神様だって暇じゃない
ギア
タナトスの憂鬱
「おーっす、かわいいかわいい幼馴染が来てやったぞー」
土曜日の朝早く、安普請の下宿先にカヅミの賑やかな声が響き渡った。
薄暗い部屋の万年敷きっ放しの布団から、勝手に開かれた玄関の方をまぶしそう振り返るアキラの目の前には、夏の日差しをバックに手にビニール袋を持った人のシルエットがくっきりと描かれていた。
その開け放した扉から部屋の中へと抜ける風が、画鋲でそこかしこに貼り付けられたイラストやデッサン画を揺らす。
「うるせーな、週末くらいゆっくり寝かせてくれよ」
あくびしつつも仕方無く起き上がったアキラは、寝る直前まで描き込んでいた布団横のスケッチブックを片付け始めた。出しっぱなしにしておいたら、可愛くてドジな幼馴染とやらにいつ踏んづけられるか分からないからだ。
「またまた本当は嬉しいくせに」
カヅミはビニール袋を下ろすと、相手に背を向けたまま玄関先に座り込み、いそいそと赤いスニーカーの靴紐をほどき始めた。
いつもアキラに、いちいちほどかねーで普通に脱ぎゃいいだろ、と言われているが、頑固にこの癖を直そうとしない。お気に入りのスニーカーなのだ。
「何を嬉しがればいいんだ、この状況で」
「かわいい幼馴染が休みにご飯を作りに来てくれるという事実」
大量に中身の詰まったスーパーのビニール袋を、小柄な体を後ろに反りつつ持ち上げると、重たそうに台所へと運んだ。その危なっかしい様子に、アキラは仕方無さそうに数歩で後ろまで近づくと、ビニール袋をかわりに軽々と持ち上げる。確認した袋の中身は、料理するつもり満々の食材の数々だ。
「お前、本当に料理好きな」
「いいじゃん。別に誰がそれで困るわけでもないっしょ?」
「俺が、今、困っている」
真顔でカヅミを見下ろすアキラの言葉に、なぜか相手は照れた様子を見せる。
「またまたー」
「いやいやいや、お前、なんか勘違いしてないか?」
「いいからいいから、とりあえず部屋を簡単に片付けといてよ。踏んづけたら危ないからペンとかしまってさ、布団はベランダに干してさ、テーブル出してさ。料理できるまでにあと掃除機かけるくらいの時間はあると思うよのさ」
どんだけ凝った料理を作るつもりなんだ、こいつは。
アキラはそんなことを考えながら窓を開き、目の前の柵に敷布団をかけた。そして下に人がいないことを確認してから、手近にあった雑誌を丸めて布団叩きがわりにしようとしたときだった。
「ああああぁーっ!?」
後ろから響いた叫びに、危なく雑誌を2階の窓から落としそうになった。
慌てて台所に向かう。
「どうした!?」
アキラが自分で描いたものや画集から切り抜いた絵などがそこらじゅうに貼られた台所の真ん中で、むっとした顔で冷蔵庫の上を指差しているカヅミがいた。
「何これ、調味料が無いじゃん。料理作れないよ」
1人暮らし用の小型冷蔵庫の高さはアキラの腰当たりまでで、カヅミの薄い胸元当たりまでだ。
そしてその上に置かれているトレイには、調味料たちが置かれていた跡がうっすら残っているだけだった。
なんだ、そんなことか、とアキラは頷いた。
「隣の田中さんが全部持ってった」
「なんで!? 全部買い揃えてあげたの、1週間前だよ!?」
「いや、おとといだっけな、廊下ですれ違ったとき、調味料って高いよね、みたいな話になって、ああ、俺使わないから持っていきます?、って言ったら、ありがとうって」
「使うでしょ!?」
「使わねーよ?」
「塩コショウくらいは使うでしょーが!?」
「お前、俺の食生活知ってんだろーが、いつ塩コショウ使うんだよ」
授業のある平日は、朝に牛乳とコーンフレーク、遅めの昼飯は学食でとり、基本的に夕食は食べない、という毎日を送っていることをカヅミはアキラ以上に把握しているはずだった。
「いや、だって土日は!?」
