5話 赤き獣

 ダヌは、偉大なる常春の国ティル・ナ・ノーグにいる神の娘であり、自身も大地を司る女神である。

 彼女は好奇心から邪悪な妖精の言葉に騙され、神としての力も、美しさも奪われた。

 醜いただの赤き獣として、かつて女神だったダヌは常春の国ティル・ナ・ノーグから、ヒトの世界にある王都ピオニエーレの広場に落とされた。

 獣となったダヌが、自分がどこにいるのかもわからないまま呆気にとられて立ち尽くしていると、大きな音に驚いて集まってきた人間たちが自分を取り囲んでいることに気付く。

 世界の破壊と殺戮を好む魔王との戦争が激化している時代である。人々はこの獣を魔王の手先ではないかと、決めつけ恐れおののいた。


「なんだあの赤い化け物は……」


「見ろあのひしゃげた顎と鋭い牙を……きっと魔王の手先に違いない」


 人々に自分を指さされたダヌは戸惑う。美しいとしか言われたことがない自分を誹るなんて無礼な…と憤慨しながら後退りをすると、足下にある水場を見る。

 そして、彼女は水場に映った自分の姿を見て大きな悲鳴を上げてその場にかがみ込んだ。


 美しかった陶器のような肌はイボが出来て見る影もなく、自慢のすっと通った鼻筋も抉られたかのようになっている。

 美しかった葡萄酒色の波打つ髪の毛は、全身を覆っているゴワゴワした毛皮に成り果て、樽のように寸胴な体は集まり始めた兵士よりも遙かに大きい。

 かがみ込んで動かないダヌを鈍く光る鉄の鎧を身につけた兵士たちが取り囲む。

 背中に剣の切っ先を突きつけられた赤毛の獣はやっと、自分が敵意を向けられていることに気が付いて慌てて顔を上げた。

 目を剥き、口を大きく開いてダヌは叫ぼうとした。しかし、兵士の目には獣が攻撃のために口を開いたようにしか見えない。

 自分の身を守るために、兵士が彼女へ突きつけていた剣を振り上げた。


「待ってくれ」


 振り上げられた剣は、振り下ろされないまま赤い獣の頭上で静止する。

 このまま剣を振り下ろせば、目の前に急に入り込んできた少年の無防備な体を真っ二つにしてしまいそうだったからだ。

 剣を振り上げている兵士と、赤毛の獣との間に躊躇無く体を割り込ませてきたのは華奢な体躯の少年だった。

 見目麗しい乙女のような見た目の少年――ルリジオは、赤毛の獣を庇うように両手を広げ、剣を振り上げる兵士を見つめる。

 

「この赤い毛におおわれた生き物は、まだ悪いことをすると決まってはいない。どうか、みなさん落ち着いてください!」


 面食らったのは、赤き獣だけではない。兵士の方も目を見開いてルリジオの顔をまじまじと見つめ返す。


「な、何故そんなことを言えるんだ!その巨体についた鋭い爪、裂けた口からはみ出た大きな牙は人を傷つけるためのものだろう!」


「でも巨乳ですよ!?決めつけは良くない」


 兵士は至極当たり前のことを述べて少年を説得しようとしたが、彼はその言葉を真っすぐな瞳で力強く反対した。

 赤毛の獣を捉えるために剣を向けていた兵士だけではない。周りにいた兵士たちや民衆も少年ルリジオの鬼気迫る迫力の前に言葉を失って立ち尽くす。


「う、うむ……」


 兵士は少年の迫力ある言葉の前に、剣を下ろして赤毛の獣に目を向けた。

 確かに、少年の言うとおり、化け物は赤い毛に覆われていてわかりにくいものの胸には豊かな二つの膨らみが揺れていた。

 誰かが我に返り「そんなことじゃ説得力がないぞ」と言いそうになる。しかし、そんな隙をルリジオは与えなかった。

 彼は、腰に下げている剣を高々と掲げたのだ。


「私はピオニエーレ王に召喚された剣士の一人、南の森を越えたグランデヒルより馳せ参じたルリジオ・ヤークトフント」


 王都で行われる正式な誓いの儀式で行われる名乗りである。

 貴族や、騎士などが、決して違わぬ誓いを立てる刻に行う神聖なもので、破ることは名誉を失うだけでなく、神からの罰が下るという魔法の力を借りた契約の儀式でもある。

 自らに危険が伴い兼ねない神聖な儀式の形を踏襲した堂々とした名乗りを前にして、その場にいた全員が彼の一挙手一投足を固唾を飲んで見守る。


「王都第33小剣士隊訓練生、ルリジオ・ヤークトフントは、ここに在る赤き獣の身元引受人になりましょう。彼女がヒトに危害を加えることがあるのなら、王と王都を守護する大いなる女神に誓い、私が裁きを受けることを誓います」


