神話決戦9

 大きく西に傾いた太陽の赤らんだ日差しが降り注ぐ、太平洋のど真ん中。地平線の彼方まで広がる海の上を、何百メートルにも渡る三つの白い『筋』が走っていた。

 『筋』の正体は、舞い上がる水飛沫が生み出しているあぶく。撒き散らされる大量の飛沫により無数の泡が生まれ、それが一筋の線を形作っていたのだ。

 そしてそれぞれの『筋』の先端では、その膨大な飛沫を生むほどの勢いで海上を爆走する三匹の野生生物達が居た。

「で? 実際問題どうなのよ」

 野生生物のうちの一体、海面すれすれを時速三千キロもの超音速で飛行するミリオンがさして期待してない口振りで尋ねる。

 爆走する彼女達により、海水は掻き回され、轟音を立てている。人間であったなら、ミリオンの気怠げな声を聞き逃していただろう。しかし今回声を掛けられたのは、聴力の発達した生物であるフィアミィ。彼女達の聴力であれば、音速を超えるが故置き去りにされ、おまけに轟音の中に潜んでいるミリオンの言葉を捉える事さえも可能だ。

 胡座を掻いた姿勢で海面上を滑るように疾走するフィアは、何も考えていなさそうに首を傾げた。

「どうと言いますと?」

「アイツ相手にどれだけ時間稼ぎが出来るのか、って事よ。正直、虫けらみたく踏み潰されて終わりじゃない?」

「正直あたしもそー思う。というかあたし無理やり連れてこられたし……」

 ミリオンが自分の意見を伝え、ミィがそれに同意した。ちなみにミィは海上を生足で爆走中。自分の身体が沈む前に足を前に出す、という動きを文字通りやって海面に立ち続けている。

 フィアは疑問を呈するミリオンとミィの顔を見てから、やれやれとばかりに肩を竦めた。何を今更、と言いたげな表情も付け加えて。

「そりゃ一対一で挑めばそうでしょう。ですが三対一ならちょっとはやりようもあると思うのです」

「やりよう、ねぇ……具体的には?」

「ふふん実は一つ策を考えてあるのです。あなた達を特別に私の手足としてあげましょう。私が操る水で掴み上げたあなた達を鈍器の代わりとしアイツをボコボコと殴るのです! ミリオンで殴れば熱くなり! 野良猫で殴れば大威力パンチ! ふふん我々の長所を活かした見事な作戦でしょう? これぞチームワークというやつですね」

「あたしらを道具扱いかい。あと、それ絶対強くないから」

「え?」

 呆れるミィだったが、フィアは目をパチクリさせて呆けてしまう。どうやら割と本気でこんな作戦で行こうとしていたらしい。ミィはいよいよ言葉も失ったのか、帰りたそうに来た道をちらりと振り返っていた。

「いや、悪くないわね。それ」

 ミリオンから肯定の言葉が出てくるまでは、だが。

「えうぇっ!? ミリオン、なんで納得してんの!?」

「ふふん。どうやらあなたには難し過ぎた作戦でしたかねぇ? 花中さんには敵わずとも私だって知略の一つ二つ巡らせる事は出来るのですよ」

「はいはい、どっちも早とちりしないの。悪くないって言ったのは考え方についてよ」

「……考え方?」

「みんなの長所を活かすってところ。例えば……」

 ミリオンが自身の案をフィア達に話す。

 ミリオンの話を聞いたミィの方は得心が行ったように目を輝かせ、それを見たフィアは不満そうに唇を尖らせた。

「おお! 良いじゃんそれ! そうだよ、作戦ってのはやっぱそーいう感じじゃなきゃね!」

「むぅ。直接殴った方が強いと思うのですが」

「直接殴っても勝ち目のない奴が今回の相手でしょ。搦め手でもなんでも、やれる事はやった方が良いんじゃない?」

「……まぁ死んだら元も子もありませんからね。良いでしょう。ただしヤバいと思ったら私は逃げますからね」

「それは私も同じ」

「ついでに言うとあたしも同じ」

 作戦への同意を確かめ合うフィア達。そして三匹は揃って前を見据える。

 ――――ようやく見えてきた。

 海上にそびえる巨大な黒体……異星生命体だ。三百メートルを超える巨体は、西日を浴びてもやはり輝き一つ放っていない。相変わらずの姿であるが、しかし前情報と違うところもある。

 動きを止めていたのだ。移動時は真横に倒れていた姿勢が今は直立体勢で、ゴルフボールを乗せるピンのような部分の先端が海面に着いている。辺りに物がない太平洋のど真ん中なので分かり辛いが、少なくとも時速七百キロでは動いていなさそうだ。

 フィア達が駆逐艦ロックフェラーから降りて、かれこれ二十五分が経っている。その間に米軍が何かしらの攻撃を成功させたのか? それとも先の核攻撃のダメージが今になって現れたのか? 人間ならばそのような期待を抱くかも知れない。

 しかし異星生命体の力を本能的に感じ取ったフィア達は、そんなあり得ない希望を抱かない。

 海面と接しているピンの先端……その先端目掛け、周囲の海水がまるで氾濫する川のような勢いで流れ込んでいた。異星生命体は傷を癒しているのではない。恐らくエネルギー補給をしている最中なのだろう。核融合において最も効率的な資源である、多量の水素を取り込むために。

 つまり放置すれば、奴は今以上の力を蓄える事になる。

「むぅ。ちょっと出遅れましたか」

「みたいねぇ。今すぐ邪魔しないと後々面倒になるわよ、これ」

「でも怒るんだろうなぁ、すごく」

「そりゃ怒るでしょ。むしろ怒ってもらえないと意味ないし。ま、程々に頑張っていくとしましょ」

「「あいあいさー」」

 ミリオンからの気の抜けた心構えに、同じぐらい抜けた掛け声で呼応するフィアとミィ。

 獣達は知っている。自分達は『あれ』に敵わないと。一瞬の油断が自分達の命を刈り取ると。人がその事実を前にしたなら、恐怖で慄き、震え、動けなくなるだろう。或いは発狂し、自ら死を選ぶという選択に一抹の『人間の誇り』を幻視するやも知れない。もしくは愛する者のため、勇気を奮い立たせるのだろうか。

 しかし獣は恐怖に取り込まれない。人間よりも色濃く死を感じ取りながら、その予感を躊躇いなく受け入れ、不安を完膚なきまでに拒絶する。勇気など持たない。持たずとも立ち向かえる。

 それどころかフィアとミィは、笑っていた。

 忘れかけていた恐怖。

 久方ぶりに揺らぐ誇り。

 何時ぶりかも分からぬ絶望。

 人間社会に浸り、薄れていた野生が身体に満ちていく。生命の鼓動が全身を駆け巡る。張り裂けそうなほどの力が細胞から溢れ出してくる。

 楽しさなんかない。二度とこんな事やりたくない。

 だけど今日は何時も以上に、生きている実感がある。

「若いわねぇ……」

 その二匹を、懐かしむように眺めるミリオン。彼女の微笑みだけが、前ではなく後ろを向く。

 そして前だけを見つめる二匹に、そんな事は分からない。

「行きますよ!」

 どぽんっ、と音を立ててフィア、そしてミリオンとミィも海へと潜った

 途端、海が揺れ始める。

 揺れの原因は海そのもの。今まで異星生命体に吸われるだけだった海水が、その力に抗うかの如く逆流を始めたのだ。突然『食事』が思うように進まなくなり、不思議に思っているのか異星生命体は尖った先端でつんつんと海面を突き始めた。

 その暢気な瞬間を狙い撃つように、大きくうねった海面から一本の――――巨大な『腕』が生える!

