第258話 眼帯

 振り返りざまに尻餅をついたクリスは、床に付いた両手で痛みと冷たさを感じながら、見上げた。


 右腕を振り上げ、今にもクリスに襲い掛かろうとする巨大な熊。


 その姿は、氷壁の山脈を登った時に遭遇した姿を彷彿とさせる。


 赤い光を反射した熊の瞳が、クリスの姿を明確に捉えた次の瞬間、熊の左目に何かが突き刺さった。


 その様を目の当たりにしたクリスは、一瞬呆けそうになったが、痛みを訴えるような熊の咆哮で気を取り直すと、すぐさま逃げ出した。


 突然視界を奪われたことで混乱しているのか、熊はクリスを追いかけようとするも、激しく体を壁にぶつけている。


 そのたびに放たれる唸り声を背中で聞いたクリスは、一目散に駆けた。


 真っすぐに伸びている廊下を駆けながら、幾つかの扉を開けようとするが、どの扉も固く閉ざされていて、逃げ込むことが出来ない。


「何で開いてないん!?」


 彼がそんな悪態を吐いた時、前方に何物かが現れ、焦りのこもった口調で叫び出す。


「こっちだ! 早く来い!」


 廊下に響き渡る女性の声。


 その声にどことなく聞き覚えがある事に気づきながらも、クリスは深く指摘することなく、ただ走る。


 そうして、女性の待っている扉へと辿り着いたクリスは、勢いを保ったまま部屋の中へと飛び込んだ。


 床に転がり、呼吸を整えようとする彼の背後で、扉が勢いよく閉じられる。


 その様子を確認しようと、彼は顔を上げた時になって初めて、自身が数人の大人に囲まれていることに気が付いた。


 文字通り、目の前に突き付けられている剣の切っ先を見つめながら、クリスはゆっくりと息を呑む。


 身に纏っている服を見る限り、エストランド兵には見えない。


 しかし、変装している可能性も捨てきれなかった彼は、ひとまず様子を伺うことにした。


「坊主、何者だ? どうやってここまで来た?」


 左目に眼帯をした、いかつい面持ちの男が問いかけてくる。


「お、俺はクリス……廊下で熊に襲われて、逃げてきた……」


 下手な事を言わないように気を付けながら、クリスは言葉を選んで返答する。


 その答え方が気に食わなかったのか、眼帯の男は一度ため息を吐くと、しゃがみ込んでいるクリスの顔を掴み上げた。


 両の頬を潰されるように掴まれ、無理やりに立たされた彼は、痛みに耐えながら眼帯の男を睨みつける。


 対する眼帯の男がクリスを睨み返して何かを言おうとした時、先ほど聞いた女性の声が、クリスの背後から投げ掛けられる。


「ローガン隊長。彼を……クリスを離してあげてください。私は彼を知っています」


「ん? 何だ? 俺に逆らうつもりか? 新米は黙ってろ」


 そんな会話を聞いたクリスは、聞き覚えのある声の正体を思い出す。


『サラか! そっか、エーシュタル軍に入るって言ってたっけ……』


 そうと分かればすぐにでも助けてもらいたいのだが、そう簡単にいくわけでは無いらしい。


 ローガン隊長に黙るように言われたきり、サラが口を開く様子は無かった。


 サラが黙ったことを数秒間確認したローガンは、思いだしたようにクリスのことを睨みつける。


 そうして、ゆっくりと視線をクリスの左腕へと動かしていった。


「坊主、お前、エストランド側の人間だろう?」


 その問い掛けを聞き、クリスはローガンの言わんとしていることを理解した。


 つまり、クリスが左腕に装着している籠手が、エストランド兵の着ているリキッドクロスと同じだと考えているのだろう。


 実際のところ、似たようなものではありそうなのだが、だからと言って敵では無いと証明する方法はあるのだろうか。


 そんなことを考えている間に、ローガンはクリスの顔から手を離すと、答えるように促してくる。


「お、俺は、ノルディス長官に言われて、あんたらエーシュタル兵の凍結を溶くためにきたんばい! じゃけん、敵じゃなか!」


「……凍結を溶く? お前にそんなことが出来るのか? それに、その話を信じるための証拠は?」


 威勢よく言い放ったクリスだったが、ローガンの返答に思わず言葉を詰まらせてしまった。


 ローガンからすれば、クリスが敵だった場合、凍結を溶くと見せかけて攻撃をする可能性があると考えているのだろう。


 そう考えた時、クリスは一つの疑問を抱いた。


「……そんなに俺を疑うんやったら、なんで俺を助けたん?」


 そもそも、ローガン達にとって、敵か味方か分からない相手を助ける意味があったのだろうか。


 少なくとも、味方であると判断したが故に助けたのではないだろうか。


 そんな彼の思惑が会っていたのか、苦い表情をしたローガンは舌打ちをしながら告げた。


「……おい、サラ。説明しろ。なぜ、こいつを助けた?」


「はい、声を聞いた時に私の知り合いだと分かりましたので」


 サラの答えを聞いたローガンは、呆れたと言わんばかりに盛大なため息を吐いた。


 そんなローガンの様子を見て、クリスは苛立ちを覚えそうになったが、それらを飲み干しながら、周りの兵士達に向けて言った。


「俺が味方って証明をしたいけん、誰か手とか足とか、凍ってるやつはおらん? おったら、俺の左手に触れてみ。溶けるばい」


 言いながら左腕を前に突き出したクリスは、周囲で起きているどよめきに目を向ける。


 クリス達の様子を見ている兵士たちの中には、立ち上がることもせずに座りこんだままの者が何人かいた。


 その中には、立てないほど凍結してしまっている者がいるのではないかと踏んでの提案だったのだが、どうやら正解だったらしい。


 座りこんでいる者の一人が、ローガンの方へと視線を投げつつ、ゆっくりと手を上げる。


 クリスも同じように目を向けると、ローガンは仕方ないとばかりに肩をすくめたのだった。

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