第70話 哀愁

 ミノーラが目を覚ますと、辺りは慌ただしい雰囲気だった。大勢の人間が行ったり来たりと走り回っており、その足音と振動で目が覚めたと言っても過言ではない。


 のそりと体を起こそうとするが、何やら左の前足に違和感を覚えた彼女は、自身の体を観察する。どうやら包帯を巻かれているようで、その締め付けが違和感の元である。


 どうにもなれない感覚に、包帯をはぎ取ろうと苦戦していると、タシェルがやって来た。


「あ!ちょっとミノーラ!せっかく固定してたのに、取れちゃってるじゃない!」


「タシェルさん。すみません、すごく気持ち悪くて……今どんな状況ですか?そういえば、誰かが助けに来てくれたような。」


「ミノーラを助けたのはマーカスさんですよ。犯人の内の一人は既に捕まってます。ウルハ族の男です。もう一人には逃げられたみたいで、マーカスさんはその男の捜索に行ってる感じです。」


 嫌がるミノーラを抑えつけ、包帯を巻き直しながら教えてくれる。その様子を見ながら、ミノーラはショックを受けていた。


「あれ?左の前足だけ毛が無いのは何でですか?」


「傷を縫うために剃っちゃった。ごめんね。」


「え!?そんなぁ!もう一生このままですか!?」


 かつてないほどの絶望を感じたミノーラだったが、タシェルの言葉に追い打ちをかけられる。


「ふふふ。すぐに生えてくるわよ。ちなみに、今はお尻も丸裸だから、気を付けてね。」


 そう言われて自身のお尻を確認したミノーラは、腰回りに巻かれている包帯を見て脱力した。


「うぅぅ。恥ずかしいです。街を歩いてみたかったのに……これじゃあどこにも行けないです。」


 力なく寝そべり、ぼそぼそと呟いているとタシェルが頭を撫でてきた。こそばゆさと心地よさが綯い交ぜになった感覚に浸りながら、あくびをする。


「大丈夫よ。すぐに生えて来るって。それじゃ、私は行くけど。もう包帯はとらないように!分かった?」


「取りません。絶対に取りません。」


 彼女のその言葉を聞いたタシェルがクスっと笑いながらどこかへと去って行くのを見送り、再び目を閉じる。


 もう一度眠ろうかと考えていた彼女だが、すぐに誰かが近付いて来たことに気が付く。今までに嗅いだことの無い匂いだ。目を開け、近付いてくるその男を見つめる。


 すると、その男も彼女の目をじーっと見つめ返してきた。全く視線を逸らすことなく、ひたすらに目を見つめてくるその男のプレッシャーに耐え切れず、思わず言葉を発する。


「あ、あの。なんですか?」


「ふむ。言葉を話すと言うのは本当のようだ。まるでお伽噺に出てくる生き物のようだな。興味深い。」


 彼女の質問に答えることなく、ブツブツと独り言をつぶやいている男は、呟きながらも視線を逸らすことは無かった。


「あの、その目を見てくるの止めてもらえないでしょうか。なんか、威圧されているように感じます。」


 視線を左右に逸らしながら告げると、先ほどまでとは打って変わり、明らかに男が動揺する。


「な、なにを言っている?私は威圧などしていない。」


「いえ、なんか怖いです。」


 率直に感想を述べたミノーラは、その言葉を聞いて狼狽えているその男の様子が何だかおかしく思えた。


「私はミノーラです。あなたは誰ですか?」


 何やらポケットから取り出した手帳のようなものをしきりに読み返している男に向かって、ミノーラは自己紹介する。一応聞こえていた様子の男は、手帳をポケットにしまうと、口を開いた。


「私はハリスだ。精霊協会の会長をしている。少しばかり君に興味があってね。少しで良いので、体を調べさせてもらえないか?」


「え?体を調べる……ですか?嫌です。なんか、嫌です。」


「変なことはしない。ただ、狼の体との違いが無いか確認したいだけだ。耳はどれくらい聞こえる?夜目は効くのか?」


「その辺にしておきなさい。ミノーラちゃん。身体の具合は大丈夫?」


 ハリスの質問に辟易し始めていたミノーラは、ドクターファーナスの声を聞き、ほっと安堵した。先程までとは打って変わり、別人のようにおとなしくなったハリスがドクターファーナスに軽く会釈をする。


「先生。お疲れ様です。もう治療は終わったのですか?」


「一応、できることは終わったわ。ちょっと休憩よ。うふふ。ミノーラちゃん、大変だったでしょう?」


「いえ、大丈夫です。でも、ありがとうございます。」


 地べたに横になったまま話していると、少しずつ首が痛くなってきたため、ゆっくりと体を起こしたミノーラは、二人の方を向いて座った。


 こうして見ると、ハリスは背が高い。カリオスよりも見上げるときの角度が違う。


「ミノーラちゃん。ごめんなさいね。せっかくの毛並みだったのに、剃っちゃって。すぐに生えてくるはずだから、もう少し我慢してちょうだい。」


「はい。ちょっと恥ずかしいですけど、大丈夫です。仕方がないですから。」


 そう言いつつも、若干寂しさを隠せないミノーラを見て、ハリスが告げる。


「恥ずかしい。という感情を抱くのだな。そういう部分が人間の部分という事なのか。というよりは、身体的な特徴は狼で、精神的な部分は人間と言ったところか。」


「あなたは昔から変わらないわねぇ。デリカシーに欠けることばっかり言って。不器用なのよねぇ。うふふ、そうよ、久しぶりにあなたの顔を見たら思い出したわ。ミノーラちゃん聞いて。ハリスったら、私にプロポーズしてきたことがあるのよ?」


「ちょ、な、先生!」


 ドクターファーナスの言葉に動揺した様子のハリス。そんな彼の姿を見て、ドクターファーナスは言葉を続ける。


「あの時の言葉は未だに忘れられないわぁ。私も嬉しかったのよ?でも、断ったの。だって、旦那がいたんだもの。ハリスったらそれを知らなかったなんて、驚いたわ。そうよ、貴方はあの時の気持ちを思い出すべきよ。まっすぐで、熱い気持ち。」


 ドクターファーナスの言葉を終始気まずそうに聞いていたハリスは、少し寂し気な表情を見せた後、こう告げた。


「……そうですね。そうできれば良いのですが。私にはそれだけの余裕が無いのです。」


 その言葉を皮切りに、沈黙を貫く二人の空気に耐えられなくなったミノーラは、声を掛けた。


「あの、落ち着いたらで良いんですけど、私、街を散歩してみたいです!」


「あら、良いわね。私たちが案内してあげましょう。ね、ハリス。」


「え、あ、はい。そうですね。」


 二人の表情が穏やかになったのを見たミノーラは、少しだけ心がざわついた。なぜだろう。涙が流せないことで感じたものとは、似たような、違う感覚。今のミノーラにはそれを説明する言葉が思い当たらなかった。

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