそうにない大きさだ。辺りを常にきょろきょろしていて、まるで何かを探しているような動きをしている。おまけにその動きは楽しそうなものではなく、何か、暗い気持ちを感じさせた。
その人物は、花中の知り合いだった。知り合いが何やらおかしな様子であるなら、事情ぐらい訊くべきだろう。
「お肉屋さんの奥さん、どうか、しましたか?」
自身の小さな声でも届くぐらい近付いてから、花中は歩道に立っていた人物――――精肉店の店主の妻に声を掛けた。
花中は相当、それこそ手を伸ばせば触れ合えるぐらい近くに来ていたのだが、肉屋の妻はハッとしたように身体を強張らせ、それから振り返る。明らかに辺りを見回していたのに、花中の存在に今まで気付かなかったらしい。
そして一瞬だけ見せた顔は、今にも泣きそうなものだった。
「――――あ、ああ。花中ちゃんじゃないか。いらっしゃい」
肉屋の妻は、話し掛けてきたのが花中だと気付くと笑みを浮かべた。しかしその笑みは引き攣っていて、とても『客』に向けるものではない。普段の彼女は、根暗で陰気な花中ではそのパワーに抗えないほど快活な女性だ。明らかにおかしい。
「えと、その……どうか、しましたか? あの、なんというか、悩んでいるように、見えたの、ですが」
「え、あ、ああ。いや、なんでもないよ。悩みなんて」
思い切って花中が尋ねてみると、肉屋の妻は目を逸らして頭を掻く。
まるで照れ隠しのような素振りが、酷くわざとらしい。まるで、大した理由じゃないと、誤魔化しているかのように。
花中は肉屋の妻の言葉を信じず、じっと彼女の目を見つめる。視線に気付いた肉屋の妻は口を開き、閉じ、また開けて……小さなため息を吐く。
その後ようやく出してくれた言葉は、掠れて消えてしまいそうなもの。
されどどれほど小さな言葉でも、花中は聞き逃さない。
「……実は、旦那が……行方不明になっちまって」
何故なら自分の身近な人間が、『異変』の当事者となった事を告げられたのだから。
「……………行方、不明……?」
「昨日から、ずっと帰ってこなくて……夜になっても戻らないからこれはおかしいと思って警察に通報して、それで近所の人らにも聞いたけどでも店から出て行くとこを見た人がいなくて……警察は、目撃証言がないから裏口から出たんじゃないかって言ったけど、そんなこそこそするような人じゃなくて、私もう訳が分からなくて……」
一度言葉にした事で、心の栓が開いてしまったのだろうか。肉屋の妻は止め処なく喋り、その想いをぶちまける。目は潤み、声はしわがれ、明らかに感情の抑えが利いていない。
そして花中の心も、彼女ほどではないが心を取り乱していた。
町で行方不明者が続出している……この話を教えてくれた人こそ、肉屋の店主だった。確かにこの町での出来事なのだから、花中の知り合いが行方不明になる可能性はあった。実際、それを心配してもいた。
だけど、こうして本当に『身近な人』が消えた事で実感する。
自分の心配など、本気ではなかったのだ。不安がっていても、怖がっていても、何処かできっと大丈夫だと思い込んでいたに違いない。
でなければ今、眩暈がするほどのショックを感じる筈がないのだから。
「ねぇ、花中ちゃん。何か知らないかい……」
「……………」
「……花中ちゃん?」
「え……あ、はい……えと、ごめんなさい。詳しくは……ただ、わたし昨日、こちらに買い物に来て……えと、十一時ぐらいの、事です、けど」
「! ……そうか、私が帰ってくる寸前まではいたんだ。ありがとう、今まで何時居なくなったかも分からなかったからね」
花中が知っている限りの、しかしあまりにも些細な情報を伝えると、肉屋の妻は本当に嬉しそうに笑ってくれた。笑ってくれたがために、花中は胸が締め付けられる。
これから、彼女はどうしていくのだろう。
肉屋の店主から、彼等の家族については何度か話を聞かされた事がある。二人の娘がいて、どちらも学生で、親に似ないで頭が良いとか、食べ盛りだとか……