「お前が俺の安眠を妨害しに来なければ丸2日寝てる」
「え~、じゃあ何ならあるのよさ?」
冷蔵庫の中を漁り始めたカヅミは、その中にもマヨネーズやケチャップといった調味料がわりになりそうなものが一切ないことを確認した。
冷蔵庫から漏れ出る冷気を素足に感じつつ、アキラは流しの横の棚に目をやった。
「調味料か。そういえば1個だけあったかもしれん」
「あ、分かった、先週の飲み会で余って持って帰った日本酒でしょ」
飲み食いをする量が常人に比べて桁違いに少ないアキラだが、なぜか酒には強かった。
そのため、大学近くに下宿している仲間たちが酒を買いすぎた際に、飲み会の途中からでも呼ばれることがあった。
飲み食いには興味が薄いアキラだったが、頼まれごとをされると断りづらい性分のため、途中から参加しては飲みきれなかった酒を瓶ごともらって帰ることが多い。
「先週の飲み会って、お前、よく覚えてんな、あんなに酔ってたのに」
「いやー、それほどでも」
大体の場合、そういった飲み会の際にはカヅミもセットで呼ばれ、無駄に甲斐甲斐しいアキラに対する気遣いをネタに周囲の仲間は酒を楽しむというのが恒例行事となっていた。
もちろん先につぶれるのはいつもカヅミで、それを下宿先が近いアキラが連れて帰る羽目になるところまでがワンセットだ。
「あの酒は隣の片瀬さんにあげたからもうないわ」
「アキラはお人よしすぎる」
「食事ってあまり好きじゃないんだよ」
「じゃあ何が好きなの」
冷蔵庫の前でしゃがみこんでいる相手が期待している言葉はなんとなく予想できたが、アキラはそれを無視した。
「いいから、そこの冷蔵庫の横の棚を開けてみろ。確か、俺の記憶が正しければ」
と言葉を続けようとしたアキラの目の前で、棚を開いたカヅミがぺたんと床に座り込んだ。背が高いアキラの位置からは中に何がいたのかは見えない。
ゴキブリでもいたのか、といぶかしがるアキラが中をのぞきこもうとするより早く、棚の中から青白い肌をした細身の男が這い出てきた。
男は継ぎ目のない薄い灰色の服を着ていた。
なぜかアキラは病院を思い出した。それは服装から受ける清潔ながらもどこか不健康な雰囲気だったかもしれないし、もしくは、妙な嫌悪感を伴う病的にかすれた咳のせいだったかもしれない。
「君か?」
断続的に洩れる乾いた咳の合間から、アキラにそう訊ねてきた男の背には、新手にファッションか何かなのか、巨大な翼があった。
それは真っ白い翼などではなく、ここにも病的なものを感じさせる灰色の染みがところどころにうっすらと浮いている翼だったが、なぜかアキラの脳裏をよぎったのは、描いてみたいな、という想いだった。
場違いにもそんなことを考えていたアキラの足がぺしぺしと叩かれた。
「アキラ!? アキラ!?」
足元のカヅミが彼の名前を連呼していることに気づいた。
「どうした?」
「どうしたじゃないって! なんで棚の中に人かくまってんの? 浮気?」
「お前、いい加減にしとけ?」
ゴホ、ゴホン。
ここで男から、明らかに今までのものとは違う意図的な咳払いが割って入った。
「君たち、私もあまり暇じゃないんだ。用があるなら早く言ってくれ」
「無いから帰ってよ!」
間髪入れずに返したカヅミの頭をアキラがはたく。
「あ、すいません。ちょっとかわいそうな子なんで、大目にみたってください」
頭を押さえて涙目を浮かべているカヅミの横を抜けて、家の中に入る。
布団を敷くために壁に立てかけておいたちゃぶ台を部屋の中央に戻し、ベランダの柵にかけてあった座布団をちゃぶ台の周囲にばらまいたアキラは、謎の男性を手招きした。
「お忙しいらしいですけど、ちょっとこっちも色々と聞きたいことがあるんで、まあ座ってください」
男はうずくまるカヅミをちらりと見やりつつも、白い素足で足音も立てずに部屋へと入った。
