ー今川sideー
第164話 蒲生の報告1
「由々しき事態が発生しているんだよ、今川ちゃん」
蒲生君は近づくなり、私にそう言った。
こんばんは、と言いかけた私は、「こ」の口のまま停止し、続いて「……え?」と首を傾げて見せる。
「時間ある?」
蒲生君はお茶のペットボトルを持ったまま、真剣な面持ちで私に尋ねた。私はおずおずと頷き、ホームの電光掲示板を指す。そこには、私が乗る予定の電車到着時間が表示されている。
「十分ぐらいなら」
学校を終え、制服のまま塾に向かう途中だ。
駅のホームで電車を待っていたら、見覚えのあるブロッコリー頭が近づいてきた。
蒲生君だ。
そう思った矢先、向こうでも私に気づいたらしい。ぐびり、とペットボトルを呷ると、人波に逆らいながら小走りに近づき、さっきの言葉を吐いた、というわけだ。
「織田のことなんだよ」
突然切り出され、私は目を瞬かせた。
にゃんのこと。
「え……。どうしたの?」
飛び出した声はおどおどとしている。蒲生君も気づいたのだろう。大きくひとつうなずくと、私と向き合ったまま厳かに告げる。
「もう、ハーレム状態」
「は……?」
ハーレムの「ハ」なのか、疑問形の「は」なのか、分からない音声が口をついた。
ハーレム。
にゃんが。
「今年、化学同好会には五名の新入部員が入ったんだよ」
眉間の縦皺を深くして蒲生君は言う。「おめでとう」。私は茫然としたまま返した。
蒲生君はぞんざいに首を縦に振り、話をつづける。
「そのうち三人が女子でさ。文化祭で化学同好会のステージ発表を見て入部してくれた子たちなんだ。純粋に化学に興味をもった子たちだったんだよ」
なんか、「だった」ってところにものすごく力を入れられた。
「今は違うの?」
促すと、がっつり首を縦に振られた。
「織田が来てからもう、ダメになった」
「ダメって……」
その言い方、と突っ込みたくなったけど、ふと気づく。
「なんで化学同好会に行ってるの?」
にゃんは剣道部のはずだ。それに化学同好会を毛嫌いしていたはず。
「僕達、課題研究で、化学実習室に入り浸ってるんだよね。で、ほら。織田はもう、剣道部の方は引退したでしょ? だから、化学同好会の実験とか滴定練習とかにつきあってくれてるんだよ」
島津先輩も卒業したしね、と蒲生君は肩を竦めた。
「で、ここからが問題」
ずい、と蒲生君は私に顔を近づけてきた。不機嫌そうに目を細め、ちょっと睨み加減に私を観る。
「織田、『無自覚たらし』なんだよ」
「『無自覚たらし』ってなに」
蒲生君と距離を取るため、背を逸らしながら私は尋ねる。「例えばさ」と、蒲生君は口を尖らせた。
「化学実習室に試薬とか材料とかを全員で運んだりするんだけど、台車は一台しかないんだよね」
私は反応に困りながら頷く。台車の数までしらない。
「その、一台しかない台車を、
まぁ、そうなるよね……。
「そこに、織田が登場だよ。『持ってやるよ』とか言って、下級生女子Aの荷物をひょいっと担いでさ」
蒲生君は半眼のまま、裏声を出す。
「『そんな、いいですぅ』。『俺も化学実習室行くから』。……ね?」
……なんか、想像がつくな……。
「また、あるときは、炎色反応の実験をしてたんだけど……。下級生女子Bが、スプレーを振らなかったんだ」
「スプレーって、バーナーに吹きかけるやつ?」
うちの化学同好会でもこの実験はしたことがある。
特定の金属イオンは、加熱すると様々な炎の色になる。これを利用して花火が作られているのだけど。
実験手順としては、火をつけたガスバーナーに、メタン・エタノール・イオン化した金属を混ぜて、スプレーで吹き付けるのだ。それで、炎の色を観察する。
だけど。
よく振って混ぜないと危険。メタンやエタノールなど、濃い部分が炎に吹きかけられたら……。
「その子、大丈夫だった? 予想外に燃え上がったんじゃないの?」
思わず尋ねると、「無事だった」と、ぶすっとした顔で蒲生君が答える。