花中に大人達の苦しみは分からない。想像も付かないぐらい大きくて、辛いものだとしか言えない。その苦しさを共有した気になるのが精々だ。
そして共有した気になっているがために、何かをせずにはいられない。
「あ、あの!」
「ん? なんだい、花中ちゃん」
「えと、わたしに出来る、事が、あれば、なんでも言ってください! えと、わたしなんかじゃ、何も、出来ないかも、ですけど……」
感情のまま自分の想いを伝えるも、途中で自信を喪失し、花中の声はすっかり萎んでしまう。子供染みた慰めで、却って肉屋の妻の気持ちを傷付けてしまったのではないかと申し訳なさも感じた。
それでも、肉屋の妻は微笑んでくれた。大きくて、太くて、優しい手で花中の頭を撫でてくる。
「そんじゃ、うちの肉でも買って、美味しく料理して食べてくれるかい? あの肉マニアの事だから、美味い肉の香りを嗅いだら居ても経ってもいられなくなって出てきそうだからね!」
それから冗談交じりの、だけど祈るようにも聞こえるお願いを伝えてきた。
花中も自然と笑みが零れる。こんな事を言われたら、買わずになんていられないではないか。
「……はいっ!」
花中は元気よく返事をすると、肉屋の妻も明るく笑い返し、裏口の方へと向かった。花中も肉屋の扉を潜り、中へと入る。
……そんな花中の後を、一緒に居たフィアは追わなかった。
ただ、フィアはじっと花中を見ていた。否、正確には花中ではない。花中が肉屋の中を動いても、その視線は微動だしないのだから。人間には見えない何かを、観察するように眺めるだけ。
やがてフィアはこくりと頷き、それから上機嫌に微笑む。
「成程そういう事でしたか。ようやく尻尾を掴めましたよ」
そしてぼそりと独りごちた。
店内で肉を選んでいる花中には届かないぐらい小さな、自分だけしか聞こえない声で……
……………
………
…
「で、それで延々と選んだ結果、ここまで遅くなったと」
「……面目ないです」
かくして豚肉と牛乳を買った花中は、商店街の入り口で待ちぼうけを食らったミリオンの顔を直視出来なかった。一時間も待たせたとなっては、流石に言い訳のしようもないので。
最早夕暮れ時は終わり、辺りはすっかり夜の暗さ。街灯が光り始め、道路を照らす。元気な太陽が姿を消した事で気温は一気に下がり始め、日中を心地良く過ごすための服装では些か寒くなってきた。
こんな場所に一時間も待たされたなら、怒っても仕方がない。花中と一緒に買い物をしていたフィアは上機嫌だが ― 何故か、大月と合流しても機嫌は良いままだった ― 、ほったらかしにされたミリオンはかなりご立腹な様子だ。
気温差を感じる器官を持たないミリオンですらお怒りなのである。寒さを感じる人間なら、もっと激高したって悪くはあるまい。
「まぁまぁ、ミリオンちゃん。花中ちゃんも反省しているのですから、あまり怒っては可哀想ですわ」
されどミ大月は、怒るどころか上機嫌なぐらい笑っていた。流石はフィアのあからさまな敵意に動揺一つ見せない穏やかな性格の持ち主、太平洋よりも心が広い……或いは、抱えている紙袋いっぱいに入った肉まんのお陰かも知れないが。
「すみません、待たせてしまって……」
「うふふ、構いませんわ。お陰でわたくし、じっくりと商店街を見て回れましたもの」
一応謝りはしたが、大月は本当に気にしていない様子。花中は胸を撫で下ろす。
何分、そろそろお別れの時間なのだ。やはり最後は笑顔でさよならを言いたいものである。
「今日は、とても楽しかったです。誘ってくれて、ありがとう、ございます」
「あら、そんなお礼だなんて。わたくしが花中ちゃんと仲良くなりたかった。だから誘っただけですわ。お礼なんて言われても、困ってしまいます」
「それでも、です」
にへっと、花中は頬を緩ませる。
大月と過ごした時間は、とても楽しいものだった。最初は怪しんでいたし、昼食では昨晩のメニューもあってそこまで盛り上がれなかったが……気付けば、あっという間に時間が経っていた。振り返ってみれば、どれも良い思い出になると言いきれる。
