冬の少女と切手のない封筒

ギア

第1話

 1月4日から出社とは我ながら勤勉だな、と私は人の少ないオフィスを眺めた。実際は木曜日の今日が始業日なのだが、今日明日に有給を当てて長期連休にした人が多い。私もそうしたかったのはやまやまなのだが、年末に友人たちと旅行に行くために早めの冬休みをとらせてもらったせいで仕事が溜まりに溜まっている。


 まあ人が少ないオフィスはむしろ仕事がしやすい。他の人にちょっとした質問をされたり、会議の予定を入れられたり、ということがないからだ。黙々と自分の仕事に専念できる。今日、一緒にオフィスに出社している人たちもおそらくは同じ理由で来ているのだろう。


 もっとも長居するつもりはなかった。いくら冬至は過ぎたとはいえ、まだまだ日は短い。アラサーとはいえ女性1人で歩く夜道はやっぱり怖い。駅までは数分だが、私の家は駅向こうで、歩いて大体20分程度かかる。最近も同じ町内で児童虐待があったらしいとか、子供の自転車を盗まれたとか、ちょいちょい物騒な話を聞く。


 そんなわけで定時で帰るつもりだった。わざわざ今日無理する必要もない。会社が本格始動するのも来週からだろうし、それまでに終えておきたい仕事も明日の金曜日に終わらせればいい。


 だから、いきなり定時間際に鳴りだした電話を睨みつけてしまったのもむべなるかな。正直、とろうかどうか迷ったが、その電話の近くで出社している社員は私だけだったし、同じフロアにまだ残ってる数人のメンバーが迷惑そうにこっちをジロジロ見てくるし、仕方ない。


「はい、総務部です」

「あー、受付です。あのですねえ……」


 相手はビルの受付のおじさんだった。うちの会社は駅向こうに本社ビルがあり、大半の社員と部署はそこにいる。私の属する総務部だけこのビルの4階から7階を借りている。他の階はまた別の会社が借りており、受付のおじさんもビルの管理会社の人だ。


 基本的に弊社への来客がこのビルに来ることはほぼなく、受付から電話がかかってくることは稀だ。嫌な予感がした。そして結論から言えばその予感は当たっていた。


 エレベーターを下りて自動ロックのガラス戸を押し開けるとそこが玄関ホールだ。外へと通じる両開きのガラス戸、右手にビルの受付カウンターとそこであくびしているおじさん、その受付と向かい合わせの左手には4人がけのソファ。オフィスビルらしく絵画などの華美な装飾はない。


 ソファには1人の少女が腰かけていた。この子がおじさんの言っていた子だろう。


 小学校高学年か中学生か。上下はスウェットで、1月とは思えない薄着な上にサイズがあっていない。裾から覗く手足はやせ細っている。それがさらに寒々しさを強く感じさせた。


 その私の視線に気づいた少女は顔を伏せるとスウェットの裾を無理に引っ張って素肌を隠した。その仕草が少し気になったが、まずは先に聞かないといけないことがある。


 受付のおじさんに会釈をしつつ、目線だけで「この子ですか?」と訊ねるとおじさんはめんどくさそうに頷いた。私は少女とのあいだに1人分の隙間をあけてソファに腰かけた。緊張が伝わってくる。いや私自身が緊張しているだけなのかもしれない。


「えーと、まずはその持ってきたっていう封筒見せてもらっていいかな」


 来社の挨拶をするべきか、自己紹介するべきか、どうしようか迷いながらエレベーターを下りて来た私の口をついて出たのは単刀直入なお願いだった。少女はうつむいたまま、私に封筒を差し出した。


 切手の貼られていない茶封筒の表に書かれているのは、このビルの住所とうちの会社の名前、そしてそれに続けて「ポイント引き換えハッピープレゼント係」の文字。正直、あまり綺麗な字とは言えない。男性の字に思われた。


 封筒を裏返す。別の住所が書かれている。私が住んでいるのと同じ町内、駅向こうの住宅街で、駅からバスで15分程度かかる。表の字と違ってこっちは綺麗だ。


「すいません」


 少女が初めて声を発した。感情のない声だった。振り向くとこっちに手を突き出している少女と目が合った。疲れたような、困ったような、そんな顔をしていた。突き出された手は、封筒を返して欲しいという意志表示のように思われた。


