第6話 ニトロセルロース1

 2階の実習室の扉を開き、首を突っ込む。

 音に反応して振り返った蒲生がもうは、機敏にイスから立ち上がり喜色を湛えた声で俺に言った。


「ようやく入部してくれる気になったか!」

「いや、ならん」

 俺はきっぱりと首を横に振る。実習室を見回すが、今日、化学同好会会員は2人しかいないらしい。白衣を着た蒲生と島津先輩の姿しかなかった。


「今、入部すると、もれなく鳴門金時が喰えるぞ」

 蒲生は未練がましく俺に言い、右手に持っていた防護眼鏡をつまらなそうにぶらんぶらん揺すっている。俺は準備室の扉前で立ったまま、肩を竦めた。


「運動部と文化部のかけもちはできないだろ」

「じゃあ、剣道部を辞めて来いよ」

 蒲生の代わりに俺にそう告げたのは、島津先輩だ。俺は呆れて「嫌です」と即答する。


「美味いのに、化学同好会が作った鳴門金時」

 島津先輩は作業の手を止めずに俺を一瞥し、にやりと笑う。その隣では蒲生も大きく頷いている。


「化学同好会独自の化学肥料をやって、育てているからな」

「妙にでかいですよね。甘みも強いし」

 感心したように蒲生が言うが、俺は顔をしかめた。その独自の化学肥料というのが、妙に怪しい。こいつらなら遺伝子改良までしてそうだ。


「何しに来たんだ? 剣道部の稽古は?」

 蒲生は不思議そうに首を傾げる。


「科長に会いに来たんだ。職員室覗いたらいなくて……。化学同好会の顧問だから、ここに居るのかと思ったんだが」

「科長ならトイレ。腹壊したって」

 蒲生の言葉に俺は眉根を寄せる。鳴門金時を喰ったせいじゃないだろうな。


「中で待ってろよ。すぐ科長も戻ってくるだろう」

 島津先輩に言われ、俺は「じゃあ、失礼します」と断って入室した。換気扇の音なのだろう。定期的な回転音が低く小さく響いている。


「科長に何の用?」

 蒲生が保護眼鏡を卓上に置き、俺に尋ねる。


「俺が出した提出レポート。名前を書き忘れてるらしい」

 素直に返答すると、二人から小さく笑われた。「凡ミス」。「英語ではやるなよ。減点されるぞ」。そんなことを言われながらも、俺は彼らに近づいた。


 何か作業をしている途中だったらしい。

 表面が大理石張りになっている机の上には、四角いプラスチック容器があり、水と氷が張られている。その中で浮いているのはガラス製ビーカーだ。


「何を作ってるんすか?」

 近づくと、ツンとした刺激臭がする。塩酸系の何かを使っているのだろうかと俺は机の上を眺めた。


「ニトロセルロースを作ってるんだ」

 視線に気づいたのだろう。蒲生が答え、島津先輩が革手袋をはめた手でガラス棒を持つ。


「こども科学教室で使おうと思ってね」

 そう言って、氷水に浮いたビーカーの端を掴んで固定し、中の液体をガラス棒で混ぜた。


「綿をニトロ化させて燃焼させるやつか」

 俺は呟く。あれだ。マジシャンが手の上で炎を上げたりする手品の種だ。一瞬で燃え上がるし、煤も残らない。ちらりと蒲生を見ると、嬉しそうに彼は頷いた。


「漫画であるだろ。映画化もした錬金術師の話でさ。炎を扱う大佐が出てくる話。アレを小学生の前でやろうと思ってさ」

「魔法が使えなくても、科学を使えば似たようなことが出来るよ、って。身近なモノに例えたら、少しは興味が出るだろ、科学に。錬金術師なんて、本当は化学者だからな」

 へぇ、と俺は声をあげる。


 化学同好会は毎年、「高校生ものづくりコンテスト」に出場し、化学分析部門のキレート滴定で優秀な成績をおさめたりしていることで有名だが。

 ボランティア活動として、地元の小学生を対象に科学教室イベントなんかも開催している。教室は随分と盛況で、教育委員会からも感謝されていると聞いたことがあった。


――― いつもはアブナイ同好会だけど……。

 俺は机の上に並んだ備品や準備物を見て、「意外に一生懸命取り組んでいるんだな」と素直に彼らを見直した。


「ニトロセルロースってどうやって作るんですか?」

 俺が尋ねると、蒲生と島津先輩が交互に濃硫酸と濃硝酸の割合や手順を教えてくれた。


「ああ、これ、濃硝酸の匂いっすか」

 思わずそう言うと、「あんまり吸うなよ」と島津先輩が言う。


「混酸にしたら、熱を発するから氷水につけて……。この後、脱脂綿に四、五十分浸けるんだ」

「そしたらできあがり?」

 蒲生に尋ねると、「まさか」と笑われた。


「水に晒して混酸を落として、乾燥させるのに二日かな」

「結構時間かかるんだな!」

 俺が驚くと、蒲生は笑う。


「自然乾燥だからな。ドライヤー使ったら燃える」

 なるほど。俺が頷くと、島津先輩がガラス棒から手を離し、別の机に近づく。


「そうやってできあがったのがコレ」

 島津先輩の手には弁当ほどの大きさのプラスチックのタッパーがあり、半透明の容器越しに十枚ほどの脱脂綿が入っているのが見えた。四角い脱脂綿は、几帳面にタッパー内に積まれ、きっちりと収まっている。


「見たことあるか? ニトロセルロース」

 タッパーを小脇に抱え、島津先輩は腰に手を当てて斜交いに俺を見上げる。

 片頬を歪めるようにして嗤うこの人の笑顔は、本当にマッドサイエンティストそのものだ。前言撤回。いいんだろうか、こんな人を小学生の前に出して。


「ネット動画では見たことありますけど」

 俺が答えると、「見せてやろう」と島津先輩は素早くタッパーから二枚の脱脂綿を取り出した。


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