菩薩下生(アドヴェント・ミロク)

 かつて、太陽系と呼ばれた場所。かつて、地球と呼ばれた星があった場所。今はただ、微かな星間物質が残るのみの場所。人類に食い荒らされ捨てられた地球は、膨張する太陽に飲まれて消えた。その太陽も、既に寿命を迎えて消え去った。そこに、一粒の小さな種が漂っていた。その種は、暗黒の宇宙をただゆっくりと泳いでいた。


 やにわに種の表面に亀裂が走り、裂け目から黄金の光が漏れ出る。次の瞬間、まばゆい光と共に種が弾け飛び、一輪の花が開いた。放射状に並んだ、薄桃色の可憐な花びら。慎ましくも美しい、蓮の花だ。

 その花の上に、一人の幼子が座していた。ゆったりとした布を巻きつけただけの格好の、均整のとれた美しい顔立ちの子だ。彼女はおもむろに立ち上がると、右手で上を、左手で下を指差しながら叫ぶ。

「天上天下唯我独尊!」

 真空の宇宙空間に、朗々たる声が響いた。


「はて、天上天下、と言ったものの……ここには天どころか、地も海もないではないか」

 彼女は闇に包まれた宇宙をぐるりと見回し、そうひとりごちる。辺りに満ちるのは、暗黒と静寂。無数の星の煌めきが見えるものの、それらは全て手の届かぬ遠く彼方の光だ。

「というか、空気すらないではないか。これでは呼吸もできん。もっと言えば、言葉を伝えることもできん」

 しかし、そう言いながらも彼女は平気な顔だ。

「まあ、呼吸ができないのならしなければよい。音で伝わらぬのなら、心魂で伝えればよい」

 尋常普通の生き物ならば存在できない過酷な宇宙空間。だが彼女はそしらぬ顔でそこに佇み、そして伝えるもののないはずの声を辺りに響かせた。

「なんにせよ、こうやって一人で遊んでいても何もならぬ。――さて、迷える衆生はどこにおるのかのう」

 彼女は再び蓮の花の上であぐらをかく。すると彼女を乗せた蓮は、音もなく宇宙の闇の中を進み始めた。


 彼女の、弥勒菩薩の銀河を超える伝道の旅が始まった。

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