第154話 化学分析技能検定 練習

「じゃあ、本気で公務員一本にしぼるんだ」

 ビュレットの調整をしていた蒲生が顔を上げ、呆れたように俺を見る。


「昔から言ってんだろ」

 俺は答えて、白衣のポケットに突っ込んでいた保護メガネを取り出した。


 同時に、化学実習室に爆笑の声が広がる。

 驚いて振り返ると、野球部を中心にした数人の生徒たちが、何か言いあって小突きあっていた。


 ちらり、と俺は教卓を見る。

 普段であれば、喝のひとつも飛ばしそうな科長は、だが首を伸び上げるようにして野球部たちを一瞥しただけで、また試薬づくりに戻ってしまった。


 夏休み、ということで大目に見ているのか。

 それとも、「化学分析技能検定」の練習に来ただけ、ましな連中だろうと思っているのか。

 仏頂面のその顔からは真意が読み取れない。


「もったいないなぁ。織田の成績なら、どこでもよりどりみどりだろうに」

 蒲生はふぅ、と息を吐く。俺は再び、蒲生に目を向けた。やつがかけている保護メガネがさっきのため息で少し曇ったようだ。蒲生は腰を伸ばしてメガネをつかみ取った。


「そういうお前は? 三者面談、昨日終わったんだろ?」

 逆に、俺はメガネをかけながら奴に尋ねる。度が入っているわけじゃないから、違和感しかない。


「終わった。第一希望で確定しそうだね」

 蒲生が希望しているのは、化学工場だ。

 松脂を使った製品では、トップシェアを誇るところだ。学校から工場見学に行ったが、バスを使っても工場内を回るには半日かかる。


「三交代は無いし、一年間の研修があるし、大卒と高卒が同等に扱われるしね」

 蒲生は笑う。てっきり島津先輩と同じく大学進学をするのかとおもったが、こいつは普通に『安定した就職』を狙ってきた。


 学校に企業が求人票を出し、それを見て学生が応募するわけだが……。


 選べるのは、成績順だ。

 いくら「この企業に行きたい!」と思っていても、成績上位者が先に手を出したら、どうしようもない。また、企業側も「運動部のみ」の内々で伝えてくるところもある。そうなったら、文化部では応募ができない。


 だから、大手企業に入社したければ、まず一年生から学年順位を一つでもあげること。運動部に入ること。部活をやめないこと、が最低条件だ。


 ただし、企業を選ばなければ、黒工では毎年、生徒一人につき約3社の求人が来る計算にはなっている。しかも、地元大手だ。工業化学科については、薬品関係のベンチャーも含まれる。これもそれも、すべて黒工を卒業した先輩たちが地道に会社で地盤を作り、成果を上げてくれたおかげだ。感謝しか言葉はない。