 『腕』と称したが、実体は海水の塊である。『腕』は物理法則を無視するように高々と伸び、音をも彼方に置き去りにする超高速で異星生命体の球体部分に容赦なく衝突。発生した衝撃波により辺りの海水が半径数百メートルにも渡ってクレーターのように抉れ、圧縮されて白く色付いた空気がドームのように広がった。

 まるで隕石の衝突でもあったかのような光景。地球上に存在する大半の物体相手なら、過剰としか言えない破壊力なのは一目瞭然だ。

 されど宇宙の民にとってはどうか?

 異星生命体、未だ揺らがず。

 隕石クラスの破壊力を受けてもなお、地球外からの来訪者はその存在を認識すらしてないのか。反撃どころか探索する素振りすらなく、凹んでしまった海面を求めるように降下を始めた。渾身の一撃を無視された『腕』であるが、攻撃の手を休めはしない。何度も何度も、一定のリズムで、規則正しく打ち付けていく。一見して無駄な攻撃が繰り返されているかのようである。

 しかし視野を広げれば、見え方は変わる。

 『腕』が異星生命体に直撃するほどに、生じる海上クレーターの大きさがどんどん巨大化しているのだ。クレーターの巨大化が意味する事は実にシンプル。『腕』の纏っている威力が、どんどん上がっているという事。そしてその威力は、殴り付けた回数と共に増している速度によって生み出されていた。

 尤も、逆に言えばいくら威力を増しても、未だ異星生命体に有効な一撃を与えられていない事も意味しており。

「ちっ! 全然効いてないじゃないですか!」

 約四千メートル近い海底にて、魚の姿を晒しているフィアは苛立ち塗れの言葉を発していた。

 フィアの目の前には、海面付近を暢気に浮遊する異星生命体の姿が映し出されている。フィアが能力を用い、海面近くの光を取り込んで自身の眼前に投映しているのだ。

「ちょっとー! 何やってんのか全然見えないんだけど! こっちにも映像回してよ!」

 なお、その映像は本当に自分の目の前にしか映し出していないので、すぐ隣の空気部屋に陣取っているミィには全く見えなかったが。クレームを入れられたフィアだが、しかし彼女は反省どころか逆ギレの表情 ― 魚なので大変分かり難いが ― を浮かべる。

「そんな余裕ある訳ないでしょうが! 流石にあれだけの水を操ると私でもいっぱいいっぱいなのです! 軌道の補正は私がしているのですから肉体労働担当は黙って身体を動かしていれば良いのですよ!」

「んなっ!? 何よその言い方! 大体あれを動かしてるのはあたしでしょ! アンタただ固めてるだけじゃん!」

「はぁ!? それが大事なのが何故分からないのですか!」

 ぎゃーぎゃーわーわー、二匹は激しく口論する。

 しかしどちらも自らの手を緩めはしない。

 フィアは水を操り、大質量かつ超硬度の水塊を作り上げている。この水塊を作るために、フィアは能力の『出力』の大半を費やしていた。それこそ、水塊を高く打ち出すための余力すらないほどの全力投入だ。お陰で一億トン以上の水が超圧縮状態で固まっているのだが……このままでは水塊は異星生命体を殴るどころか、海面を飛び出す事すら儘ならない。

 そこでミィの怪力が助太刀する。ミィ本体の呼吸が出来るよう空気部屋が作られていたが、彼女の両腕両足は海水中に飛び出している。足については海底に接している状態だ。しかしそれはミィの手足が自然の深海に晒されている事を意味しない。今、ミィの手足にはフィアの操る水が纏わり付き、『水塊』と連結しているのだ。ミィが拳を繰り出せば、その巨大なエネルギーは『水塊』へと伝わる……打ち出される方角こそフィアがコントロールしているが、そのための推進力を担っているのはミィなのである。

 即ち、ミィの動きと『水塊』は連動する。

「この……馬鹿淡水魚!」

 フィアへの悪口と共にミィは全体重を足に乗せて踏ん張り、全力で拳を前へと放った!

 ミィの恐るべき怪力は纏わり付く水を伝わり、フィアが形成する水塊へと到達。その気になれば山をも砕く超越的怪力により、水塊は凄まじい速さで浮上する!

 あたかも拳のような塊は音速超えの速さで海を飛び出し、異星生命体を打ち抜いた!

 これこそが異星生命体を襲う攻撃の正体。フィアとミィの連携による、合体技だったのだ。とはいえ直撃を受けたにも拘わらず、異星生命体は未だ動じない。人間の町にこの『拳』を落とせばその衝撃波で何十万もの命を奪えるだろうが、奴の膝を付かせるには全く足りぬようだ。されど二匹に余力がある訳でもなく、これ以上『拳』の威力を高めるのは不可能である。

「ちょっと、もうっ! 最初に決めたタイミングでやってくれないとズレるじゃない!」

 そこで二匹を補助するのが、姿は見えずに声だけがするミリオンだった。

 ミリオンはフィア達の傍には居ない。彼女が居るのは、フィアが操る水塊の中央付近である。声だけは水を伝わり、フィア達の下まで届いていた。空気の部屋など用意されず、海中で仁王立ちしながら漂う彼女であるが、何も遊んでいる訳ではない。

 ミリオンの役目は熱の制御。

 材質などの条件にも寄るが、物体と物体が衝突した時、それらが内包していた運動エネルギーの大半は熱へと変換される。トンカチで釘を叩くと、打ち付けたところが僅かに熱くなるのが分かりやすい実例だ。当然規模が大きくなれば発熱量は増大する。ミィの巨大な力によって異星生命体に打ち付けられた水塊は、衝突面に人間程度であれば容易く焼き殺せるほどの熱を発生させていた。

 ミリオンはその熱を吸収していた。理由は高熱によって海水の気化が始まり、フィアの能力に乱れが起きるのを防ぐため――――というのが『一つ』。

 もう一つの理由は、その熱エネルギーを利用するため。

 ミリオンは普段から、大気中の熱を活動エネルギーとして活用している。大気の熱を用いて動き、物を持ち上げ、人智を凌駕する怪力を生み出す。今回しているのもこの能力の延長線上の話。取り込んだ熱エネルギーを運動エネルギーに変換するだけだ。

 そして変換後の運動エネルギーを、自身を取り囲む水塊に与える。

 与えればどうなる? 水塊はミィのパワーと合わさり、更なる加速を得て勢いよく異星生命体に激突する。激しくぶつかればその分多くの熱が生まれる。その熱をミリオンが取り込み、変換すれば……水塊はどんどんどんどん、打ち付けるほどに加速していく!

 フィアだけであったなら、巨大な水の塊を作るだけで精いっぱいだっただろう。

 ミィだけであったなら、自分の体重と同じ分の打撃しか与えられなかっただろう。

 ミリオンだけであったなら、打撃による熱を生む事だけでなく、変換した運動エネルギーに自身の身体が耐えられなかっただろう。

 一体だけでは、あの異星生命体相手など夢のまた夢であったに違いない。されど三体が各々の役割を自覚し、それぞれの長所を活かせば、あの怪物に迫り、肉薄出来る!

