第二話 何も視えない

 誰もいない事務所で、僕は先日船江が送ってきた書類のデータを眺めていた。船江は何故か、ここ数日事務所を休んでいる。本人曰く「休む。理由は聞くな」とのことなので、僕はその言葉通り普通に事務所を開けていた。手元の書類には、テンプレに沿って最近溝の口で起きている人外に関係ある建造物の連続放火事件についてまとめられている。


「今回の被害は結局ボヤ騒ぎで済んだんだ」


 マグに淹れたアイスコーヒーを一口含んでから僕は独り言ちる。どうせ誰にも聞かれていない。だんだん暑くなってきた外の気温に頭を悩ませながら、そろそろ事務所も冷房の時期かな、なんて考えた。


 すると、机の上に置いていた僕のスマートフォンが震えた。僕は書類を避けて金属の板に触れて、通話ボタンを押す。スピーカーにすれば、そこから明るい少女の声が聞こえだした。


「もしもし、明日香?」

「あ、もしもし西萩さんですか? お疲れ様です! 先日頼まれていた情報なんですけど、やっと手に入ったので口頭でお伝えしようと思いまして! お時間は?」

「ありがとう、大丈夫だよ。メモするからよろしく」

「はい! まず線路沿いにある居酒屋通りですが、やっぱり西萩さんの仰っていたように金銭トラブルで暴力事件が起きていました。この感じだと殺傷事件に進展すると思うので注意がいるかもしれません」

「殺傷事件、と……うん。それで?」

「次に、先日起きたひき逃げ事件について新しい情報が入ったのでお知らせしますね。警察は発表してませんが、破損した車体のカケラと一致する車両が絞れました。ナンバーと車の所有者の情報はあとでメールでお送りしますから、依頼人様に情報を提示する場合はその出所の秘匿をお願いしますね」

「うんうん、了解」

「それとこれは単なる風の噂なんですけど、希望の日の出の教祖であった山火宗真が亡くなったそうです。トップがいなくなった事によって、希望の日の出の起こす問題は収束に向かうでしょう」

「あ、本当に? そっか、それは良かった」


 常に持ち歩いている手帳に受け取った情報を書き込みながら、僕は相槌を打つ。重要だと思う部分に下線を引いた。


「……うん、これで何とかなりそう。いつも助かるよ明日香」

「こちらとしてもお得意様にはしっかりサービスしていきたいですからね! それに、西萩さんのところの新人バイト川越さんも気になりますし! これって新ジャンル開拓の予感ですか? 新しいカップリングが増えるとかそういう?」

「やっぱり明日香が何言ってるのか分かんないなぁ僕」


 早口にまくしたてる情報屋の熱のこもった声を聞きながら手帳を閉じる。すると、落ち着いた明日香がふと言った。


「そういえば、先日西萩さんにお会いした時、ずいぶん楽しそうでしたけど何かあったんですか?」

「え?」

「なんか上機嫌そうだったから良い事でもあったのかなぁと。珍しく平日に私服だったのでよく覚えてます」

「僕、ここ最近はずっと事務所で働いてるから私服で出歩いてないけど?」

「え? でも、確かにあれは西萩さんでしたよ?」


 話がかみ合わない。一体どういう事だろう。


「人違いじゃない? それっていつの話?」

「先週の金曜日の夜です」


 僕は閉じた手帳をもう一度開いて自分のスケジュールを思い出した。でも、どんなに考えてもその日は昼の外回り以外は事務所から出ていない。パソコンのメールの履歴を見てもそれは明らかだ。


「うーん……本当に私の見間違いだったのかな……」

「そうじゃない?」

「それは失礼しました!」

「いいよ。それじゃ明日振り込みするからよろしくね」

「はい! ありがとうございます! これからも御贔屓に!」


 その一言を合図に、通話が切れた。僕は汗をかいたグラスから、氷が溶けて薄まったコーヒーを飲んだ。さっきまで読んでいた書類に目を落とすが、どうしても明日香の言葉が頭から離れない。



「そういえば、先日西萩さんにお会いした時、ずいぶん楽しそうでしたけど何かあったんですか?」

「え? でも、確かにあれは西萩さんでしたよ?」



 一人だけ。たった一人だけだが、僕とよく似た人間に心当たりはある。でもそいつが溝の口にいるはずもないし、そんな可能性は考えたくない。だって、あんな奴が溝の口に来る理由が思いつかないのだ。僕は脳裏をよぎった毛嫌いするニヤニヤ顔を思考から追い出すように頭を振った。


