第70話 二百メートル走2
「一位、D(デザイン)科っ」
陸上部が指さしで声を上げる。ルキアが喜々として女子生徒に駆け寄った。体操着の色は緑だ。二年生なのだろう。
「一位です。掌出して下さい」
そんな声が聞こえてきた。だが、そちらを見ている余裕は無い。すぐに二位が駆け込んでくる。
「二位、W(溶接)!」「三位、M(機械)!」
次々とゴールに飛び込む生徒に、陸上部が声を張る。
俺達は指示された生徒の背後に駆けつけ、「二位です! 手を」と、声をかけてマーカーで順位を書き付けた。
「早かったっすね」
俺はそう言うが、先輩は肩を竦めただけだ。「D科圧勝だな、ちくしょう」。そう言うから、俺達は互いに苦笑する。
「ねぇ」
その時、突然背後から声をかけられ、俺は驚いて振り返った。
「……はい」
そこには、さっき一位で駆け込んできたD科の女子先輩が立っていた。俺の隣では、二位の先輩も不思議そうに彼女を見ている。
「君が書いてよ、掌に」
にっこり笑ってそう言うと、その先輩は俺に向かって掌を差し出してきた。
「……えっと。一位係はルキア……、じゃない、前田なので。おい、ルキアっ」
書かなかったのかよ、あいつ。
俺は舌打ちして視線を移動させた。ゴール付近に、呆然と立つルキアに、「おいっ」と声をかけると、「ちがうちがう」と笑い声が聞こえる。きょとんと声の方に顔を向けると、例の一位女子先輩が、更に俺に手を突き出してきた。
「手を触られて書かれるんならさ、好みの子の方がいいじゃない。君が書いてよ。あの子に触られるの、嫌だ」
あっさりはっきりそう言うと、「一って書いて」という。
呆気にとられた俺の横で、二位の男の先輩は大笑いし、俺の肩を殴った。
「書いてやれ、書いてやれ。ほれ、『一』って。女子がこうやって頼んでるんだから」
そう言われても、俺はどうしたらいいのか。戸惑って石田を目で追うと、状況を見ていたのだろう。腹を抱えて笑っている。
「断られてやんの、ルキア」
聞こえよがしに大声でそんなことを石田は言っていた。
「書いとけ、書いとけ」
伊達も苦笑して大声で俺に言う。そのとなりでは、『四』、と伊達に書かれた男子先輩も笑っていた。仕方なくD科先輩の手首を掴んで掌に「1」と書き込むと、「きゃあ、くすぐったい」と笑われて、慌てて手を離す。
「やめろ。一年男子をからかうな」
二位の先輩がD科の女子先輩をたしなめるのを聞いて、からかわれたと知る。むっと睨みつけたが、D科女子先輩は、悪びれずに肩を竦めてちろりと舌を出してみせた。
「悪いな、サンキュ」
二位先輩は、D科女子を促して順位の旗へと小走りで向かったので、俺は軽く彼に頭を下げて見せた。
「よくやった、織田」
不意に背中をどん、と叩かれて振り返ると、石田が満面の笑みで立っている。
「ルキア、拒否られてやんの。ばぁぁぁぁぁか」
石田は、未だ呆然とゴール付近で立ち尽くしているルキアに顔を向け、大声で罵声を浴びせた。「よせよ、石田」。そう言う伊達も、人の悪い笑みを浮かべていた。
「びっくりしたな……」
俺が二人にそう言った時だ。
「えー! そんなことできるの!? ずるいっ」
旗の列にD科女子先輩が並んだ途端、いくつものそんな声が上がってぎょっとする。
反射的に俺を含めた三人が一位の列を見た時には、もう何人もの女子達がこっちに向かって走ってきている最中だった。
「じゃあ、私この子にする!」、「書き直して、書き直して!」、「上からなぞってくれたらいいからっ」、「優しく書いてね」
あっという間に女子に取り囲まれ、俺と伊達は思わず身を寄せる。石田だけがご機嫌にマーカーからキャップを取り外し、満面の笑みでそれに応じていた。状況が飲み込めず、硬直する俺と伊達の目の前にも、ずい、といくつかの掌が突き出され、泡を食っていたら。
視界の隅に猛然と土埃が立ち上がるのが見えた。
「順位係の指名は行っていないっ!」
怒声を張り上げながら猛ダッシュで自席の観覧席から駆け寄ってきたのは武田先輩だ。
群がる女子を蹴散らす勢いで俺達の前に、ずい、と立ちふさがると、「列に戻りなさいっ」と大声を張る。同時に顔を列整理係の柔道部に向けた。
「並ばせなさいよっ! 柔道部の仕事でしょうがっ!」
怒鳴られ、それまで唖然と状況を眺めていた柔道部達が弾かれたようにこちらに駆け寄ってきた。武田先輩じゃないが、しっかりしてくれ、と言いたい。
「なによ、
武田先輩は女子達にそんな言葉を浴びせられていたが、腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。
「うちの後輩で遊ぶんじゃないっ」
そう言い返すと、ぐりん、と今度はルキアに顔を向けた。
「一位は私が書くわっ! 役立たずは引っ込んでなさいっ」
武田先輩の言葉に、今度は完全にルキアの心はぽっきりと折れたらしい。あいつの体は右に傾いていた。
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