【――――* * *】

 果たして何十発の『拳』を打ち込んだ頃か。ついに、。アメリカ海軍の猛攻を無視し、水爆の直撃に気付きもしなかった存在が、フィア達の放った『拳』を前にして、歪な鳴き声と共にその身を仰け反らせたのだ。

 奴は『雄弁』だった。無駄な攻撃にはなんの反応を見せず、危険な攻撃には素早く対応する。危なげのない、実に適切な行動である。

 故に、分かりやすい。

 奴が躱そうとしたのなら、この攻撃にはそれだけの価値がある!

「さっさとぶちかましなさいっ!」

「言われなくてもやるっつうのオラアァッ!」

「だからちゃんとタイミング合わしなさいよ!」

 いがみ合いながらてんでバラバラに、その誤差を野生の直感で修正し、三匹は放った『拳』に渾身の力を込める! 過去最大の破壊力を秘めた『拳』は、避けようとする異星生命体を追い――――さながらアッパーカットが如く軌道で直撃。

 異星生命体の身体が、ほんの僅かだが……

 人類史上最大最強の核兵器すら不動を貫いた存在が、明らかに外力によって動いたのだ。浮かび上がった異星生命体は、まるで突き飛ばされた人間がなんとか倒れまいとするように、ふらふらと後ろに下がりながら体勢を立て直す。疲弊した様子はない。ダメージを受けて動きに支障が出ている素振りもない。恐らく異星生命体にとっては、先の一撃などちょっと小突かれた程度の威力に過ぎないだろう。

 それでも異星生命体は、全身を濡らした水が蒸発するほどの熱気を帯び……地球生物にも伝わるほどの、明確な怒気を纏い始めた。

「ぃよしっ! ……と喜んで良いのやら。めっちゃ怒ってますよアレ」

「そりゃあねぇ。ミリオンが言ってたけど、ご飯の邪魔をした訳だしね。万死に値するよね」

「幸い、アイツが怒ったのは私達が頑張って繰り出した『拳』に対して。私達一匹一匹を正確に狙おうとはしないでしょ……尤も、その『拳』はアイツが後退りしたから途切れちゃったけど」

 海面近くで漂うミリオンの声を拾い、自分の下まで届けたフィアは海面を見上げながら頷いた。

 異星生命体をも怯ませた強大な一撃。当然ながら、そう簡単に繰り出せるものではない。欠点だってある、というより欠点だらけだ。

 あの攻撃はあくまで、相手が襲い掛かってくる『拳』を迎撃せず、黙って殴られてくれる事を前提にしている。加えて、一定間隔で殴るからこそエネルギーが蓄積するのだ。多少なりと実戦的な動き……例えば今し方のように異星生命体が後退りするなどしてインターバルが発生すると、次の打撃に使われる筈だった運動エネルギーが霧散してしまうのである。こうなるとまた一から始めなければならない。おまけに少しずつ威力を高めていく都合、どうしても『そこそこの一撃』を喰らわせてしまう。決め手となる一撃になる前に、攻撃の流れが終わってしまうのだ。

 要するに、この攻撃方法では異星生命体を倒せない。

 されど元よりフィア達に異星生命体を倒す気など毛頭ない。彼女達は奴が悠々と食事をし、英気を養うのを妨げたいだけである。それも『彼女』が戻ってくるまでの、ほんの僅かな時間だけ。

 故に倒せない事は問題ではない。問題なのは……奴ならば、自分達を容易く殺せるという事。

「アイツ多分今は私達が繰り出したあの『拳』を探してるんでしょうねぇ」

「でしょうねぇ。でも、あれはもう何処にもない。運動エネルギーはぜーんぶ海に流れ出ちゃった」

「かといって、あたし達に気付いてもいない。つまり、完全に見失った訳だね」

「……こういう時あなた達ならどうします?」

「そんなの、決まってるじゃない」

「答えるまでもなし」

「ですよねぇ」

 返ってくるミリオンとミィの答えを聞き、フィアは魚の姿のまま肩を竦めた。

 食事の邪魔をした敵は近くに潜んでいる筈。しかし今は姿も気配もない。そういう時、フィアならどうするか?

 簡単だ。近くには居る筈なのだから、その内わたふたと逃げ出てくるかも知れない。運が良ければ流れ弾が当たるかも知れない。何より、飛び回る虫けらをちまちまと探し回るなど面倒この上ない。

 自分の考え方で想像をしていたところ、フィアの目の前に浮かぶ映像に変化が起きた。

 異星生命体の球体部分がパックリと割れ、花が咲くように大きく開く。内側にあるのは『あの時』と同じ、灼熱の太陽。露出された高温の塊は周囲を一気に加熱し、海面を沸騰させ、霧が立ち込めたのかと錯覚するほどの湯気を立ち昇らせた。放出される輝きは辺りを眩く照らし、沈みかけの太陽はその姿を掻き消されてしまう。

 アナシスを打倒した時と同じ形態。恐らくはあれが、異星生命体は攻撃態勢なのだろう。

「さぁてここからが正念場ですね……逃げる準備もしておきますか」

 逃げる余裕があればですけど――――その言葉を、フィアが口にする事はなかった。

 猛然と輝きを増した『太陽』の前で、そのような軽口を叩く暇などある筈もないのだから……




 モサニマノーマから百キロほど離れた沖合い。かれこれ一時間ほどそこに浮いていた駆逐艦ロックフェラーは今、慌ただしさに包まれていた。

 駆ける軍人達。引っ切りなしに鳴り響く警報と艦内放送。救出されていたモサニマノーマの住人達は軍人に誘導され、先程までとは別の区画へ移動させられる。物資が行き交いし、上官と思しき者の怒号が飛び交う。

 これは正しく、戦闘態勢への移行である。

 通常兵器のみならず、核兵器さえも通用しなかった異星生命体。今でこそ進行を止めているが、何時移動を再開するか分かったものではない。そして、どちらへ向かうのかも。

 もしも異星生命体が再びアメリカ本土の方角へと進行し、途中で止まらず本当に上陸したなら……現時点での作戦と戦力では止める事すら叶うまい。最早アメリカは手段を選ぶ余裕などなくなっていた。アメリカ国民の生命と財産を守るため、アメリカの持つ全ての力と知恵と技術を結集する必要がある。

 駆逐艦ロックフェラーも、無人島と化したモサニマノーマ付近に停泊などしていられない。未だ具体的な作戦は命じられていないが、命じられた瞬間から動けるよう準備する。それが、今この艦内に満ちている忙しなさの理由だった。

 そんな喧噪を背中に背負いながら、一人甲板から海を眺める少女が居る。

 サナだった。そしてサナの視線の先には、彼女達が住んでいた島の守り神……アナシスの成れの果てが佇んでいる。薄らと星空が見えてきた景色の中でも、一際黒い物体となってしまった神の姿。サナはそれを延々と眺め続ける。

 彼女は、ずっと此処に居たのだ。ロックフェラーに乗り込み、両親と再会してから、ずっと。

「サナちゃん、此処に居たんだ」

 そんなサナに、花中は後ろから声を掛けた。

 サナはぴくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらに振り返ってくれる。だけど声を掛けたのが花中だと分かると、無言のまま視線を前へと戻した。花中はサナの素っ気ない態度に表情を変える事もなく、そっとサナの隣に立って、サナと同じものを見る。しばし、海風だけが二人の間を駆けていた。

