「意味という病」から「無意味という救い」へ

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1.はじめに

1.はじめに


「ただ何となく生み出されて何となく消費されて何となく消えていく意味のない音楽」が、最近あまりにも垂れ流されていると、誰かが言う。「現代人は喜怒哀楽の表現衝動が希薄だ」という声が、どこからか聞こえる。その言葉の通り、人間の感情こそがその弾力性を失い、芸術表現の根源たりえるもの(不自由や絶望・反体制精神といったもの)としての機能を十分に果たすことができなくなっているのかもしれない。

 しかし現代、それもいわゆる先進国に生きるぼくたちは、それほどまでに十分なほどの自由や幸福を手にしてしまっただろうか。自分を取り巻く他者に対して、確固とした純然たる「個」を獲得しただろうか。少なくともぼくは、そんなことは絶対にないと考える。人は自由になんかなっていない、ただ欲しいものをそれなりに買えるだけの金と社会機構を手に入れただけだと。


 満たされない気持ちというのが、いつも心のどこかにこびり付いて離れない。それだけ聞くと贅沢だと思われるかもしれないが、その不満足は単に金銭欲・物欲から生じるものではなく、原因も出所も分からない、正体不明の「空虚感」から発されるものだ。個人差はあれども、ぼくたちには多かれ少なかれ、この「空虚感」といったものが心のうちに存在する。それがいつから在るのかは分からない。何によって生じるものなのか見当もつかない。しかし、原因や正体を探ることはしない。ここでは、それが確かに「在る」という事実だけで十分だ。


 そのような「何かが欠落したような感覚」を、ぼくたちはただ物欲や性欲を処理することで満たす。友人や恋人との関わりや、何らかの集団への帰属意識でもって慰める。福田恆存の言葉を借りれば、存在論的な虚しさを、自らの生に役割を与え演じることによって解消する。それら一時の解放感を自由や個性とはき違えたままで。しかしこれは至って自然で人間的な行為であるとも、ぼくは思うのである。空腹を満たすのと同じように、空いてしまった穴は何かで塞がなければならない。ぼくたちはその「空虚感・欠落した感覚」に対しても、無意識にこれを行っている。ただ、その感覚がいったい何物であるか分からないため、満たされることがない。ゆえに、いつまでも何かを欲している。ただひたすら闇雲に、何かを探している。


 そのような「何かを欲すること」を徹底的に放棄し、その原因である「空虚感」に対して「あえて積極的に無自覚になること」を提案したのが、ゆらゆら帝国というバンドである。いささか前置きが長くなってしまったが、本稿ではこのゆらゆら帝国というバンドを取り扱う。

 本稿を読むにあたって、ゆらゆら帝国を聞いていることは全く必要とされないが、それでも必要最低限の知識があった方が理解の手助けとなるに違いない。というわけで、まずはゆらゆら帝国というバンドについて、なるべく簡潔に紹介する。

 ゆらゆら帝国は1989年に結成された、多摩美術大学出身の坂本慎太郎(Vo. & Gt.)、亀川千代(Ba.)、柴田一郎(Dr.)からなるサイケデリックロックバンドである。ゆらゆら帝国なんていう訳の分からないバンド名に、眉毛とアゴが無い坂本、腰まで伸びた黒髪姫カットの亀川、近所の危ないオジサンといった風貌の柴田の男三人組という、ヴィジュアル的に既に怪しいバンドだが、彼らの音楽も一般的なセンスから言えば「変な音楽」である。初期のゆらゆら帝国はいわゆるサイケという音楽ジャンルを売りに活動していた。サイケとは60年代後半にアメリカ西海岸で生まれた音楽ジャンルのことで、セックスやドラッグとロックが融合したジャンル、セックスやドラッグによって引き起こされる恍惚感や幻覚症状を音楽として落とし込んだものである。そんなサイケという特異な音楽ジャンルを日本で唯一といっていいくらいまともに表現し続けたのが、このゆらゆら帝国というバンドである。サイケとガレージを組み合わせたサウンドが魅力的な初期から、1998年に発表された4thアルバム『3×3×3』でメジャーデビュー。ポップスやエレクトロニック・ビートなどの様々な要素を取り入れながらも常に実験することはやめず、自分たちの音楽を洗練していき商業的にも成功した中期。そしてロックの形骸化を嘆き2000年代の日本をこれ以上ないほどに表現し続けるとともに、限界まで音を減らすという試みを見せた後期を経て、2007年に最高傑作とも言われる11th『空洞です』を発表。このアルバムを最後に、2010年3月、「完全に出来上がってしまった」という理由でバンドは解散した。

 以上がゆらゆら帝国というバンドのごくごく簡単な経歴であるが、ここである疑問が浮かび上がることだろう。それは、なぜゆらゆら帝国という90年代からゼロ年代に活躍したバンド、それも既に解散してしまったバンドについて語らねばならないのか、という至極当然な疑問である。確かに、時代性も異なれば既に過去のものとなってしまったバンドについて語るのは、批評の題材として適切であるとは言えないかもしれない。だが、繰り返しになるが、先に述べたぼくたちの抱え続ける「空虚感」というものに対して、ゆらゆら帝国はある救済の技法とも呼ぶべきひとつの姿勢を提案してくれる。そしてそれは、「空虚感」に対し積極的に無自覚になること・その「欠落した感覚」を何かで満たすという行為の徹底的な放棄だ。これらの姿勢、というか態度は、彼らの音楽の中心にある《空洞》という概念、その《空洞》を取り巻くあるひとつの、彼らがたどった物語において語られる。この物語の中で彼らは先に述べたような態度を獲得するのだが、その過程が、ぼくたちのたどり得る……いや、ぼくたちがたどってしかるべき過程であるということにも着目したい。彼らの最高傑作との呼び声も高いアルバムに『空洞です』とタイトル付けされているにもかかわらず、彼らの音楽の中心にある概念を《空洞》と名付けてしまうのは、かなり軽率で考えの浅いように思われてしまうかもしれない。しかし、そんな安直さも仕方がないと言えるほどに、ゆらゆら帝国の音楽を表現するためには、《空洞》という言葉が最適なのである。この理由は後に自然と明らかになってくるので安心してほしい。

 本稿では、ゆらゆら帝国の音楽にある《空洞》という中心概念に着目しつつ、それを取り巻く物語において彼らが提案する「空虚感に対する姿勢」というものがどのように語られるのか、また、それがどのようにしてぼくたちと関わってくるのかということを明らかにしていきたいと思うう。            

 それらを論じるにあたって、本稿では主に、ゆらゆら帝国の歌う「詩」を分析することで論を進めていきたいと思う。なぜなら、彼らの歌う《空洞》の物語は、もっぱら「詩」によって語られるからである。そのため、具体的な歌詞批評の文章になることをここで明言しておく。また、ここではゆらゆら帝国、とりわけ全曲の作詞を手掛ける坂本慎太郎の人物像や思想そのものについては一切言及しない。仮に触れることがあるとしても、それは坂本慎太郎本人ではなく、作家(作詞家)としての坂本慎太郎である。

(つづく)

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