第177話 卒業式1

「織田」


 廊下で一列に並んでいたら、背後から蒲生に肩をつつかれた。

 振り返ると、学ランの胸にガーベラの飾りをつけた蒲生が顔をしかめている。ガーベラは、工業化学科卒業生全員の胸につけられていた。さっき見たら、隣の溶接科は、マーガレットだ。


「卒業式の後の打ち上げ、中止。前に回して」


 俺はため息をつき、前に並ぶ女子の肩を叩く。「なに」と振り返るそいつに、「卒業式の後の打ち上げ中止」と伝えた。こいつが最前列なので、もう回す必要はないだろう。


「ま。仕方ないよね」

 女子は肩を竦め、前を向く。俺も同意見だ。


「軽音楽部たちは、卒業旅行も取りやめたらしい」

 後ろからまた、蒲生が言う。


「賢いよ。変な病気に感染したら、入社が遅れるどころか……。下手したら、内定取り消しだろ」

 俺は小声で応じる。


 そう。

 今、世界中を席巻し始ている、例の感染症。


 あれの影響で、内定の決まった企業から「くれぐれも感染してくれるな」、「人の多いところに行くな、自宅待機」、「とにかく、自粛しろ」と連絡が来ているらしい。


 俺だってそうだ。警察学校の入校式に間に合うよう、万全の体勢で臨め、と連絡が来た。表も渡されて、毎日検温している。ついでに言えば、入校式は保護者不参加が決定された。


 学級委員は、卒業式の後の打ち上げを計画していたが、それを中止。卒業旅行を計画していた奴らも、軒並みキャンセルしたそうだ。


 ……まぁ、こんな状態でも新卒採用を続行してくれるだけ、ありがたいのかもしれない。


「だんだん、『来年の文化祭で同窓会』が、真実味を帯びて来たな……」

 蒲生が不吉なことを言う。


 打ち上げを計画していた学級委員が、冗談で言っていたのだ。

『もし、なんか事件とか災害とかが起こって、打ち上げが中止になったら、みんな、来年の文化祭集合な! その後、同窓会というか、出来なかった打ち上げをするから』と。


「それなのに、卒業式はするんだよなぁ」

 ちらりと背後に視線を走らせると、蒲生が口を尖らせて不満顔だ。


 各地で卒業式を取りやめたり、規模を縮小して行っている、というのに、黒工はさすがだ。


 保護者、在校生、卒業生、来賓をいつも通りいれての開催を決めた。


「それじゃあ、順次、体育館に移動するぞ!」

 打ち合わせに行っていた担任の藤原先生が廊下を駆けあがって戻ってきた。


 今日は礼服に、白いネクタイをし、呼名のための名簿を持参しているから、なんだか結婚式に招かれた親戚みたいだ。


「昨日の練習で伝えた通り、マスクをつけてはいけないっ」


 全科が廊下に出て並んでいるから、いろんなところで担任が同じことを言っている。


「ありえねー……」

 どこかで茶道部の声がするが、俺だって思う。


 なんでも、今川のところで実施された卒業式は、出席者は全員マスク着用だったらしい。

 保護者、卒業生、教員、来賓。すべて、マスクがないと、会場に入れない。

 (在校生は出席しなかったらしい)


 おまけに、イスの間隔が、ものすごく開けられていたそうだ。寒々としたその光景の中、国歌、校歌はCD録音をしたものを流すという対策に出た。呼名に対する返事もなし。


 感染症予防のためであり、センター試験が終わって、前期が開始されるこの状況で、卒業式を開催させただけ、立派なのかもしれない。


 だが。

 黒工は逆だ。


『この時期、花粉症の者は仕方ない。着用しろ。だが、それ以外は不可だ。そして、呼名の時、国歌、校歌斉唱のときは、全員マスクを取れ』


 昨日の、卒業式の練習の時、学年主任は厳格に命じた。

 まじか、正気か、と誰もが思ったのだが。


 結果的に、俺たちは、ノーマスクで卒業式の会場に放り込まれることになった。


「この後、変な症状が出たら、絶対この卒業式だよ……」

 蒲生が恐怖に満ちた声を背後で漏らす。俺だってそう思う。絶対、今川には近づかないようにしよう。


「それでは、移動する!」

 藤原先生が、赤い表紙の呼名票を上げて背を向けた。俺たちは各々「ういっす」と返事をして、ゆっくりと歩き始める。


「織田、免許は取れたのか?」

 蒲生が話しかけてくるから、「まぁ」と頷く。一月には教習所に通い始めたから、結構あっさりと卒検までいった。


「ぼく、これからなんだよー……。路上に出るの、怖いなぁ」

 そんな不安な奴が路上に出る方が怖い。


「じゃあ、織田は四月までなにするんだ?」

 茶道部の声に振り返る。「バイト」。短く答えて、顔をしかめた。


「教習所代、親に借りたからな。早く返さないと、ものっすごい利子がつく」

 俺の言葉に、周囲の何人かが笑う。いや、こっちは笑い事じゃないから。


「じゃあ、今川ちゃんに会う機会もないなぁ」

 蒲生が何故か残念そうだ。


「あっちは今からが本番だから。そもそも、会う気は無い」

「あ。国公立か。センターはどうだったって?」


「まぁ、結構点数は取れたらしい」

 センターの日。電話をしようかどうしようか迷っていたら、向こうから連絡が来た。


 嬉しそうな声で、「大丈夫な気がする」と言われて、ほっとした。自分が思う以上に、気になっていたようで、なんか、電話が終わった後、鼻歌でも歌いたい気分になった。


 滑り止めの私立がすでに受かっているのが自信にもなっているのかもしれない。

 俺が心配することもなく、今川はなんとかしっかりやっているようだ。


 くの字に折れた階段を降り、俺たちは体育館に向かう。

 学年集会や体育の時。「十分前集合」のために、必死で階段を駆け下り、体育館に向かった。


 なにしろ、休憩時間が十分だ。


 授業が終わると同時に、体育館に駆けこまないと、十分前集合にならない。

 一番集合が遅い科はペナルティが課せられるから、必死で駆け下りたり、途中飛び降りたりしたこの階段を、卒業の日だけ、ゆっくり降りるなんて、なんだか不思議な気分だ。

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