 先に自分から口を開いたのは、花中だった。

「この船、命令が来たら、移動するんだって」

「……そうなんだ」

「……アナシスさんの事が、気になる?」

 花中が尋ねると、サナは横目で花中をチラリと一瞥し、無言のまま微かに頷く。

「フィアちゃんが、言ってた。時間を稼ぐって」

 サナの返事を見た花中は、脈絡のない言葉で話を続けた。サナは眉を顰めたが、特段追求する気もないのだろう。「そう」と一言、投げやりに返すだけ。

 明らかな無関心を示されたが、花中はお構いなしに喋り続ける。普段の花中ならあり得ない強引さを伴って。

「変だよね。時間を稼ぐなんて。だって、アナシスさんを、倒した、異星生命体……えっと、宇宙人みたいなもの、らしいけど……兎に角、アイツは、アメリカ軍も勝てなかった、奴なんだよ」

「……………」

「フィアちゃん達も、みんな自分達じゃ勝てないって、言ってた。それぐらい、強い奴なの。一体、誰なら勝てるのかな。誰を、待ってるのかな」

「花中ちゃん、お願いだから今は一人に」

 いくら従姉妹とはいえ、流石に煩わしくなってきたのだろうか。明らかに不機嫌そうな横顔を見せながら、サナは棘を隠そうとしない拒絶を告げようとする。

 されど、最後まで言い切る事はなかった。

「アナシスさんは、まだ生きてる」

 花中のか細い、だけどどんな大砲の音よりも強烈な言葉によって、妨げられたのだから。

「……え?」

「人間の軍隊じゃ、相手にならない。フィアちゃん達でも、時間稼ぎが精いっぱい。だったら、勝てるのは一人……ううん、一匹しか、いない。フィアちゃん達は、アナシスさんがもう一度、『あれ』と戦うのを、待っている」

「で、でも、そんな……だって、アナシス様はあんな……」

「あんなだから、何?」

「何って……」

 声こそ詰まらせるサナであるが、視線は雄弁に理屈を捏ねていた。形は保っているが、アナシスの体色は燃えカスのように真っ黒に変わり果て、異星生命体が去ってから何十分も経ったのに動く気配すらない。常識的に考えれば、アナシスの命が燃え尽きてしまった事は明らかだ。

 そう、人間の常識であれば。

 花中は知っている。フィア達ミュータントに常識など通用しない事を。彼女達は条理を嘲笑い、理不尽を以てして人間が定めた摂理を粉砕する。ならばフィア達すらも及ばない超越的存在のアナシスが、という『摂理』を捻じ曲げられぬとどうして信じられよう。

 無論これだけなら願望だ。花中には花中なりの『理屈』がある。

「勿論、ちゃんと理由もあるよ……理由というより、信用、なんだけど」

「……信用?」

「フィアちゃんが、アナシスさんが生きてるって、そしてもう一度『あれ』と戦うって、確信しているから」

 訝しげなサナに、花中は臆面もなくそう答える。

 フィアがどうやってアナシスの生死を確かめたのかは分からない。しかしアナシスが生きていると確信出来なければ、彼女はアナシスの復活を待とうとはしなかった筈だ。異星生命体が繁殖などしようものなら地球は地獄と化すだろうが、フィアの能力で地面に潜るなりなんなりをすれば、直接対決をするよりも生存率は上だと思われるからだ。そしてフィアは自分と『自分の好きなもの』以外がどうなろうと気にも留めない。世界のために自己を犠牲にするなど、思い付きもしないタイプである。

 フィアが異星生命体を少しでも足止めして疲弊させようと考えたという事は、アナシスが復活して異星生命体を打倒する可能性の方が、自分一人で逃げ回るよりも生存率が高いと読んだからに他ならない。

 それが、花中がアナシスの生を信じる『理屈』。

 フィアとの付き合いが一日もないサナには、花中のようには信じられないだろう。けれども希望を提示され、それを簡単に振り払えるほど人の心は強くない。

「本当に、アナシス様は、生きてるの……?」

 弱々しく訊き返すサナに、花中は力強く頷く。

「わたしはそう信じてる。それに……」

「それに?」

「でないと、ちょっと困っちゃう。ほら、だってアナシスさん以外、誰もあの宇宙人に、勝てそうにない、し」

 本当に困ったように花中が答えると、サナは目をパチクリ。しばし呆けていたが、やがてそれが花中の嘘偽りない気持ちだと分かったようで、吹き出すように笑った。ようやく見せてくれた笑顔に花中も思わずもらい笑い……尤も、あまりにもサナが笑い続けるものだから、段々唇が尖ってきたが。

「あははは! あは、はははっ!」

「……サナちゃん、笑い過ぎじゃない?」

「だって、誰も勝てないから信じるって……あはは! そうだね、信じるしかないもんね」

 散々笑い、ついには涙まで浮かべるサナに、花中はそっぽを向いて抗議の意志を示す。と、偶々逸らした視線の先に、慌ただしく自分達の方へと駆けてくる人影がある事に気付いた。

 玲二だ。近付くほどに、焦りに染まった彼の顔がハッキリと見えるようになる。彼の隣には付き添い、という名の監視役と思われる女性兵士も居るが、玲二はそれを振りきらんばかりの全速力でこちらに向かってきた。

「此処に居たのか二人とも!」

 花中達への呼び声にも慌ただしく、花中とサナは揃って、暢気に小首を傾げた。

「あ、おじさん……」

「パパ! どうしたの、そんなに慌てて」

「あ、ああ。そうか、まだ放送とかはなかったな……いや、この船も戦いに行くかも知れないって話を聞いたんだ。本当かどうかは分からないけど、万一に備えて安全な場所で一ヶ所に纏まった方が良い」

「あー、そうか。そうですね」

 玲二の説得に、花中はのほほんと相槌を打つ。花中的には ― 何しろ艦長から直に伝え聞いたので ― もう知っている話であり、慌てふためくような内容でもない。つい雑な返事をしてしまい、玲二の顔を顰めさせる。

 されど玲二は、花中を咎めはしなかった。それよりも、どうやって娘を安全な場所まで連れていくかに頭のリソースを持って行かれていたのだろう。

「うん、分かった。行こ」

 でなければ、素直に従う娘を見て呆気に取られたりはしないだろうから。

「……え? い、良いのか? いや、嫌だと言っても連れていくが」

「うん。もう大丈夫……あ、でもちょっとだけ、一分だけ時間をちょうだい」

「あ、ああ。それぐらいなら……」

 サナのお願いを、玲二は流されるように受け入れる。サナは嬉しそうに飛び跳ねると、すぐさま海の方へと振り返り、船の転落防止用の柵を握り締めながら身を大きく乗り出す。

 そして、

「この……バカぁッ!」

 海に向かって、罵声を浴びせた。

「……は?」

「生きてるなら最初から言ってよ! どれだけ悲しんだと思ってんの!?」

「さ、サナ?」

 いきなり海に向けて罵り始めた娘の姿に、玲二は呆気に取られる。止めた方が良いのか、それすら判別付かぬのか彼はおろおろしており、花中が小声で大丈夫だと伝えねば何時までも右往左往していたに違いない。