 ピカッと空が光った気がした。その場にいた全員がそれを見て声を漏らす。

 聖なる儀式を目の前で行われるという経験は兵士たちにも民衆にもない経験だ。

 すっかり異様な空気に飲まれた彼らに、ルリジオはさらに言葉を続けた。


「見目が危険だからと言って彼女を虐げるようなことは、私の聖なる誓いに免じてやめてほしい」


 ルリジオは、この時点では目立った武勲もあげていない有象無象のひとりでしかなかった。

 しかし、そのあまりの堂々とした立ち振る舞いと、実際に赤い獣がなにもしていないことから、彼の誓いは受け入れられた。

 渋々ながらも、誓いを受け入れた兵士と、よくわからないがなにか感動をしたという民衆の熱気に満ちた拍手に見送られ、急遽出現した赤毛の獣はルリジオの部屋へと引き取られたのだった。


 しかし、王は流石に化物を訓練生に任せるという話を良しとはしなかった。

 街での騒動を話を耳にした王は、その日のうちにルリジオに対し、赤毛の獣と共に城へ来るようにと命令を下す。


 何が起きてもいいようにと集められた国の精鋭戦士数十人と、王が認めた選りすぐりの実力を持つ魔法使い数人が見守る中、ルリジオと赤毛の獣は玉座の前に連れてこられた。


「これは、古来常若の国ティル・ナ・ノーグの精霊王より賜った真実を写す鏡である……。邪悪なものならばこの鏡に身を移されれば聖なる光でその身を焼かれて苦しみ、そうでなければ、真実の姿がこの鏡の中に映し出されるであろう」


 ルリジオから引き離された赤毛の獣は、兵士に両手を持たれ、大きな鏡の前に立たされる。

 美しい妖精たちが彫られた黄金で縁取りをされたその鏡は、大人ほどの背丈が有り、二枚の扉で鏡面が隠されている。


「身を焼かれ苦しむだって?そんな……」


 ルリジオが静止する間もなく、王の話が終わると同時に、鈍く光る銀の鎧に身を包まれた兵士二人が動く。鏡面を隠していた二枚扉がゆっくりと開かれた。

 赤毛の獣は、鏡に自分の姿が映るなり顔を両手で覆って膝をつく。


「あ……あ、あ……これが……私の本当の姿よ……。私は女神ダヌ……呪いでこのような醜い姿に……」


 鏡には、若葡萄酒色の豊かな髪を垂らした美しい女が写っていたのだ。

 鏡の中の女が赤い獣の唸り声と同時に、小鳥のさえずりのような可憐な声で話し始める。

 赤い獣に駆け寄ったルリジオのことを誰も止めなかった。何故なら、鏡に写った化物の真の姿の美しさに見とれて立ち尽くしていたからだ。


「ルリジオ・ヤークトフント……そなたのお陰で私たちは名のある女神を討ち呪われずに済んだようだ……礼を言おう」


 大きな咳払いをした後、王は威厳のある声でそう告げる。

 玉座の前で膝をついて泣いている赤き獣の涙を拭ってやったルリジオは、王に深々と頭を下げた。


「そなたの望みをなんでも叶えるぞ?名誉でも、宝剣でも美しい妃でも出来ることならなんでも用意しよう」


 神の呪いとは、悪魔の呪いをも凌ぐ酷さと恐ろしさだということを王は知っていた。

 国中の宝を差し出してでも避けられるのなら避けるべきだということを教わっていた王は、まだ名のない剣士を国の危機を救った若者だと認めたのである。

 王は彼に考え得る中で最上級の褒美を取らせることにした。


「それでは……女神ダヌが元の姿に戻るまで、彼女の盾となり剣となるうちの一人としてお供させていただきたく……」


「なんと……。もちろんだ。そなたを女神ダヌ様を守護する戦士として任命しよう。だが……本当に地位も宝剣も必要ないと申すのか……?」


「私のような無名の剣士に宝も地位も恐れ多いものです。ただ、この方の傍らにいるだけで十分な褒美ですとも」


 王は、ルリジオの返答に心底驚いた。

 魔王を打倒し名を上げようとするものが多いにもかかわらず名誉も、地位も、財宝さえ望まない若者がいることに非常に感動を覚えて涙ぐむ。

 王はルリジオに騎士よりも気高く優れたものであるという意味の「勇者」の称号を与え、女神ダヌを守護する責任者の権限を付与した。

 