「ご迷惑をおかけしました。あらためて切手を貼って応募させて頂きたいと思います」


 そう。受付のおじさんから聞いた話は、要はそういうことだった。本来は切手を貼って封書で送ってもらうべき「プレゼントの応募用紙」にも関わらず送り先が家の近所だからという理由で直接持ってきた人がいる、と言われたのだ。


 このビルは普通の家のような郵便受けは存在しない。郵便物の受け取りを地下の駐車場でまとめて行っているためだ。そこでビルの管理会社の人が各階への郵便物を仕分けて、日に2回、上階へと運んでくれる。


 少女から封筒を差し出されたおじさんも困っただろう。これがビル丸ごと同じ会社だったらまた話も違ったかもしれない。しかしおじさんには各階に立ち入る権限があるわけでもないし、そもそも受付で郵便物を勝手に受け付けた時点で問題となってしまう。


 おじさんとしては穏便に追い返そうと思ったが、届け先であるうちの会社に一旦は話を通しておくべきだろうと思い直して電話をかけ、運悪くそれをとったのが私だったというわけだ。


 あまりに丁寧な少女の言葉に戸惑ってしまった私は数秒固まってしまい、それを見た少女は手を引っ込めた。そのとき、ふと目に入ったものがあった。そしてすぐに私は、それに気づかなければ良かったと後悔した。


 とっとと封筒を返して「そうですね、お手数ですが切手を貼ってご応募いただけますか」と営業スマイル(営業を経験したことないけど)でお帰り願えば良かった。


 しかし気づいてしまったものはしょうがない。少女が手を差し出したときに、丈の足りない袖が露わにした手首に丸い火傷やけどのあとがいくつも見えた。あれはタバコを押し当てたあとだ。


 この子はおそらく虐待を受けている。それも実の父親からだろう。その父親はこの封筒の表の宛先を書いたあと、応募先の住所が駅向こうのすぐ近くだと気づいた。


 切手代を惜しんだ彼は娘を呼び寄せた。何をされるのかと怯える彼女に封筒を渡して投函してくるように命じた。そして、この1月の寒空の下に、スウェットの上下だけの娘を送り出したのだ。


 身を切るような寒風の中、30分近く歩いてようやく封筒に書かれた住所のビルに到着した彼女だったが、周囲をぐるりと1周しても郵便受けが見つからない。問題を起こしたくはないが、投函できずに家に帰ることもできず、勇気を振り絞って玄関ホールから入った。


 封筒を受付の人に渡せばそれで無事にお使いを終えられると思っていたが、何か問題があったらしく、どこかに電話されてしまった。騒ぎになって、家に連絡されたら間違いなく父は気分を害するだろう。それはなんとしても避けなければならない。


 下りて来た冴えないアラサー女はどうやら私が虐待されていることに気づいたようだ。通報されるようなことがあったらそれこそ大変なことになる。しかし。


 しかし、持ち帰らねばならない封筒はここにある、というわけか。私は手にした封筒をねめつけた。まるで断れない不幸の手紙のように。


 とはいえ、もちろん何から何まで私の想像だ。


 この子がお金を持っていないであろうこと、このまま投函できずに家に封筒を持ち帰ったら罰を受けるであろうこと。何もかも状況証拠と呼ぶことすらおこがましい情報から私が勝手に導き出した妄想に過ぎない。


 大体からして、仮にこの想像が正しかったとしても私に何が出来るというのだ。警察を呼ぶか。職場の誰かに助けを求めるか。いや、残念ながら、私は自分の推理とも呼べないような憶測に他人を巻き込む勇気はなかった。


「すいません、あの」

「ちょっと時間ある?」


 私は封筒を上着にポケットに入れた。少女が身を固くするのが分かったが、私は努めて明るく振る舞った。


「すぐそこにコンビニあるのよ。そこ出て左に行ったところね。私、仕事がまだまだあってさ」

「はい?」


 まくしたてる私が何を言おうとしているのかさっぱり分からない様子で、少女の顔には怯えより先に戸惑いが浮かぶ。


「だからちょっと食べるもの買って来ようかなと思ってるんだけど、あなたも切手を買うんでしょ? せっかくだから、ほら、一緒に行こう」

「いえ、私」

「はい、決まりね。せっかくご足労頂いたお客様だし、何か暖かいもの奢るからさ」


 私の奢りという言葉に誘われたのか、勢いに飲まれたのか、断る言葉を思いつかなかったのか。いずれかは分からないが、とりあえず少女は私の後について外に出た。


 しかし外に出るつもりがなかったのでコートもマフラーも置いてきてしまったが、日が落ちかけた真冬の屋外はビルの陰という立地条件もあいまって吐いた真っ白な息さえ凍り付きそうな極寒の地だった。