「ご想像通り、ぼわっ、と炎があがったんだけど、間一髪、織田が腕を引っ張って抱きとめてさ。『大丈夫か』って。その後、『ちゃんと振らないとダメだろ。蒲生の説明を聞いてないのか』とか言ってたけど、下級生女子Bは『ありがとうございますぅ』って潤んだ目で見ちゃって……」
……あ、また、ちょっと想像ついた……。
「また、ある時はカワニナの水槽を洗っていた時」
「カワニナ……。ああ、ホタルの餌……」
私はあの幼虫の気持ち悪さを思い出して顔をしかめる。そうなんだ。あれ、肉食なんだ……。
「その水槽を洗ってたんだけど、あれ、重いんだよ。だから本当は男だけでしたいんだけど、
「手伝いに来たんでしょう……」
「そりゃあもう、軽々と水槽を持ち上げて洗ってくれたよ。颯爽と」
ああああああああ。想像がつく。にゃん、やりそう。というか、やってるのか。
「化学実習室を半分に分けて、同好会の活動と、課題研究をしてるんだけど」
蒲生君は、勢いよく鼻からひとつ息を吹き、それからペットボトルのお茶をがぶり、と飲んだ。ホームを照らす蛍光灯の元、ブロッコリーヘアが、もさりと揺れる。
「同好会の活動が終わっても帰らないんだよ。下級生女子A~C! 待ってるの、織田を! そんでもって、『織田先輩ぃ。一緒に帰りましょう』だって!」
そして、力強く言った。
「これは、ゆゆしき事態だよ!」
私は大きく溜息を吐いた。なるほど。このことを、称してハーレム、ね。
「うちの風紀は乱れるし、そっちだって、織田がハーレム状態になってることに対し、良い気はしないだろ!?」
「……別に、ハーレムってわけじゃない……んじゃない?」
「ハーレムだよ! もう、下級生女子、みんな目がハートだよ! だいたい、君、夏休みに織田と会った!?」
詰め寄られ、私は後ずさりながら首を横に振る。
あの、偶然商店街で会って以降、そのままだ。
にゃんが、いくつか花火大会に誘ってくれたけど、私の予定が合わず……。
結局、二学期が始まってしまった。
「その間、織田は下級生女子に無自覚に、なんかを振りまいてるんだよ! その結果、君の存在価値は、ヘリウムより軽くなってる!」
へ、ヘリウムより……。
「もちろん、僕としては下級生女子達に言ったさ。織田には、カノジョがいる、と! おまけに、こいつ、『にゃん』って呼ばれてるんだよ、馬鹿だよね、って!」
……蒲生君、ここぞとばかりにディスった……。
「それなのに、『きゃあ! 織田先輩、にゃんって言われてるんだ!』って株を上げやがって……っ! 腹が立ったから、島津先輩に、『織田は、にゃん、って呼ばれてます』ってLINEで知らせてやったよ! 『良い働きだ、蒲生!』って返事来たね!」
うわぁ……。とばっちりで、困った人に情報行っちゃった……。
「それでね」
ずずい、と蒲生君は更に顔を私に近づけた。「な、なに」。私はたじろぎながらも彼を睨み付ける。
「君、一度うちの高校に来なよ。それで、あの下級生女子A~Cにその存在感を見せつけてやってくれ。『私が織田のカノジョよっ』って!」
「はあああああっ!?」
ホーム中に響き渡る声を発したけど、運良くというか、『もうすぐ電車が参ります』的なアナウンスのお陰で、不審者にはならずにすむ。通りすがりのサラリーマンが、ちらりと見たぐらいだ。
「君だって、織田を下級生女子のどれかにとられたくないだろ!?」
「と、とられ……」
にゃんに限って、そんなこと……。
そう言いかけたのだけど、蒲生君は電光掲示板を見遣り、再び私に瞳を向けた。
「あんまり会えないカノジョより、毎日会える手近な女子の方が魅力的に見えるとき、ない?」
蒲生君は、あっさりと残酷なことを言う。声も言葉も失ったままの私を、蒲生君は斜めに見下ろした。
「君のところの化学同好会と、うちの化学同好会で合同研修でもしようよ。そっちの顧問からこっちの顧問に連絡宜しく」
じゃあ、と蒲生君は言い、さっさと改札に通じる階段に向かう。何か声をかけて呼び戻したかったのだけど。
ホームに電車が滑り込んできて、私は蒲生君を追うこともできなかった。
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