第50話 激昂
愉しんでくれ。
そう言い残して男たちが出ていく。
その様子を眺めることしかできずに、オルタはそっと目を閉じた。
出来ることならば、耳も塞ぎたい。目の前の現実を、何一つ認めたくない。しかし、今の彼は耳から聞こえてくる情報を遮断することはできなかった。
何やら男たちの話し声と、誰かの呻き声が聞こえてくる。
何も出来ない。大バカ者。男たちの言った言葉は、まさしく現状のオルタを現していると痛感する。
だとするならば、何かをしようなどと考えるのは、おこがましい事だ。彼らの言う通り。もう少しだけ生かしてもらえる時間を、有効に使おう。
言われるがまま、諭されるがまま、流される。それが、オルタと言う男の悪いところだった。
閉じた瞳は、何も映さない。閉じた心もまた、何も感じなくなっていた。
無になろう。自分は何も知らない。それなら、罪悪感も無くなるし、自己嫌悪も、少しは薄まるかもしれない。
そんなことを考えていた彼の耳に、か細い声が聞こえた。
「いやぁ……助けて……」
その声が、彼の心に響くことは無かった。
しかし、彼の胃の奥深く、沈んでしまった絶望が反応する。沸々と湧き立ち始めた絶望が、次第に別の何かに変化する。
それが何なのか、今の彼には分からなかった。実感したのは、それがまるで心の代わりを果たすかのように、腹の奥の血をグツグツと湧き立たせたことだ。
湧き立つ血液が、全身をめぐり、自然と心にも行き着く。そこで初めて、彼は怒りを覚えた。
なぜ、こんな目に合わなければならない?なぜ、彼女が、あのような声を出さなければならない?そうならざるを得ない理由はなんだ?あの男たちがこのようなことをしても良い理由はなんだ?
なぜ、男たちの言うことを聞かなければならない?
声が大きいからか?暴力を振るってくるからか?俺が圧倒的にバカだからか?彼女が弱いからか?弱い奴は必ず虐げられなければならないのか?
男たちの暴言も、彼女の悲鳴も、どちらも耳に入ったのだ。それなのに、なぜ有無を言わさずに男たちの言葉を、言うことを聞かなければならない?
選ぶのは、俺だろう?
選ぶまでも、無いだろう?
聞くべき声は、自分で選ぶものだろう?
オルタは、今までに経験したことのない力を、両腕に発揮する。手首に巻きつけられた鎖がギチギチと食い込んでくるのを感じるが、構うことなく手前に引き続けた。
煮えたぎった血液が体中を奔走しているのを感じる。握り締めた拳から血が滲み、喰いしばった口からは血が滴る。
甲高い金属音とともに、両腕の自由を取り戻す。
引っ張っていた反動で床に倒れてしまい、何とか立ち上がろうとするも、先ほど男たちに殴られていた影響で、少し頭がふらついた。
そんな状況で、彼は牢屋の壁を見る。
オルタと言う男は、根本的にバカである。
聞くべき声。聞こえた声。聞きたくなかった声。それが聞こえた方向。
石のブロックを積み上げた分厚い壁である。普通であれば、壊せるわけがない。
そんな壁を見つめながら、彼は自身の手のひらに唾を吐きかけ、髪を一撫でする。ウルハ族の唾液には体毛を硬化させる性質があるのだ。
そうして、準備が整った彼は分厚い壁に向かって全力の突進を行う。
右肩と頭に強い衝撃を感じたかと思うと、すぐさま壁が崩れ、腕や脚に鋭い痛みを感じた。恐らく、崩れた壁で擦傷を負ったのだろう。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
そのままの勢いを殺さぬように、加速を続け、もう一つの壁も突破する。再び、強烈な痛みを肩に感じるが、何とか立っていることはできた。
そうして、彼は目の前に呆然と立ち尽くしている男達へと目を向ける。しかし、何も考えることはなかった。
一番近場にいた男の頭をわしづかみにし、思い切り、壁へと打ち付ける。
打ち付けられた頭が鈍い音をさせたかと思うと、男は四肢を細かく痙攣させながら崩れ落ちた。そのまま、動きは見せない。
そんな様子を見た男たちは、途端に我に返ったようで、一目散に逃げだそうとする。と同時にオルタは、喉が張り裂けんばかりの雄たけびを上げた。
一瞬、男たちの動きにひるみが生じた。その隙を逃さない。
入口に一番近かった男を壁に向かって蹴り飛ばし、隣の男を床に打ち付ける。オルタは誰一人として逃がすつもりは無かった。
恐らく、襲われていた女性にとっても、オルタの存在は恐怖でしかないだろう。しかし、そんなことを考えている余裕はないし、思考もままならない。
気が付けば、男たちは全員意識を失った状態で倒れており、彼の目の前には、狼が一匹いた。
頭の処理が追い付かないオルタは、やみくもに威嚇を続けた。狼に向かって吠えかかり、殴ろうとするが、素早い動きで躱される。
若干焦りを感じ始めた時、文字通り目の前で強烈な光が炸裂した。
視界を奪われたオルタは、そこでようやく声を聞き取る。
「落ち着いてください!私は味方です!助けに来ました!」
その声が狼から発せられているとオルタが知ったのは、もう少し先の話である。
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