第2話

時間帯もあってか、喫茶店に客の姿はほとんどなかった。悠々と窓際の席を確保し、ホットの抹茶ラテを口にする。

再びポケットのスマートフォンが振動する。

また久志だろうか ?スマートフォンを取り出す。

表示されている名前は「真美」だ。

「もしもし」

『……もしもし』

真美の声はどことなく暗かった。くぐもっているような気もする。

「どうしたの」と聞く前に、真美は早口で喋りだした。だが、いつもの明るさは鳴りを潜めたままだ。

明るい彼女に似つかわしくない。

『どうしてるのか気になっちゃって。明後日だよね、聖二が山形行っちゃうの』

「ああ」

聖二が入学する大学は山形県にある。明後日の今頃にはもう大学の寮にいるはずだ。

『急に寂しくなっちゃって』

真美の声が暗い理由が分かった。急に彼女のことが愛しくなり、応える声が甘くなる。

「おれも寂しいよ」

『ありがとう。でも、聖二は夢を叶えに行くんだよね。寂しいけど、我慢しなきゃ』

「大丈夫。たまには会いに行くから。約束するよ」

『約束といえば、覚えてる ?』

わずかながら、彼女の声が弾む。

『私たち二人の家を設計するって約束』

「もちろん、覚えているよ」

真美との約束。

高校二年生の夏。公園のベンチに腰掛け、指切りげんまんをした。

「夢を叶えて建築士になったら、最初に真美と二人だけの家を建てる」と。

あの時の真美の笑顔は、何ものにも代えがたいほど眩しかった。ふっくらとした白い頬にえくぼが刻まれ、薄い紅色の唇が美しかった。

「真美」

また彼女の笑顔が見たい。聖二は決意を込めて話しかける。

「大学で勉強して、真美との家を建ててみせるよ」

『待ってる。待ってるからね』

受話器の向こうから嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。

『でも、無理しないでよ。あんた、一度熱中すると寝食を忘れるタイプなんだから』

今度はからかうような声だ。すっかりいつもの真美に戻ったようだ。

「分かった。気を付ける」

真美も大学頑張れよ、と告げて電話を切った。

抹茶ラテを手にしたまま、自然と頬が緩む。

思えば真美とは恋人らしい会話をほとんどしてこなかった。菓子を取り合って喧嘩をしたり、漫画を一緒に読んだりと、そのやり取りは恋人のそれよりも親友に近かったのだ。

「『急に寂しくなっちゃって』か……」

思い出すとやはりにやついてしまう。今のやり取りをリフレインしながら久志を待った。

二十分が経過する。

久志はまだ来ない。電話もかかってこない。

いくらなんでも遅すぎる。苛立ちよりも不安が先行する。

聖二は久志に電話をかけた。

虚しくコールが響き、お決まりのメッセージが流れた。

『ただいま電話にでることができません。ピーッという発信音のあとにお名前とご用件をお話しください』

「久志、どうしたんだ ?これを聞いたら折り返し電話をくれ」

電話を切った後も、不安は収まらなかった。

たまたま見ていないだけならまだましだが、ここまでくると久志の身に起きたことを勘繰ってしまう。

車にでもはねられたのか、不良に捕まったのか、はたまた突然体調を崩して倒れたのか。

いてもたってもいられなくなり、聖二は会計を済ませて店を出た。

久志が乗るはずの電車は分かっている。

エレベーターを下り、駆け足でホームに向かう。駅構内にたむろしている四人の不良が目に入った。

下手に走って絡まれるのも嫌だが、ここはさっさと通過したいところだ。

駆け足のまま一本道を通り越そうとする。が、視界の片隅に何かが引っ掛かり、自然と足が止まった。

(あいつらが持ってるカバン……久志のじゃないか ?)