「アホ! とーへんぼく! にぶちん! えと、お、おたんこなすぅ! アホーっ! バカーっ!」

 そんな親の心など知ろうともしない子供は、可愛らしい罵詈雑言を言い続ける。途中ネタが切れたのか、同じ言葉を繰り返していた。

 それでもまだまだ暴言は止まりそうにない。何しろサナの顔には、満面の笑みが浮かんでいるのだから。

「さっさと起きなさいよ……へっぽこ神ぃ!」

 最後に渾身の悪口を叫び、肩で息をするほどに消耗したサナはようやく静かになった。

 サナの発した言葉は、今頃海を駆けているのだろう。遮蔽物のない海で反射は起こり得ない。サナの声は何処までも、そのエネルギーを失うまで延々と前へと進み続ける。

 後はサナの想い次第。たくさん気持ちを乗せて、身体の力を燃やせば……それだけで、彼女の想いは彼方まで飛んでいく。

 だからきっと、彼方まで届いたのだ。










 ――――先程から喧しいわ、小娘が










 でなければ、この声が聞こえる筈がないのだから。

「! 今のは……」

「もしかして!?」

「なんだ? 二人ともどうし、ぬぉっ!?」

 サナと花中が顔を見合わせる中、玲二には聞こえていなかったのだろうか。何があったのか尋ねようとしてきたが、不意に彼は大きく仰け反り、狼狽えた声を上げた。

 いや、彼だけではない。周りの米軍兵士達もその身体のバランスを崩しそうになっている。

 何故なら船が、否、海が揺れているから。

 船内に不安と混乱が広がる。厳しい訓練を日々こなしている兵士達さえも動揺で右往左往し、困惑していた。玲二は咄嗟に娘と親戚の子を抱き締め、我が身を呈してでも守ろうとしている。

 そんな中、花中はくすりと微笑む。

 そして花中の隣に立つサナは、目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。

 ――――それは、本来動いてはならぬもの。

 アナシスだった物……の表面にヒビが入った。

 ヒビは見る見る大きくなり、ボロボロとその表面が剥がれ落ちていく。落ちた破片は黒焦げの『本体』と比べればほんの小さな欠片であるが、人間から見れば何人もの命を奪う事が出来るほどの巨岩。破片が落ちた海面は巨大な水柱を噴き上げ、大轟音を響かせる。落ちる破片の量は膨大で、遠目で見ればまるで黒い雨が降っているかのようだ。

 されど『本体』は、自分の身をいくら崩しても小さくならない。いや、それどころかぶくぶくと膨れ上がり、一層大きなヒビが入っていく。海の揺れも静まるどころか激しさを増すばかり。

 そして露出した中身の奥底から、翡翠色の煌めきが溢れ出す。

 その光を合図とするかのように『本体』の崩落は一気に進み……中から、新たな生命が飛び出した!

 生命は手足のない細長い身体をしており、頭部近くがコブラにも似た平坦な形になっていた。その平坦な胸部の側面からは左右三本ずつ肋骨のような棘が、背中側には帆のように巨大な二本の背ビレが生えている。頭は現生の爬虫類など比にならないほど凶悪な、図鑑で見たティラノサウルスのように発達していた。身体を覆う鱗は微細で、遠目には敷き詰めた砂のようにしか見えない。その鱗の色合いなのか、全身が翡翠色の輝きに包まれている。最早夜も近いのに眩さすら覚えるほどの煌めきがあるのは、薄らとだが自ら発光しているからか。

 最早そこに、かつての面影はない。されど『そこ』から生まれた。ならばあの生命への呼び名はたった一つしかあるまい。

 モサニマノーマの神、アナシスだ。

「……Monster……」

 甲板に居る誰かが漏らした、現れた存在に充てられた言葉。

 これをきっかけとするかの如く、甲板上は困惑から一変。慌ただしさに包まれた! 兵士達は一斉に走り出し、各々の持ち場に戻る。緊急時すらも超え、さながら実戦に巻き込まれたような緊張感が艦を支配した。

 それも仕方ない。敗北したとはいえ、アナシスの力は米軍の猛攻を飛び回るハエほどにも感じなかったあの異星生命体とまともにやり合えるほどだ。ミサイルは勿論、恐らく核兵器も通用しない。対してアナシスは、小さなアクション一つでこの世界最先端の軍艦をひっくり返してしまう。兵士の中には絶望でむせび泣いたり、力なく膝を付く者が何人も現れた。意味不明な叫びが艦内中に満ち、すぐ傍に居る玲二と付き添いの女性兵士が花中達に向けて叫んでいたが、喧騒に紛れてよく聞き取れない。だが彼等の表情から、恐怖と絶望に染まっている事だけは伝わった。

 混乱、恐怖、絶望、諦め、執着……どろどろとした感情が人々から溢れ、船を支配する。

 その中で、花中とサナだけが笑顔を失っていなかった。

 アナシスは花中達の方を見向きもしていない。それでも花中は願うようにぺこりと、玲二に手を引かれながら頭を下げる。

 そしてサナは、

「今度こそ……今度こそ負けんなぁぁぁっ!」

 激励とも、怒りとも、歓喜とも、或いはその全てとも受け止める言葉を、連れて行こうとする父さえも振りほどきそうな大声で伝えた。

 アナシスはこちらからの呼び声に、反応どころか振り向きすらしない。しばしの間彼女は一点を見つめていたが、やがてギチギチと数十キロ離れた花中達にも届く異音を立てながら、その身に血管のような筋を浮かび上がらせた

 直後、アナシスの姿が消えた。

 文字通りアナシスの姿が消えたのだ。一千メートル近い巨体が忽然と、出来の悪い低予算映画でのテレポート表現のように消失したのである。あまりにも唐突な出来事に、気付いた者達から順次言葉を失っていく。花中達を連れて行こうとした女性兵士と玲二も動きを止め、ポカンと口を開けて呆けてしまう。先程まで船を支配していた混沌は、アナシスと共に消え去ってしまったようだ。

 尤も数十秒も経った頃に、軍艦であるこの船をもひっくり返しそうな暴風が襲い掛かってきたので、艦内は再び混乱と恐怖に包まれたのだが。

「うわぁっ!?」

「キャアッ!?」

 玲二も女性兵士も悲鳴を上げ、思わず花中達を手放してしまう。対する花中達はなんとなくこの事態を予期。玲二達の足が止まった時から身構え、踏ん張っていた。

「どべぅっ」

 ……花中は耐えきれず、呆気なく金属製の床を転がる羽目になったが。年下であるサナはよろめきながらも立ち続けたにも拘わらず。

「花中ちゃん!? 大丈夫かい!?」

「ふくきゅぅぅうぅう……!? は、はひ……ちょっと、頭を打った、だけ、ですから……」

 備えていながら吹っ飛ばされる醜態を晒し、花中は赤くなった顔を隠すように俯きながら心配する玲二に答える。ゆるゆると起き上がり、お尻を叩いて汚れを落とす。

 最後にふるふると頭を横に振り、気分も一新。

 アナシスは動き出し、この場を去った。なら、最早自分達の『したい事』は残っていない。むしろこんな不安定な場所に留まっても、あまり良いイベントは起きないだろう。何しろこれから、世界を揺るがすほどの戦いが始まる筈なのだから。

 今の人間じぶんに出来るのは、安全な場所で身を守る事。そうして友達が帰ってきた時、力いっぱい抱き締められるようにする事だけだ。

「……ごめんなさい。もう大丈夫、です。えと、安全な場所に、行くんでしたよね」

「あ、ああ……そ、そうだ。花中ちゃん、君の友達は今何処に居るか分かるかい? 此処まで来る間に探しはしたんだが、どうにも姿が見えなくて」

「フィアちゃん達なら、えと……軍人さんに案内、されて、安全な場所に、もう避難してます。わたしは、サナちゃんと一緒に、居たかったので、別行動、です」

「分かった。それなら急いで合流する必要もないな……」

 フィア達の居場所を尋ねられ、まさか「異星生命体と戦ってます」とは言えず、当たり障りのない説明で花中は誤魔化す。玲二はそれが噓とは思ってないようで、すんなりと納得してくれた。

 サナの方も、『願い』が通じて憂いがなくなったようだ。この場を離れようとする足取りに、もう躊躇いは残っていない。歩き出した玲二の後を追うように、サナは走り歩きで艦内へと続くドアを目指す。

 花中はそんな彼女達の背中を見送り――――歩き出す前に、アナシスが居た海へと振り返った。

 アナシスは何処へ行ったのか?