ダヌの力を取り戻すことに協力をし、どうにか国に加護の一つでも恵んでもらいたいと願った王は、早速国中の魔法使いや学者に「なんとしてでも女神ダヌのお力を取り戻す方法を探すのだ」と命を下す。

 しかし、その命が国中にいきわたる前に、ダヌが元の姿を取り戻したとの報せがルリジオから王に届いた。


「口付を交わしましたら……その……ダヌ様は力を取り戻しまして……」


 申し訳なさそうに頭をかきながら玉座へ馳せ参じたルリジオの傍らには、豊かな長い葡萄酒色の髪を揺らした美しい女が立っていた。

 それは、先日真実の姿を映す鏡に映っていた女性そのものだった。

 波打つ美しくも豊かな髪は、地面に付きそうなほど長く、豊満な体は陶器のように滑らかだ。


「醜い見た目になっても自らを愛しいと思ってもらう者からの口吻…。これが私に必要なものでした。ふふ……この者のお蔭で、この通り私は力を取り戻すことが出来ました」


 ツヤツヤと光る薔薇色の厚い唇から、聞いたそばから脳が耳から溶け出しそうなほど魅惑的な声が漏れ出すと、その場にいる全員が彼女へ劣情を含み熱い視線を注いでしまうほどだった。


「女神ダヌ様の力を取り戻してくれたことに礼を言う……が、一つ疑問がある。答えてくれるか?」


「はい。なんなりと」


 ルリジオは、王の顔を見つめてハキハキと答える。

 ルリジオの隣に立つ美しい女神の姿となったダヌに少し胸を高鳴らせながらも、王は威厳を保ちつつ、ずっと胸に抱いていた疑問を恐る恐る口にした。


「女神ダヌ様には失礼なことを言ってしまうが、先日までの彼女は醜く抉れた鼻、鋭い牙と爪、そして巨大な体を持っていた。あのように恐ろしい見た目のものと何故接吻をしようと思ったのだ?」


「だって巨乳ですよ!?」


 余りの迫真の表情に、思わずよろけた王様をしり目に、女神ダヌはルリジオを抱きしめて、形の良い唇の両端を持ち上げて妖艶な笑みを浮かべる。


「私を救ったヒトの子を私にくださるのなら、あなたの国に数百年続く豊穣の恵みを与えましょう……」


 願ってもない神からの祝福に対して、王はルリジオに了承を得ることも忘れて二つ返事で快諾する。

 ルリジオはというと、願ってもいないことだと言わんばかりにダヌの豊かな葡萄酒色の髪を手にとってそれに口吻をして、片膝立ちで傅いて見せた。

 女神ダヌは、ルリジオを抱きて彼に頬ずりをすると彼女の周りには色とりどりの花が咲き乱れ、花弁の舞い散る風が彼女を中心にして竜巻のように囲み始める。

 ダヌとルリジオはそのまま空中へと浮かび上がったかと思うと、玉座の天井間近で緑の淡い光に包まれて姿を消した。

 それから一年……ルリジオのことも民衆たちが忘れ始めた頃、竜の首を一振りで切り落とたという人智を超えた勇者ルリジオの噂が急に囁かれるようになったのだ。


※※※


「ねぇ……覚えてる?私への最初の愛の囁きを」


「もちろんだよママン……。全身を覆う葡萄酒色の毛並みも、それに覆われた豊かな胸も、仄かな温かさを感じるこの谷間もすべてが愛しい。この姿のままの君を愛してる……そう言った」


「この姿になって貴方はがっかりしたかしら?」


「そんなことないよ。女神と言われて美しいと讃えられる貴女も、葡萄酒色の毛並みに包まれていたころと変わらず愛してる。ママンの胸元で暮らせてとても幸せだよ……」


「可愛い可愛い私の子。愛してるわ……」


 ルリジオがいつのまにか微睡に身を任せ小さな寝息を立て始めると、彼女は彼をそっとその谷間の中にすべり込ませた。

 そして、ルリジオが窒息してしまわないように気を付けながら、ダヌは彼をそっと抱きしめるようにしてルリジオを体の中へと押し込めていく。

 こうすることで、巨体すぎるダヌのいる空間から、元の世界へとルリジオを送り返すのだ。

 目が覚めたとき、きっとルリジオは自分の部屋の柔らかな寝床の中で目を覚ますだろう。


 ダヌは、柔らかな光に包まれた空間で大きな白いシーツの敷かれたベッドによりかかると、小さな水晶を覗き込んだ。その水晶の中心にはぐっすりと眠っているルリジオの端正な寝顔が浮かび上がっていた。


「貴方が死ぬまでたくさんの愛の物語を見せて頂戴ね。きっとそれが世界を光に包むはずだから……」

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