第100話 盲亀

 タシェルが揺れる船にしがみ付きながら、一つの直感を抱いていた頃。ミノーラは船の揺れで足を滑らせ、ハイドの背中に倒れ込んでいた。


「……っ!」


 あまりの揺れに声を上げることもできず、右の脇腹を走り抜けた痛みを耐える。ミノーラの脚では、この揺れの中立ち続けることは到底不可能だ。


 それは流石のハイドも同じのようで、タシェル同様に船の縁にしがみつきながらも、前方の様子を伺っている。


「思ったより……ひどい揺れですね!」


「やけん言ったろうが!二人ともなるべく低い体勢を保っときーよ!船がひっくり返ったらおしまいやけんな!」


「立てませんよ!」


「そりゃ好都合たい!」


 吹き荒れる風の轟音にかき消されないように、大声で会話をする三人は、打ち付けるような大雨と打ち上がる波の飛沫で、既にずぶ濡れになっていた。


 ミノーラは全身が徐々に重たくなっていくのを感じながら、その重さに身を任せて、船底にへばりつく。


 当然、船が波から受ける強烈な揺れが全身に直接伝わってくるわけで、瞬く間に吐き気を覚えたミノーラは、思わず立ち上がろうとする。


「なんばしようとか!立つなっち良いよるやろ?」


「待って!本当に待ってください!」


 立ち上がろうとするミノーラの様子に気が付いたハイドが、彼女の背を抑え込もうとするが、あまりの気持ち悪さに、四肢を踏ん張って対抗する。


 その時だった。


 ゴンと言う鈍い音が船に響いたかと思うと、船の右側が大きく持ち上がった。突然の事に対応できなかったハイドが、体勢を崩しかけ、何とか船の縁にしがみつく。


 タシェルはしっかりと縁に掴まっていたようで、何とか大きな傾斜に耐えることが出来ている。


 一瞬のうちにそのような景色が視界に入ったミノーラは、自身が船から大きく弾き飛ばされていることに気が付いた瞬間、波と泡の入り乱れる海へと頭から落ちた。


 縦に横に前に後ろに上に下に。あらゆる方向からの圧力で、方向感覚を失った彼女は、必死に前足を動かしてみるが、進んでいるのか回っているのか区別もつかない。


 目を開いても、強烈な痛みが走るだけで何も視認することなどできなかった。


 最早何かを考える余裕を失い、がむしゃらに足を動かすしかない。出来ることはそれだけだ。


 光も音も地面も感じられない、深い空間に一人取り残され、どこに行けば良いのかも分かっていない。


 息を止めるなんて知恵が働くわけもなく、既に口から零れる気泡も尽きかけている。


「死んじゃだめ。」


 唐突に頭に響いた声は、誰の声だろう。耳が拾った声ではない。自分の声なのかも分からない。


 そんな声に返事をすることも無く、ミノーラは意識が遠のいていくのを感じる。


 真っ暗な闇の中、体も意識も溶け込んでいく中で、彼女は再び声を聞く。


「死んじゃだめだよぅ!」


 途端、腹部に強烈な圧迫感を覚えたミノーラは、何者かが彼女の体を押していることに気が付く。


 苦しさを覚えながら、数秒程耐えていると、激しい揺れと共に強烈な雨と風を全身で感じた。


 水中から突然飛び出したせいか、体が呼吸を求め、今まで我慢していた吐き気と一緒に水を大量に吐き出した。


「うわぁ!ばっちぃなぁ!もう!」


 相も変わらず聞こえてくる声に気が付いた彼女は、すぐさま自身乗っている者が船では無いことに気が付いた。


 お椀をひっくり返したような、こんもりとした何かが、ミノーラの腹の下に潜り込み、海を泳いでいる。


 相変わらず波も風も激しくて船よりも揺れてはいるが、沈むことは無い。


「ほうら!あそこに君の乗ってた小舟が見えて来たよぅ!そういえば、君は人間ではないみたいだね?どうしてこんなところにいるんだろう?まぁ、良いか。あ~あ~。おいらも人間みたいにお喋りしてみたいなぁ~。海の中ってば、だぁれもおしゃべりしないから、おいら退屈だぁ。ねぇ、君は話せないの?話せないよねぇ。人間に話しかけてみても、誰も返事してくれないし。やんなっちゃうよねぇ。そうだそうだ!今度は空飛ぶ鳥さんに尋ねてみよう!もしかしたら、おいらとおしゃべりしてくれる誰かを知っているかもしれないしねぇ。決まりだぁ!」


 ようやく呼吸が出来たことによる安堵と、胸のあたりに未だ残る苦しさ、そうして自分の足元でのんきに言葉を並べ立てる何者かの緩い雰囲気。


 それらが彼女を混乱に陥れるのは簡単だった。


 ミノーラが呆然と足元を見つめていると、聞き覚えのある声が呼び掛けてくる。


「ミノーラ!?ミノーラ!!無事だったの!?どうやって……!?」


 ミノーラを見つけた様子のタシェルが縁にしがみついたまま呼び掛けてくる。


 初めの方はミノーラにしか注目していなかったのだろう。徐々に船に近づくミノーラを把握したタシェルとハイドは目に見えて驚きを表現している。


「ミノーラ?あぁ、君はミノーラっていうんだねぇ。おいらも名前ってやつ欲しいなぁ。なんて名前が良いかなぁ。難しいなぁ。人間はどうやって名前を決めるんだろう。」


 船のすぐ傍までたどり着いたミノーラは、しかし、船に乗り移れずにいた。動揺していたというのが最も正しいだろう。ただ足元の存在に目が釘付けになっている。


「ミ、ミノーラ。早くこっちに。」


「ん?なんで降りないの?早く降りてよぅ。流石に重いんだよぅ?どうしたのさ?」


 言葉を話している足元の存在とタシェルを見比べたミノーラは確信する。どうやら、タシェルとハイドには聞こえていないみたいだ。


 なぜミノーラにだけ声が聞こえるのか。それは初めて声を聞いた時から気づいていた。


 一つ、深呼吸をしたミノーラは、船に飛び移る前に足元に向かって声を掛ける。


「初めまして。私、ミノーラって言います。あなたは、亀さんで合ってますか?先程から返事をしなくてごめんなさい。ちょっと驚いてました。それと、あなたが人間と会話が出来ないのは、言葉が通じない訳じゃなくて、声が小さすぎるんですよ。私は耳が良いので聞き取れますけどね。」


「「え?」」


「え?」


 亀とタシェルとハイドが驚きで短く声を上げる。吹き荒れる嵐の中、零れ出たようなその声をはっきりと聞き取ることが出来なかったが、表情や様子を見れば一目瞭然だった。


 再び揺れる船に戻ったミノーラは、今度こそ姿勢を低くした体勢をとりながらも、船の縁から首を出して亀の様子を覗き込む。


 波間に浮かぶ亀は、満面の笑みを浮かべているようだった。

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