 フィアの『時間稼ぎ』は、アナシスがもう一度異星生命体と戦ってくれなければ徒労と化す。アナシスとて生物なのだから、わざわざ危険を冒すとは限らない。そのまま逃げてしまう可能性もあるだろつ。それでもフィアはそうならない可能性に賭けたのだから、彼女なりの理屈があるに違いない。

 花中はフィアを信じる。故にアナシスは異星生命体の下に向かったと『仮定』する。

 ではアナシスは、異星生命体に勝てるのか? 一度は負けた、特大の核兵器の何発喰らおうと怯みもしなかったあの恐るべき存在に。

 可能だと花中は考える。理由は、彼女の姿が変わったからだ。

 恐らく花中達と出会った時の姿は日常生活に適した ― 例えばエネルギーの消耗が少ない、或いはマグマの熱を効率的に吸収出来るなどの ― 形態で、戦闘には不向きだったのだろう。故にアナシスは異星生命体に敗北した。『あれ』に勝つには、その姿をより戦闘に適したものへと変えねばなるまい。

 そしてアナシスの能力は自身の成長を操作する事。それは設計の仕方が分かるだけでは不十分な力であり、実際に細胞分裂をコントロールしてようやく実用化となる。即ちアナシスは、自分の思うがままに姿を変えられる筈なのだ。とはいえ異星生命体との戦いで即座に戦闘形態に変化しなかった辺り、かつて戦ったタヌキのミュータントのような、変身とも言える急速な変化は無理なのだろう。

 だから彼女はじっとしていたのだ。死んだふりという屈辱に耐えながら、自分を負かした存在を今度こそ完膚なきまでに討ち滅ぼすために。

 先の激突ですら、危うく世界が滅茶苦茶になるところだった。もう、次の争いでどれだけの被害が出るかなど想像も付かない。今はただ、地球生命であるアナシスが恐るべき外来種を駆逐する事を祈るだけ。そして戦闘形態となったアナシスならば、きっとあの怪物を死滅させてくれるに違いないと信じるのみ。

 不安があるとすれば、ただ一つ。

 未だ底が見えない異星生命体。もしも『あれ』の姿もアナシスと同じく日常生活に適した、つまり省エネや食事を重視したものだったなら?

 もしも『あれ』に、戦闘形態が存在したなら――――




 水深四千メートルの世界において、光というものは存在しない。

 それは人間の目から見て、という話ではない。実のところ水深一千メートル地点であれば、人には分からぬ程度ながら光が届いている。しかしそれ以降は、本当に光が届いていない。巨大な目すらも役に立たない、真の漆黒の世界なのである。

 その世界が今、眩い輝きに満たされていた。

 いや、これを眩いなんて陳腐な言葉で片付けるのは表現不足にも程がある。何しろ辺り一帯が真っ白になっている状態で、快晴時の地上など比較にならない光量なのだから。もしも大きな目を持っていたなら、入り込む光のエネルギーにより網膜を焼き尽くされてしまうだろう。

 そして発光源は海面より降り注ぐ巨大な光線である。周囲を照らしている『余波』だけで、目が潰れるほどの出力だ。直撃すればどうなるかなど言わずもがな。

 ましてやその光が無数に、何百と降り注いでいたら?

「うきょああああああ!? 掠った! 今掠ったんだけど!?」

「ぎゃーぎゃー五月蝿いですね! こちとら避けるだけで精いっぱいなんですよ! あなたは大人しくしていなさい! というかミリオンなんか熱いんですけどあなた排熱サボってませんか!?」

「サボってないわよ! ただ処理しきれないだけ!」

「余計性質悪いじゃないですか!?」

 静寂の世界である筈の深海に、フィア達の叫びがこだましていた。

 フィア達が慌てふためきながら避けている光。それは、異星生命体が放つ『攻撃』であった。

 自身を脅かそうとする輩を異星生命体は、周囲の完全な破壊に乗り出した。その方法は単純にして強大。露出させた巨大な火球から、無数の光線を放ってきたのである。かつてフィアが戦ったホタルのミュータントも光線による攻撃を得意としたが、あんなのとは比較にならない。威力でも数でも、あのホタルの数百倍はあるだろう。直撃すれば跡形も残らない。

 故にフィアはミィとミリオンを引き連れながら、光線を必死に回避していた。頭上からの攻撃であれば本能によりインチキ染みた察知能力を発揮するフィアでも、この猛攻の前では何時まで避け続けられるか分からない。それどころかいずれジリ貧になる事が確定している。光線により海水が加熱され、周辺水温が急激に上昇しているからだ。ミリオンが能力によって排熱を行っているが、全然間に合っていない。このままでは茹で上がるのも時間の問題だ。当然ここまで手いっぱいな状態で、先程一発だけ食らわせた『コンビネーション技』をお見舞いするなど夢物語も良いところである。

 こうなると最早時間稼ぎであっても危険であり、元より命を賭ける気のないフィアにとって、退却は躊躇すべき選択肢ではなかった。しかし攻撃があまりにも苛烈。おまけに文字通り無差別 ― 異星生命体はフィア達を見失っているのだから当然なのだが ― で、何処に飛んでくるのか予想も付かない。衛星軌道上から放たれる『神の杖』の一撃すら容易く避けるフィアであっても、この場から無理に離れるのはリスクが大き過ぎた。

 逃げるに逃げられず、耐える事も儘ならず、戦って切り抜けるなど夢のまた夢。完全な手詰まりだ。退き際を誤った……というより、ケンカを売った時点で無謀だったのだろう。

「(どうしたもんですかねぇ。この威力じゃ野良猫やミリオンを盾にしても紙切れ一枚隔てているのと変わらないでしょうし……)」

 あくまで自分本位に、なんとか離脱する術はないものかとフィアは模索する。されどこの手の事を考えるのが苦手なのは、フィア自身とてもよく自覚していた。

 やはりアナシスが戻ってくるまで耐えるのが最も現実的か。気合を入れ直し、フィアは異星生命体の微かな動きをも逃すまいと全神経を研ぎ澄ます。

 故に、フィアは拍子抜けしてしまった。

 光線の雨が、突如として止んだからである。ほんのついさっきまで、避けるだけでも精いっぱいなほど苛烈だったのに。

 怪訝に思ったフィアは素早く、されど慎重に海上の様子を探ってみると、異星生命体の静止している姿が確認出来た。もう光線は撃っておらず、静かに佇んでいる。

 尤も、攻撃し過ぎて疲れた訳ではなさそうだ。火球部分は激しく脈動しており、何時光線の乱照射を再開してもおかしくない雰囲気がある。何より、チリチリと放っている殺気は未だ衰えていない。

 一通り暴れたので様子を窺っているのか? それとも感じられない手応えに疑念を持って策を弄している? 前者ならばじっとしていればやり過ごせるかも知れないし、後者ならば急いで離れるべきだ。しかし同族の感情すらよく分からないフィアに、異星の民の考えなど窺い知れる訳もない。

 迫られる決断。花中であればそのまま思考停止に陥っただろうが……フィアは迷わない。彼女には理性より優先される本能がある。そして本能は、迷いなく決断を下していた。

 このまま此処に留まるのは、不味い!