不良たちが弄んでいるカバン。擦りきれて塗装が剥がれかけている茶色のショルダーバッグに見覚えがあった。

アニメキャラの缶バッジがついているのを見て確信する。まさしく田中久志の物だと。

聖二は不良たちの会話に耳を澄ます。

「さっきのヤツ雑魚過ぎね ?」

金髪の男が笑いながら言う。

「『餞別が入ってるから止めてくれー !』だって。ウケる」

金髪の腕に抱かれた女が、大袈裟に両手を挙げた。金髪が爆笑する。

「しかもアイツ腕から血出てたよな ?どこにひっかけたのか知らんけどさ、ますますボコボコにしてごめんなさいって感じ」

茶髪のロン毛男が、謝意など微塵も感じられぬ仕草で手を合わせてみせた。

残りの一番大柄な男は、フードを目深に被っており顔は見えなかった。ロン毛の言葉に肩を震わせている。笑っているらしい。

「……おい」

気が付くと聖二は低い声で語りかけていた。

自分でもしまったと思ったが、後戻りするわけにはいかない。

「あ ?なんだよこのモヤシ。へし折るぞ」

金髪が恫喝してくる。一瞬怯みそうになるが、聖二も負けじと声を張り上げた。

「そのカバンは友人のだ。返してもらおうか」

「『ぼくちゃんの友達のカバン返してくだちゃい』」

ロン毛がおちょぼ口になり、オーバーに泣きそうな顔をつくる。不良たちは下品に手を叩き、大爆笑した。頭にひしひしと血が上るのを自覚しながらも、聖二は努めて冷静に語りかける。

「もう警察には連絡してある。カバンを返して逃げないと捕まるだろうな。こうしてガッツリおれに見られているんだから。それともおれを殺すか ?お前らにそんな勇気があるかは甚だ疑問だが」

冷静さが功を奏したのか、不良たちの動揺を誘うのに成功したようだ。連中の目が一気に酷しくなる。

更に、ちょうどいいタイミングで駅員がやって来た。こちらの異変を察したらしく早足で近付いてくる。

「逃げようぜ」

不良たちがカバンを放り出し、走り出した。

「ちょっと、待ちなさい君達」

駅員が呼びかける。金髪がちらりと振り返り、一番大柄な男に足をひっかける。警察が来るまでの囮にするらしい。

不良たちの絆の弱さに呆れたが、久志のカバンは返してもらえた。

駅員に丁重に礼を述べ、その場から去ってもらう。

問題はもうひとつあるのだ。

もたついている大柄の前に立ち塞がるのは容易いことだった。大柄は驚いたように足を止める。やはり動きはとろいらしい。

「久志はどこにいる ?さっきボコボコにしたって言ってたよな」

大柄は再び尻餅をつく。そのまま後退りながら、「ひぃ」と掠れるような声をあげた。

そのあまりの情けなさにいささか拍子抜けしたものの、聖二は拳を握りしめ、低い声を保つ。

「教えろ」

「す、すみません。教えます、教えます ! だから許してください !」

大柄が体勢を変えたと思うと、へこへこと頭を地面に擦り付け、土下座を始めた。

すっかり毒気を抜かれてしまった聖二は、拳を緩め、声のキーを戻す。呆けたようなしゃべり方になっていることだろう。

「……久志のいるところに案内しろと言っただけだ」

「そ、そうですね ! すみません !」

大柄は立ち上がった。そのはずみで、被っていたフードがずり落ちる。

聖二ははっと息を呑んだ。

大柄の顔で、一匹の蛇がとぐろを巻いていた。

黒い蛇はうねり、首を伸ばし、深紅の舌を細く泳がせている。

鱗に艶はなく、蛇に生気は感じられない。

しかし、濡れた土を想起させる黒く小さな眼からは妙な生々しさが感ぜられた。

不気味なタトゥーだった。

顔にそんなものを彫れば、社会で生きにくくなること請け合いである。

一体どう生きていくつもりなのかと余計な懸念が聖二の頭をよぎった。

「みんなが、友達の証にってこれをプレゼントしてくれたんですよ」

へらへらと笑い、大柄が頭をかく。どう考えても薄気味悪いタトゥーには似つかわしくない表情で、ミスマッチ具合がことさらに不気味だった。

みんなというのは、逃げていった不良たちのことだろうか ?

大柄が足をひっかけられていたのを思い出す。彼の仲間内でのポジションが漠然と察せられ、いたたまれない気持ちになった。

「早く案内してくれないか」

話が脱線する前に、聖二はもう一度促した。

大柄は立ち上がり、走り出した。

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