こんなにも楽しい思い出が一度きりなんて勿体ない。そして一度きりにする必要は、きっとない。
大月とはもう、友達になったのだから。
「えと、また会いましょう! 今度は、わたしが楽しい場所に、ご案内しますね!」
花中は満面の笑みで別れと再会を伝え、くるりと大月に背を向けた。それから軽快な足取りで家路に付いた
「花中ちゃん。お待ちになって」
最中に、大月は花中を呼び止めた。
帰ろうとした花中は慌てて足を止め、転びそうになる身体をどうにか持ち直してから大月の方へと振り返る。大月は可愛らしい足取りで花中の傍まで来ると、にっこりと微笑んだ。
「えと、どうしました、か?」
「うふふ。また今度って思ったのですけど、花中ちゃんの可愛い姿を見たらやっぱり我慢出来なくなりまして。なんかこう、むらむら~と急に来ちゃう時、あるでしょう? あの感じですわ」
「? えっと……」
何を言いたいのだろう? 大月の伝えたい事がよく分からず、花中は首を傾げた。とはいえ大月が浮かべている穏やかで優しい微笑みを見る限り、大した用事ではなさそうだと花中は感じる。
故に花中は大月の手が自分の肩を掴んでも、別段思う事など何もなく。
「いただきます」
自分の顔を見ながら言った大月の言葉の意味を理解しようにも、弛みきっていた意識は答えに辿り着けなかった。
そう、全てが一手遅い。
例え自分の肩を掴む手の力が強く、振り解けそうになくなったとしても。大月がお喋りをするには非常識なぐらい顔を近付けてきたとしても。
そしてその顔が、まるで花が咲くかのように裂けたとしても。
あらゆる異常を前にしても、気が弛みきっていた花中には反応出来なかった。本能的に『何かヤバい』事は察知しても、身体を動かすための命令が間に合わない。むしろ反射的に危機感を覚えた事で、身体全体が硬直してしまった。最早逃げる事も出来ず、花中は迫り来る大月の頭をぼんやりと眺めるばかりで、
突如として大月の頭が破裂しなければ、果たして花中はどうなっていたのだろうか。
「――――え、ぁ」
「いやはや全く油断も隙もないとはこの事ですかねぇ」
呆気に取られる花中のすぐ横には、フィアが立っていた。
されど人間には想像力がある。だからフィアの腕が伸びていて……その腕が大月の頭があった場所を真っ直ぐ貫いていたなら、何が起きたのかの想像は膨らませられる。
そう、これは想像だ。それでも花中は顔を青くした。
友達が『人間』の頭を殴って粉砕したとなれば、どうして冷静なままでいられるのか。一部だけなら、まだ助かけられるかもと現実逃避のしようもあっただろう。しかし顎から上が丸ごと吹き飛んでいたら、助かる要素など微塵もない。
「ふぃ、フィア、ちゃ……」
「おっと花中さんちょっと待っててくださいね。その肩にあるお邪魔虫も取り除きますから」
ガタガタと震える花中だったが、フィアは自分のした行為になんの感傷も抱いていないらしく、普段と変わらぬ調子で喋る。未だ花中の肩を掴んだままの大月の手を丁寧に引き剥がし、それから嫌悪を剥き出しにした勢いで大月の身体を突き飛ばした。
すると大月の身体は、よろよろと後退りする。
……後退りというのは、意識のない身体に出来る事ではない。似たような行動である『歩く』行為でも、非常に高度な情報処理を必要とするのだ。そしてその情報処理は、主に脳のよって行われている。
ジタバタと暴れる事は、細胞のエネルギーが残っている限り不可能ではあるまい。だが歩いたのなら……何かしらの情報処理能力名残っている証。
例え頭がなかったとしても。
「……まさか」
過ぎる可能性。否定したい感情。様々な思考がごちゃ混ぜになる中で、大月の『身体』は花中の方をずっと向いていた。
やがて大月の身体は、飄々と肩を竦める。
そして彼女は、語るのだ。
「あらあら、失敗してしまいましたわ。やっぱり拙速だったかしら?」
顎しかない頭の断面を蠢かせながら、お淑やかに、穏やかに、何事もなかったかのように。
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