「退きますよ!」

「異議なし異議なし異議なぁーしっ!」

「そうね。なんかヤバそうだし」

 咄嗟の判断を口走れば、ミィもミリオンも同意する。彼女達も同様に、本能で危険を察知したようだ。

 別段同意を求める気などからきしないが、否定されなければ後押しされたも同然。フィアは一片の迷いなく反転、何かに使えるかも知れぬミィとミリオンを引き連れ、海底を超音速で爆走する!

 結論をここで語れば、フィア達の決断は正しかった。

 フィア達が逃走を始めた直後に、異星生命体の火球は一層強い輝きを放ち始めた。火球からは巨大なプロミネンスが幾つも噴き出し、膨大なエネルギーを放出している。半径数キロの海面が湯だち、大気は異星生命体を中心にして蜃気楼の如く歪んでいた。これから何か、とんでもない事をする気なのは明白だ。相手との力量差を思えば、遠くに逃げる以外の対抗策などない。

 彼女達が誤ったのはただ一点。

 そもそも、今更逃げても無駄という事だけだ。

「良しこのまま行けぶむっ!?」

 トップスピードのまま爆走していたフィアだったが、不意に潰れた悲鳴を上げると、その動きを急停止させた。

 フィアによって運ばれていたミィとミリオンも例外ではなく、彼女達も停止。フィアは能力で操った血液による肉体補強で、ミィは持ち前の屈強な筋繊維で、ミリオンはそもそも潰れる器官がないので、なんとか持ち堪えたが、人間なら原型を保てないであろうほど強力なGが襲い掛かる。

 如何にミュータントでも、これほどの慣性となると些か不快だ。何より、今は一秒でも早く、一メートルでも遠くに逃げるべき時。そんな事はフィアも分かっている。

 分かっているのに、前に進めないのだ。

 否、それどころか海面方向に

「ちょ、なんでいきなり止まっ、ぐぅっ!?」

「なん……!?」

 その感覚を覚えたのはフィアだけでなく、ミィやミリオン……いや、周りの海水、海底の砂や岩など、ありとあらゆるモノに及んでいた。

 引っ張られているとフィアは表現したが、これは正確ではない。一ヶ所を掴まれ、ぐいぐい引かれるのとは明らかに異なる感触。まるで全身がその方向に向かう事を強いられているかのような、それでいて抗いようのない力であると無意識に自覚させられる。

 一体この力はなんなのか? 残念ながら考える余裕などありはしない。

 引き上げる力により、フィア達とその周囲の物質はどんどん海面方向へと上っていく。どんどん、どんどん上っていき……ついには、海面があった場所を

 それでも上昇は止まらない。膨大な海水諸共巻き上げられたフィア達は、そのまま空高く浮かび上がる。海水が持ち上げられた区画は半径五キロ程度の半球状。不思議な事にそれらが浮かび上がった部分に周囲の水や土砂が流れ込む事はなく、まるで目に見えない壁が存在しているかのように、歪な状態を保持していた。

 そしてフィア達周辺の海水は高度数キロほどまで上昇すると、そこで一纏めにされるかの如く巨大な球体を形成する。海水はふわふわと空中を漂い、その表面には揺らぎ一つない。崩れる事はおろか、落ちる事すら想像出来ない堅牢さを感じさせた。

 その直下に、空中を浮遊する異星生命体の姿がなければ、であるが。

「ああ、成程ね。ちゃんと仕留められたか分からないなら、周辺をごそっと掬い上げてしまえば良いと。これなら近くに居れば間違いなく捕獲出来るわね」

「そんな悠長な事言ってる場合じゃないでしょこれぇ!? どうすんの!? どうすりゃ良いの!?」

「どうもこうもねぇ……」

 狼狽するミィに、ミリオンは達観した表情を浮かべながら手を外へと向けて伸ばす。その手の動きは鈍く、前に伸ばすだけなのにぷるぷると震えていた。

 固定されているのは海水だけでなく、ミリオン達も同じだった。外に脱出しようにも、全身が内へと引っ張れるのである。力はとても大きく、ちょっとやそっとの力では振り切れそうにない。かといって抗うのを止めれば、どんどん中心に向かって

 この感覚から、フィアはようやく自分達の身を縛る力の『表現』に思い当たった。

 それは大自然の中で、最も有り触れたもの。あらゆる生命の行動を縛り付け、安寧の地を作り、旅立ちを阻み、環境を保全する監視者。生み出すには星ほどの巨大な質量を必要とし、宇宙の存続と成長さえも支配する神の力。

 即ち、重力。

 異星生命体は、重力を操る力を持っているのだ。それも膨大な海水を軽々と空高く浮遊させ、何百億トンあるかも分からない水量を揺らぎなく押さえ付けるほど強大なパワーである。少なくとも地球の重力は軽く凌駕している筈だ。如何にフィア達でも、星をも凌駕する力を前にしては為す術もない。

 しかも異星生命体は、そのままフィア達が重力で押し潰れるのを待ちはしない。

 浮遊する水塊の直下で、異星生命体は火球部分を一層強く輝かせていたのだから。恐らくは島でアナシスと戦った時に見せたのと、同じぐらいの光度で。

「……多分だけどさ、あれ、こっちに向かって撃つ気だよね」

「そうでしょうねぇ」

「それ以外に可能性なんてないと思いますが」

「……耐えられると思う?」

「「無理」」

 フィアとミリオンは声をハモらせながら、ミィが望んでいない現実を突き付ける。しかしミィとて察してはいたようで、肩を落とすだけで喚きはしなかった。

 逃げ場なし。耐えられる可能性なし。

 完全な詰みだ。退き際を見誤ったと言えばその通りであり、フィアは抵抗を諦める。浮遊する海水の『重力』に引かれ、フィア達は大人しく運ばれていく。

 やがて三匹は水球の中央までやってきた。重力の中心地であり、ミュータントでなければ呆気なく潰れてしまう世界。フィア達は原形を保っているが、素早く動く事は叶わない。フィアは魚姿のまま観念したように胸ビレを竦める。ミィもミリオンも大人しく、その身をだらんとさせた。

 異星生命体は輝きを止めない。その光は周囲を白く染め上げ、厚さ数キロにもなる、フィア達を取り込んだ巨大水球の中心からでもハッキリと見て取れるほど。この膨大なエネルギーを以てすれば、数百億トンの水を一撃で消し飛ばすぐらい訳ないだろう。

 迫り来る『終わり』。

 抗いようのない滅びを前にして、フィアはぽつりと独りごちた。

「さぁてと……休憩も済みましたし第二ラウンドに入るとしましょうか」

 まるで死など意識しない、強気な言葉を。

 その瞬間は、誰の目にも見えなかった。

 何故ならば『そいつ』は超音速さえも陳腐に思える速さで飛来したから。『そいつ』はスピードを一割と落とす事もなく、絶大なエネルギーを伴って異星生命体と衝突する。

 その衝撃により、水爆ですら傷一つ付かなかった異星生命体の体表が大きく波打った。何万のミサイルを喰らおうと微動だにしなかった巨体が大きく傾き、よろめく。

 しかし光り輝いていた火球は、怯んだ程度では今更止められないようで――――光が一瞬で収束した瞬間、爆発するような閃光と共に火球から巨大な光線が放たれた。

 光線は直径百メートルを超える太さを誇り、真っ直ぐに大気中を突き進む。本来であればその光は、浮遊する数百億トンの水塊を貫いたに違いない。されど身体が傾いた事で射線が逸れ、光線は何もない空へと向かっていった。通り道となった空気中では大気分子がプラズマ化し、巨大な雷が光線の周りで飛び交う。この事象を起こす事でエネルギーの多大な損耗が発生している筈なのだが、光線は衰える気配すら見せない。ついには成層圏、熱圏、外気圏を突破し、付近を通行していた人工衛星を余波だけで跡形もなく破壊。それでも全く減衰せず、そのまま、宇宙空間の彼方へと飛んで行ってしまった。