「……まさか、ね」


 グラスに入った氷が崩れ、澄んだ音が聞こえた。


 夕方になって、そろそろ川越くんが来る頃かと思いながら時計を見る。いつもならこれくらいに彼の元気な挨拶が聞こえてくるのだが、と考えていると事務所の扉が開いた。


「川越くんおつか……あれ、船江じゃん。休みじゃなかったっけ?」


 入ってきたのは船江だった。今日はいつものスーツではなく、黒いポロシャツとジーンズといったラフな出で立ちだ。私服で事務所に来るなんて珍しいと思いながら声を掛けると、船江は妙に疲れた顔をして僕を見た。


「どうしたの? 明日香にでも会った?」

「いや、そうじゃない」

「ふーん。あ、僕が調べてた案件は片が付きそうだから明日にでもアポ取って話を……船江? 本当にどうしたの?」

「……西萩、話がある」

「う、うん?」


 神妙な顔つきで僕のデスクに近付いてくる。そのただならぬ空気を感じて、思わず僕の背筋も伸びた。船江が僕のデスクの前に立ち、それを僕が見上げる形になる。しばらく無言のまま向かい合って、船江が重い口を開いた。


「怪異が視えなくなった」

「は!?」

「音は聞こえるし気配も分かるが、目には何も視えない。眼球に異常はなかった。原因は不明だ」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 視えなくなるって、そんなことあるの?」

「物部にも聞きに行ったが、そんな前例は聞いたことが無いとさ。面白がって何度も人の目を突きまわしやがってあのババア……何が「ピヨピヨがこんな面白い目にあってるなんて」だ。死ね」

「えぇ……」


 船江はため息を吐いて僕から離れ、来客用のソファに座り込んだ。苛立っているのではなく、不安からの貧乏ゆすりがやけに耳に付く。


「仕事はできる?」

「一応な。これまでに比べたら効率は落ちるが」

「その……治る見込みは?」

「知るか。そんなのこっちが聞きたいくらいだ」


 そんな言葉が吐き捨てられ、事務所には重苦しい沈黙が落ちた。なんて言葉をかけようかと考えていると、船江が呟いた。


「……あくまで憶測でしかないが、俺はこの前うちに届いてたあの変な呪詛が怪しいと睨んでる」

「あの何も書いてなかった封筒?」

「記憶が正しければ、あれを見た日から視えなくなった。残してあるか?」

「捨てた」

「だろうな」


 元から期待していない、と呟きながらも船江の表情はやっぱりいつもより不機嫌だ。眉間のしわがそれを物語っている。その時、事務所の扉から音が聞こえた。だが、開かない。何度か騒音をまき散らした扉は、やがてゆっくりと外側に開いた。顔を出したのは川越くんだ。


「また間違えました……」

「事務所入るたびに毎回間違えるよね。そこ外開きだよ」

「うっかり押しちゃうんですよねこれ……」


 申し訳なさそうにしながら事務所に入り、扉を閉める。川越くんはすっかり日課になった流し周りの掃除をしに給湯室に行った。


「……まあ、この話は後日しよう。明日の仕事は僕が何とかするから、とりあえず船江は事務所にいて」

「分かった」

「あと僕も物部さんに詳しい話を聞きたいから一緒に行くよ」

「またあいつの所に行くのか……」


 面倒くさいと言わんばかりの大きな舌打ちに、僕はどうしたものか、と考えた。

 船江の目が怪異を映さなくなるなんて、想像したこともなかった。こんな事態は全く想定していなかったので、正直策が一切思いつかない。さっき言った通り、物部さんに会いに行って何かないか聞いてから動かなければ。というか、明日の仕事は視えない僕がどう対応したものか。


 一気に考えなければならないことが増えて、肩がずん、と重たくなる。とりあえず煙草でも吸ってこよう。一度頭を切り替えなければ。そう思って、僕は屋上に向かうべく席を立った。扉のノブに手を掛けようとした瞬間、その扉が勝手に外に開いた。


「……あは」


 そこに立っていた人物と真正面から目が合い、僕は思わず瞠目した。全身の毛が逆立つような嫌悪が身体中を駆け回る。目の前の青年はそんな僕の表情を見て満足したのか、僕とよく似た顔にむかつく笑みを浮かべて言った。


「久しぶり、昇汰くん」

「ゆ、かりくん……なんで、ここに」

「会いたくなっちゃって。元気そうで何よりだよ」


 僕が死ぬほど嫌っている人物――西萩縁にしはぎゆかりが、半袖のパーカーの紐を揺らして笑った。その人畜無害な笑顔は、僕の目にはあまりに邪悪に映った。

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