 しかしこんな日にも自転車通勤する人がいるらしく、駐輪場には1台だけとはいえ自転車が停められていた。健康志向なのだろうか。ふとそんなことを考えていた私は、突然強く吹いた寒風に震え上がった。


 それでも、私がコンビニまで走ってしまったのは自分が寒かったからというよりも、そんな私よりもさらに薄着で唇まで真っ青にしている少女のためだった。


 コンビニに駆け込むと私は少女に封筒を渡し、とりあえず座って待ってて、とイートインコーナーを指し示した。少女は一瞬その封筒を持って逃げようか迷ったようだったが、外の寒さに足がすくんだのだろう。何もかも諦めたような足取りで椅子に腰かけた。


 私は若干引きつっていたであろう笑顔を浮かべたまま店内に向かった。さっきの自分の言葉を嘘にしないためにカゴへ食べ物をいくつか放り込む。次に少女から死角となっている場所で財布から100円玉を1つ取り出してポケットに入れた。


 会計を済ませた私は祈るような思いでイートインコーナーを見に行った。良かった。まだいてくれた。少女は暗くなっていく窓の外を見ていた。もしくは窓に映る自分の顔を見ていたのかもしれない。


「はい、コーンポタージュとレモンジンジャーのどっちがいい?」

「あの、すいません、お気遣いなく」

「じゃあコーンポタージュ、はい」


 じゃあってなんだよ、と内心で自分にツッコミを入れつつ、コーンポタージュのほうを相手の前に置く。


「あ、そうだ」


 無駄と知りつつも、可能な限り、本当にその場で思い出したように振る舞いつつポケットに手を入れる。怪訝な顔をする少女の前で、私はポケットから100円玉を取り出して、そのコーンポタージュの缶の横に置いた。


「これ、さっき落としてたよ。切手代でしょ。気を付けなきゃ駄目だよ」

「え、でも、私」

「じゃあね。外はもう暗いし、歩いて帰るなら明るい道を選んで帰ったほうがいいよ」


 一方的にお金と言葉を押し付けて、私は少女に背を向けた。後ろから、歩きじゃなくて自転車だから大丈夫です、という言葉が最後に聞こえた気がしたが、私にはそれ以上の会話を続ける気はなかった。結局、私は出来ることを出来る範囲でやるしかないのだ。


 あの少女は、おそらく父親に命じられたからではなく、自分の意志で自分の家の住所を封筒の裏に書いたのだ。それは、何もかも諦めかけた彼女の精一杯のSOSなのだと私はとった。あの100円玉はそんな彼女に対する私からのせめてものレスキューだった。


 私はこのまま何もかも忘れるつもりだった。


 たった1つだけ、最後に確認をしてから。


 金曜はまた限られた人数しか出社していなかったので確認はできなかった。さらに次の週の月曜日は成人の日だったので、社内がいつもの活気を取り戻したのは次の週の火曜になってからだった。その日の昼休み、愛妻弁当を口に運んでいる職場の先輩の横に私は立った。食事を邪魔された先輩はめんどくさそうに私を見上げてきた。


「なんか用か? 仕事の話なら休み時間の後にしてくれよ」

「先輩、そういえばお子さんの自転車を盗まれたって言ってたじゃないですか」

「あれなあ。まだ見つかってないんだよ」

「それ、買い物カゴ付きだけど荷台がない、赤と黄色の自転車でしたよね」

「え? そうだよ」

「ありがとうございました」


 頭を下げて立ち去る私に、先輩はまた弁当に向き直った。

 私は自席に戻りながら、さすがに娘に盗品を使わせる父親は何とかして懲らしめてやる必要があるな、と腹を据えた。

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