 眩い光に阻まれフィア達にもその光景は直視出来なかったが……先の一撃が、アナシスを戦闘不能に追いやった攻撃なのを本能で悟っていた。そして人間の科学者であれば、火球が発したエネルギーの性質などからある事象を導き出せただろう。

 それは宇宙でも稀にしか起こらない、天文学的事象。巨大な星が死の間際に、或いは星同士の衝突時に起こると考えられると考えられている大災厄。膨大な量のガンマ線が一直線に放たれ、数千光年彼方まで届くとされる力。太古では地球生命を根絶やしにしかけたとの研究報告が上がるほどの、滅びの光。

 ガンマ線バースト。

 異星生命体が放ったのは、天体でなければ為し得ない超ド級の天文学的現象だったのだ。

 それほどの事象を起こした異星生命体は、今、体当たりを喰らって大きく傾いていた。ついにはバランスを崩し、空中でぐるんぐるんと回転。なんとか体勢を整えようとするも中々止まらない。何百メートル……否、数キロにも渡って吹っ飛んでいってしまった。

 そうこうしていると、フィア達を取り込んだ巨大水塊にも変化が起きる。今まで寸分の揺らぎも起こさなかった水塊が、突如として崩壊を始めたのだ。数百億トンの海水が星の重力に従い、轟音を立てながら落ちていく。半球状に凹んでいた海面と海底も崩れだし、膨大な海水と土石が流れ込んでくる。それらが一つに合わさると、生じたエネルギーによって高さ数キロにも及ぶ水柱となって噴き上がった。甚大な海水の流れは津波へと変化し、円状の波紋となって拡散していく。間もなく太平洋沿岸諸国では津波警報が発令され、数時間後には大きな被害を生むだろう。

 されど人外達にとって、人間の犠牲などどうでも良い。

「ぷはぁっ! うはーっ、やっと自由だぁ」

「やれやれ、一時はどうなるかと思ったわ」

 ばしゃん、ばしゃん。未だ荒れ狂う海面から、ミィとミリオンが顔を出した。人間ならば文字通り粉々になっているであろう海流も、彼女達にとってはちょっと苦労する程度でしかない。

 ましてや水を操れるフィアであれば、悠々と浮上出来る。先程まで晒していたフナの姿を包み、黄金の髪を携えた美少女となって海面に立つ。

「待ちくたびれましたよ全く。散々休んだのですから当然相応には働いてくれるのですよね? 見た目が派手になっただけとかでしたら拍子抜けなのですが」

 そして彼女は、自身の横に並び立つ『怪物』――――すっかり姿形の変わったアナシスに話し掛けた。

 アナシスは海面上に浮き、屈強な全身を外気に晒している。身体が接している部分の水面が煮立ち、強力な上昇気流が発生していた。この空気と水の流れで浮遊しているとすれば馬鹿げた力技であるが、アナシスは疲労の色を見せていない。恐るべきスタミナである。

 加えアナシスは、フィアの戯れ言を聞き逃すようなミスも犯さなかった。ギョロリと、恐竜のような頭部に付いている爬虫類的な眼でフィアを一瞥。存在をしっかりと認識してから、ゆっくりと口を開く。

【……小五月蝿い生き物だ。人間よりもお喋りが好きと見える】

「ふふんあなたのような無口と比べると遥かに可愛げがあるでしょう?」

【減らず口を……言っておくが、逃げるなら今のうちだ。巻き込まれても知らんぞ】

「そうしたいのは山々なんですけどね」

 親切にも警告してくれるアナシスだったが、フィアは頭をポリポリと掻くだけ。

 フィアだけではない。ミリオンも、ミィも、その場から動こうとしない。彼女達全員が、一点を見つめていた。

「正直手助けしないとあなた負けちゃいそうなので」

 そしてきっぱりそう答えながら、フィアは戻ってきた異星生命体を凝視する。

 異星生命体に、目立ったダメージはない。波打った身体に傷が入ってる様子もなく、浮遊する姿も安定したまま。剥き出しになったままの火球も、その輝きが衰えたようには見えない。何キロも吹き飛ばす力であっても、奴を倒すには足りぬようだ。

 されど周囲の大気がおどろおどろしく歪むほどの熱を発するぐらいには、怒らせたらしい。

 その様にフィア達が警戒していると、不意にピシリと、異星生命体の身体にヒビが入った。

 否、ヒビと言うのは適切ではあるまい。何故ならばそれは異星生命体の全身に、均等な網目模様のように入ったからだ。割れた体表面は次々と剥がれ、一枚の、長さ五十センチほどしかない六角形状の薄い板となって本体から離れていく。

 だが、落ちはしない。

 剥がれた板状の表皮は、あろう事か浮遊していたのだ。まるでなんらかの推進機関を持つかのように、火球の周囲を自在に飛び回る。板は徐々にその数を増していき、何千、何万、何十万……何百万にも上るほどにもなった。如何に一枚一枚は小さくとも、これだけの数が剥がれたなら『本体』など残らないだろう。

 実際、もう異星生命体の本体など、何処にも残っていなかった。黒い身体は全てが板となって分裂した。一個の巨大生物は今や無数の板の集合体へと変貌し、ただ一つ残った、巨大な火球の周囲をぐるぐると周りながら漂うのみ。形態は直径四百五十メートルを超える円盤形であり、一層生物感が薄れたものとなる。

 その姿を一言で例えるなら、銀河であった。

「あれが奴の戦闘形態、ってところかしらね。先が思いやられるわねぇ」

「ま、本気を出させたんだから一歩前進でしょ」

「そんなところです。それでは後はお任せします。手伝いぐらいはしますので」

【期待はしないでおこう】

 フィアからの『声援』を受けたアナシスは、ずるりと海上を泳ぐ。合わせて、異星生命体も動き出す。

 核融合は、星の力である。

 原子と原子を融合させ、新たな物質を創造する事象。これにより数多の元素……酸素や炭素、窒素などの……が作り出された。現在の地球生命を形作る元素も、何処かの恒星が核融合によって生み出したものが起源だとされている。言わば核融合は、生命をも創造する神の御業である。その力を振るう異星生命体は、正しく神の領域に至った存在なのだ。

 されど、地球生命とて辿り着けなかった訳ではない。

 アナシスは成長により強大な力を獲得していた。異星生命体と対等以上に渡り合い、敗れても死なず、リベンジを挑めるほどの力を。神でないモノに、神の裁きを耐えられる道理などない。即ちアナシスもまた、神の領域に踏み込んだのだ。

 故にこの戦いは単なる巨大モンスターの闘争ではない。方法は違えど神となった者達の衝突であり、相容れぬ存在との死闘であり、世界の命運を賭けた黙示録である。それぞれの道筋で進化した神と神の生存競争。そして勝者の手により、この星に新たな『神話』が創られる。

 ならばこの戦いは、こう呼ぶのが相応しい。



















 神話決戦、と。



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