「夏休み、塾で忙しいんじゃないの?」

 機材の準備をする俺に、蒲生が声をかけてきた。「まぁ、うん」。俺の返事に、蒲生はやっぱり呆れたように首を横に振った。


「だったら、そっちに専念すればいいのに。技能検定なんて、いらないでしょ。公務員試験に」

「まぁ、確かに」

 思わず苦笑いする。特に、『化学分析技能検定』など必要ないのだろうが。


「工業化学科に来たんだから、もっとかないと」

 俺の言葉に、蒲生が「まじめだなぁ」という。


 その奴の声は、「あちゃあ! 白衣焦げたっ」という野球部の大声と混ざる。


 同時に鼻先に、焦げた匂いがかすめた。

 ちらりと目をやる。


 野球部が、バーナーで袖を焼いたらしい。排気の関係で、焦げた匂いはすぐに消えたが、一緒にいた同級生たちは野次って笑っている。


 どうやら、あいつらは陽イオンの定性分析をしているらしい。

 四脚の上に蒸発皿を乗せているところだった。


「野球部なんて、試合に負けた途端、必死で勉強やりだし始めてさぁ」

 蒲生は口をとがらせてそう言う。


「いっつも真面目に取り組んでるこっちは、大迷惑。うるさくってしかたない」

 蒲生がにらみつけるから、俺は立ち位置を変えて野球部との壁になる。けんかでも起こされたらややこしい。


「いろんな考え方があるだろ。ほっとけ。それより」

 俺は蒲生が組み立てたビュレットをみやる。


 野球部の資格状況や、就職などどうだっていい。

 問題は。

 酸化還元滴定だ。


「……織田。ほんとに不器用だもんな」

 慰めるように、蒲生が俺の肩を叩く。うん、と頷きそうになって堪えた。


 この、コック。

 ビュレットから溶液を滴定するときに使うコック。


 これがもういやだ。


『試薬の色が変わった。ここまで』

 そう思って止めようとするのに、どばー、っと出たり……。


『計算上、当量点までは五滴程度』

 五滴だぞ、と自分に言い聞かせて、コックを開くのに、どばー、っと出る。


「お前、計算は正確なんだけどなぁ」

 苦笑いの声に顔を向けると科長が腕組して立っていた。


「まぁ、こういうのは練習もあるから。好きなだけやれ」

 言われてこちらも、苦笑いで「はい」と返事をした。科長はなんどか頷き、それから蒲生に声をかける。


「蒲生。お前、織田の実習と一緒に、あいつらも観てやれ」

 科長が指さすのは、まだなんだかんだと大騒ぎしている野球部たちだ。

 途端に蒲生が顔を顰めて、「いやです」と言っている。お気の毒、と思っていたら、「織田」と科長に名前を呼ばれた。


「お前、酸化還元のモル濃度計算。あれ、あいつらに教えてやれ」

「……えー……」

 蒲生ぐらい顔をしかめて、かつ、呻いてしまったが、科長は気にも留めない。


「先生は試薬を作るのに忙しい。アホは相手にしとられん」

 うわー……。先生、はっきり言った。ってか、先生の仕事を放棄した。


「じゃあ、あとは任せたぞ」

 言うなり、また教卓に戻る。


 なるほど。

 野球部たちがいくら騒ごうが、実験を失敗しようが、全く興味を示さないのは、もともと「織田と蒲生に面倒見させればいい」というかんがえがあったかららしい。


「……どうする?」

 蒲生が俺をちらりと見るが、「後でいいだろ」と俺は言い放つ。


 その間にも、野球部たちの大騒ぎの声が聞こえ、まじめにやっているとは言い難い。本来は科長が指導をするべきなのだから、俺たちに振られても困る。


「向こうが、『教えてくれ』とやってきたら、考えたらいいんじゃないか?」

 俺の返答に、蒲生が「それもそうか」と頷いた時だ。 


 ふ、と。 

 鼻先を『プールのにおい』がかすめた。


「「……ん?」」 

 俺と蒲生が顔を見あわせた。


「ごらあああああっ」

 教卓から、この世のものとは思えない怒声が上がる。科長だ。


「今すぐ火を消せっ!」

 見たこともな俊敏な動きで科長は野球部たちの実験机に突進した。


「この匂い……」

「塩素系だな」

 蒲生と俺は鼻をひくつかせながら言う。匂う、といいつつも、排気がしっかりしているから次第にそれは薄まりつつある。


 俺は試薬の入ったビーカーを手に持ったまま振り返る。

 野球部のやつらだ。

 どうやら、加熱しすぎて蒸発皿から塩素が出ているらしい。


「わしを殺す気かああああああっ! 真面目にせんのなら、即刻帰れっ!」

 科長のどやしつに、野球部たちは神妙にうなだれて見せる。


「科長。結局自分に実害がないと、動かないんだな」

「まぁ。今のはやばかったしな」

 俺と蒲生は頷きあい、それからまた、滴定作業に戻った。






※ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました!

 続きはまた、しばらくお時間をいただくとおもいます。

 

 掲載のあかつきには、また近況ノート等でお知らせいたしますので、宜しくお願いいたします!

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