「この敷物の上に座ればよいのか?」
「へ? 座布団は初めて? そういえばどこの国ですか?」
この問いに男は少し困った様子を見せた。
「天上界」
「天井? さっき棚から出てきましたよね?」
互いの噛み合わない会話に、これは何かおかしいぞ、とようやく2人が気づいたその瞬間。
「死ねやーっ!」
突如駆け込んできたカヅミが、その手に抱えたビンを座布団を前に戸惑う男性に振りかざした。
しかし男は動じることなく片手でそれを受け止め、アキラは慌ててカヅミを羽交い絞めにする。アキラの手にしていた中身の入ったビンが重たい音を立てて畳に落ちた。
「ちょっと待て、お前、何やってんだ!」
「放せ! 知らない男をほいほい部屋に上げるアキラなんて大嫌いだ!」
「お前、マジでいい加減にしとけ?」
「すまんが、帰っていいか?」
「帰れ!」
アキラが口を押さえる前に飛び出したカヅミのこの言葉に、一瞬ひるんだ男は、しかしもう1つ訊ねてきた。
「一応、念のために聞いておきたいんだが誰か死んで欲しい人とかいるか?」
「お前だーっ!」
叫んだカヅミは再び頭をアキラにはたかれた。
男はその返事にも特に怒りを見せることなく、短い咳を繰り返しながら台所へと歩を進めた。
「なんか間違いみたいだったから帰るぞ」
そして出てきた棚の前に膝をついたところで、男がカヅミを振り返った。
「私は、死んで欲しい
じゃあ何なのよさ、とカヅミが叫ぶより早く、男はスッと身を棚の中に戻した。パタンと戸が閉じる。呆けていたカヅミは、気がついたように棚へと駆け寄り、それを開いた。
中身は空っぽだった。
「なんだったんだ、アイツは」
「まあ、アキラもこれに懲りて、あまり変な人を部屋に上げないように!」
もう言い返す気も失せていたアキラは、何も言わずにさっきカヅミが振り上げていたビンを拾い上げた。相手に手渡しつつ、声をかける。
「ほい。うちの唯一の調味料だ」
瓶のラベルにはシンプルに酢とだけデカデカと書かれていた。
「えー、何それ、お酢しかないってこと?」
「そうッス」
「つまんねー」
けらけら笑いながら、カヅミは台所へと戻っていった。
まな板を動かす音や、汚さないために絵を動かしているのか紙をまとめる音などが聞こえてくる。アキラはまた布団を叩こうかと床の雑誌を拾い上げようとして、さっきまで男が座っていた座布団が目に入った。
同時に、どこか病的な、それでいて墓所のような静謐さを思わせる男の雰囲気を思い出した。
あれを絵にすることが出来るだろうか。出来るようになれるだろうか。そんなことを考えたあとに、もっと先に考えるべき事柄に今更ながら思い至った。
「あいつ、誰だ?」
思わず口をついて出る。棚の中から出てきた男。アキラが覚えている限り、あの中には(さっきカヅミが凶器代わりに使おうとしていた)酢が入っていただけのはずだ。
そのとき、天啓に似た考えがアキラを貫いた。
部屋の隅に積まれた本の山へと向かう。整理されていない漫画雑誌や画集を少しめくっては次々と背後へ放る。
「こいつか!」
ついに彼が目当てのものを見つけた瞬間、台所からまた悲鳴にも似た叫びが上がった。
「えええええーッ!?」
「どうした!?」
壁に背中をぴたりとつけたカヅミの前は、ガスコンロが2つ並んでいる。
そこに座っていたのは、真白いワンピースを着た金髪の巻き毛を持つ中学生くらいの子供で、少女とも少年ともつかない美しく整った顔立ちは、妖しげな笑みを浮かべていた。
「情熱の金」
一振りした右手に黄金の矢が現れる。
「それとも憎悪の鉛?」
もう片手に鉛色の矢が現れた。
「好きも嫌いも思いのままです。あなたの想い人を振り向かせるも、求めぬ愛を遠ざけることも」
この時点でアキラもカヅミもおおよその予想はついたが、先に行動を起こしたのはカヅミだった。
