煙越し

 娑婆。退廃の恐ろしくも長い壁。迎えの渡し煙草。くゆる煙。


 人を殺める限界でお縄の俺は、時代を、文明の進渉を、世間の流れをスキップして今ここに、表の世界に、出った。


 曇った白目で俺の出で立ちに眼球をギラつかせた舎弟たちの腰を落とす挨拶に若干の戸惑い。悪しき煙で誤魔化す。


 そもそもは行きつけミレニアム間近乱痴気騒のスナックによう分からん態度で近づいてきたクマヤマという奴に責がある。


 俺がどういう人間か知っとったら酒が入っていても、目線が合った瞬間にアルコールは覚め、温い汗を流しながら軽く辞儀をして全身を撫で下ろしながらびしょ濡れの背中を俺に見せつけて元の位置に戻る。それが普段のイレギュラーの定石、パターンであった。俺が何者か、分かるからである。


 しかし奴、クマヤマは相当たる阿呆だった様で、へらへらと典型的な呑んべぇの下巻きテンションで俺に歩み寄り、これまたよう分からん金額で、哺乳類が写実的に描かれた絵画を売りつけてきた。俺に。


 俺は育ちの悪い家庭で成長し、育ちの悪い友人達と吸引し、育ちの悪い事務所に流れで入社し、育ち悪く出世してきた。


 その俺に、煌びやかな、こんなにも奇跡的な煌びやかかつ腑抜けた透き通り過ぎた自然の中で、悠悠と栄養のある果実を頬張るリス、廃退の一欠片もないムードの梟とそいつの留まる健康の木なんかが隅の隅まで満ち満ちている健全の塊の絵画を、やはりこの俺に、それ相当であろう金額でセールスを始めた。


 クマヤマはそれらの詳細と自己紹介を、揉み手で気色の悪い笑顔と共に近づきながらプレゼンしてきた。

 クマヤマ糞下僕は若干サイズの緩い紺のスーツとぴっちり固めた七三分けの全身不愉快野郎だったので、揉み手自己紹介が終わりそうな頃合いに、一曲三百円のスナックマイクで頭蓋を鏡開き如く全力で打ち付けてやった。


 当然である。



 しかし普段は睨み一本で物事を解決してきた俺であるため、スナックの多国籍従業員も特にこれといった特徴のないママも、まさか俺が武力を行使をするタイプだとは思っていなかったらしく、頭頂部から眉間へと移動する血液の部分を抑えながら例によって気色の悪い呻き声を放つクマヤマを掻き消す様に、スナック全体が悲鳴でパツパツに空気もなくなる勢いでギャーわーキャーひい。


 どういうことだ。こんなにも通い詰めているというのに、未だに俺がどういった人間か把握していないのかこの店は。


 その一瞬の憤りも気色クマヤマに鏡開き。


 を、し続けていたのがまずかった様で、気色ヤマの頭のへこみが肉眼でわかるようになった頃には、俺の世界で一番景気の悪いサウンドが、サイレン。が、耳に入ってきた。


 人生初の諦観。


 カラーは真紅の、様々な音を拾う穴は肉片で補填されたスナックマイクのスイッチを入れ、アカペラで十八番、野猿を歌いながら誰もいない店の機能が破綻しているスナック中を歩き回っていた辺りで後ろから何者かに、のち知った警官にタックルをかまされ、意識を失い、気が付くと護送車であった。



 永かった。


 非常に永い獄中であった。



 模範囚を殴っては独房。


 舐めてかかった奴に熱い茶をかけて独房。


 警備員に食ってかかって独房。


 独房独房独房独房独房独房独房独房独房。


 永い。



 しかし正直なところ、不本意ではあるが、奇しくもクマヤマは死ななかった為、こうして娑婆煙草、舎弟落涙、悪辣再起が行えるので独房もひとつの経験、武勇の足しにでもなるだろう。


 スナックマイクの脆さに感謝を。と同時にクマヤマのような雰囲気の舎弟の手元が一度光ったような気がした。


 煙越し。

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