第192話 毛先

 打ち上げられた地面と共に落下を始めた灰色の猫を目掛けて駆けだしたノルディス。


 そんなノルディスの後を追うオルタは、このままでは間に合わないと悟った。


 重たい足音でありながら、信じられないほどの速度で駆け抜けるノルディスは、あっという間に猫の落下先に到着してしまう。


 落ちてきている猫もまた、打ち上げられた地面で何度も体を打ち付けながら、ノルディスを睨みつけているようだった。


 そんな両者をみたオルタは、何か手立てが無いかと考える。


 走りながら周囲を見渡した彼の視界に、いくつもの瓦礫の破片が映り込んだ。


 それらの破片を走りながら拾ったオルタは、盛大に体勢を崩しながらも、ノルディスに向けて投げつける。


 投げつけた瓦礫がノルディスの背中や肩、後頭部に直撃したことを目で確認したオルタは、地面を転がる。


 投げることは出来たが、完全にこけてしまったオルタは、すぐさま立ち上がり再び走り始めた。


 ノルディスはと言うと、一瞬だけオルタに視線を移したが、再び上空の猫へと目を向ける。


 そうして、両腕を落ちて来る猫へと伸ばしたノルディスは、抱きかかえるように彼女を捕まえたのである。


 ノルディスの腕の中で必死に逃げ出そうともがいている猫を見て、オルタは立ち止まり、ノルディスに声を掛けた。


「彼女を離せ!」


「あぁ? どうして俺が、おめぇの言う事を聞かなきゃいけねぇんだ?」


 二人が会話をしている間も、猫はノルディスの腕にかみついたり、身をよじって逃げ出そうとしている。


 しかし、硬化したノルディスの腕には猫の牙も効かず、身をよじる程度の力では、彼の剛腕から逃れることは出来なかった。


 そんな様子を見たオルタは、どうするべきか考える。


 オルタの予想では、ノルディスの抱えている猫は恐らくサラなのだろう。


 隠れる場所の無いこの平原で、サラがどのように移動していたのかと思っていたが、これが答えだと考える。


 つまり、平原を覆いつくしている草の中を、彼女は猫の姿になって移動していたのだ。


 それでも敵にバレずに動くのは至難の業であろうが、そもそも、ここに猫がいるなどと考える者はいないだろう。


 それはオルタも同じであり、サラが猫の姿になれることなど考えもしなかった。


 考えながら様子を伺うオルタの姿を見て、ノルディスが口を開く。


「それにしても、猫人族が変位を使えるなんざ、かなり珍しいなぁ。それに、まさか変位を使える二人がペアだったとはなぁ。いささか不公平だった気もするが、まぁ、仕方ねぇか」


「やっぱり、サラなのか?」


「そりゃそうだろうな。今ここに入れるのは、俺達三人だけなんだぜ? それともなんだ? 偶然、野良猫がここに紛れ込んで、偶然、落ちていた毒ナイフを咥えて俺を襲おうとしていたとでも思うのか?」


 ノルディスの言葉を聞いたオルタは今までの疑問が晴れていくのを実感した。


「まぁ良い。これで一人脱落だ」


 そう言ったノルディスは、一つため息を吐くと左手で猫の首根っこを掴んだ。


 かと思うと、腕を大きく振って放り投げたのだ。


 オルタから見て右手の方へと大きく投げられたサラは、着地した鈍い音だけを残し、気配を消した。


 恐らく、動けないのだろう。


 慌てて様子を見に行こうとしたオルタは、次の瞬間、急接近するノルディスの気配を感じ、咄嗟に頭部をガードする。


 しかし、強い衝撃はオルタの腹部に打ち込まれた。


「かはっ……!」


 一瞬で肺の空気が押しつぶされ、口から飛び出していく。


 瞬間的な浮遊感と、足が地面から浮いたことを彼が自覚した後、今度は背中に強い衝撃を受け、オルタは地面に打ち付けられた。


 ジンジンと右の頬が痛み、全身が熱くなってゆくのを感じる。


 そうして、うつ伏せの状態で呼吸を整えようとしていたオルタに、声が投げ掛けられる。


「おいおい、情けねぇな。俺はヒントを出してたはずだぜ? 全然会得できてねぇじゃねぇか。もう終わりか?」


 そんな彼の言葉を聞いたオルタは、歯を食いしばり、全身の痛みに耐えながら立ち上がる。


 彼の体を覆っていた鱗がいくつも剥がれ落ち、所々から出血している。


 しかし、オルタにとってそんなことはどうでもよかった。


 気が付けば、目の前で仁王立ちしているノルディスに向けて、言葉を並べだす。


「柔軟性って、会得も何もねぇだろ。一応、前と同じくらい動けるようにはなったぞ? これ以上、どうしろってんだ?」


 荒れる呼吸を整えながら告げたオルタの言葉を聞いて、ノルディスは一瞬呆けた。


 そして、次の瞬間には大声を上げて笑い始める。


「だはははははは! 誰が、体の柔軟性のことを言った? ちげーよ! 動けるとか、そんな話じゃねぇんだ! だはははははっ……やべ、腹痛てぇ」


 目の前で腹を抱えて笑いだしたノルディスに憤りを覚えたオルタは、思わず一歩を踏み込み、拳を振り上げていた。


 そうして、勢いに乗ったまま殴りかかる。


 繰り出されたオルタの拳は、しかし、ノルディスの俊敏な動きで全て躱されてしまう。


「くそぉ!」


 オルタの渾身の一撃も、左手一本で受け止めてしまったノルディスは、驚きで眼を見開いているオルタに向けて告げる。


「仕方ねぇなぁ。いいか? これは特別だからなぁ? 俺たちが得意としてるのは、柔軟性。命の柔軟性だ。扱えるようになれば、こんなことも出来るんだぜ?」


 そう言ったノルディスは、オルタの右の拳を握り込んでいる左手を、強く握り込んだ。


 自身の拳を強く握られたオルタは、痛みを覚えた。


 しかし、それ以上に目の前で生じた異変を目にして、驚きのあまり息を呑んでしまう。


 ノルディスの左手、その甲から指先にかけて、無数の毛が生えてきたのである。


 それらの毛はどれも針のように鋭く尖っている上に、それなりの硬度を持っているようだった。


 まるでオルタのことを狙うかのように伸びだしたそれらの毛は、彼の目に届く寸前で成長を止める。


 それはきっと、偶然では無いのだろう。


 そう感じたオルタは、唖然としたままノルディスの鋭い毛先を見つめたのだった。

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