「あ! もしかして恋のキューピッドって奴!?」
この言葉に相手は不快げに鼻をひくつかせた。
「俗っぽい理解ですね。否定はしませんが」
「あ、じゃあ、いまいち素直になれないどっかの誰かさんを……」
「俺を指差すな!」
アキラがカヅミの頭を
「ごめんなさい、どうやら私を呼び出した品々の主はそちらの彼のようですね。あなたのその願い、ぜひにも叶えてみたかったですが」
相手の返事に言葉を失うカヅミ。アキラは、ふうっと安堵のため息をつくと、相手を追いやるようにひらひらと手を振った。
「つうか、お前らの昔みたいな自由奔放な恋愛は望んじゃいないんだ、少なくとも俺はな」
意外そうに目をぱちくりさせたあと、2本の矢をまたどこへともなくしまいこんだ相手は、ほっそりとした指先を薄い紅色をした口元に当てた。
「いいんですか? そう言うなら帰りますけど、本当に何もしなくていいですか?」
「ダメ! 帰っちゃダメ!」
「ああ、じゃあ、1つだけ。さっき、お前らのとこから死神が来てたから、ヨロシク言っといてくれ」
性別を感じさせない薄高い声がクスクスと笑った。
「面白い人ですね。分かりました。それでは。ああ、あとそっちの方」
カヅミの方を心から申し訳なさそうに見やった。
「本当にごめんなさい」
気がつくと目の前のガスコンロには誰も座っていなかった。そこには、台所のどこかに貼ってあったと思しき絵画が、湿った状態で置かれていた。
「あー、やっぱりなー」
「何が?」
たった今起きたことの展開に滅茶苦茶不満そうな顔でアキラの呟きに憮然と答えるカヅミ。
「お前、さっきとりあえずコンロの近くに絵を片付けただろ?」
この言葉に、カヅミは不安そうな顔を浮かべた。
「う、うん」
「しかもそこにお酢をこぼしただろ?」
「違うよ、フタが固くてさ、力入れたらいきなり開いちゃって」
「結果は同じだろうが……まあ、別にそれはいい、許してやろう」
ほっと安心するカヅミ。
そんなカヅミの様子を気にする風もなく、アキラは感心したように目の前のコンロと汚れた絵を見ていた。何度もうなずきながら、独り言のように呟く。
「しかしこんなんでいいのか、そうか」
怒られるかと身を固くしていたカヅミは、逆にこの言葉に興味を示した。
「何? 分かったの? 何だったの? 何がどうしたの?」
「これ」
アキラは手にしていた本のページを開いて相手に渡した。
そして、コンロとお酢の持ち主が俺で本当に良かったなあ、と安堵のため息を内心つきながら、布団を叩きに部屋の窓へと向かった。
カヅミが手渡された本を見る。
「ギリシャ神話?」
そこには、様々なギリシャ神話の絵画や彫刻などが並んでいた。色んな神様がいるんだな、と目で追ってみる。夜の神、ニュクス。眠りの神、ヒュプノス。死の神、タナトス。
「へえ、死神って眠りの神様と兄弟なんだ」
さらにペラペラと読み進める。
するとそこには黄金の矢と鉛色の矢をもった天使のような子供の絵が描かれていた。
「さっきの子だ」
やっと分かる神様がいたと喜んだカヅミは、しかしその絵の題名を見て吹き出してしまった。
「あはは、何これ。すごい名前の神様。エロスだって」
窓際では布団を叩きながら、アキラが感心したように、そしてどこか呆れたように考えていた。
(確かにコンロは、炉だよなあ。絵と炉があったわけで、そこにお酢がかかったわけか……こうやって考えるとお酢ってすごいんだな)
後ろからカヅミの吹き出すような笑い声が聞こえてきたところで、現実に引き戻されたアキラは、ここぞとばかりに叫んでおいた。
「おい、そういえば
神様だって暇じゃない ギア @re-giant
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