第17話 フィーノおかげ
テオとライールから聞きかじった対策を元に、エルニカは様々な準備をした。そもそも汚染というものは本来強力な魔術の反動として起こるもので、強すぎる魔力に曝された際に起こる。しかし、妖精郷の空気それ自体はそれほど強い魔力を持っていないし、魔術師が大魔術や儀式魔術で行う程に強力な魔力に満ちた場所というのはそう多くないらしい。
最も危険なのは迷い込んで長期間妖精郷に留まることだと言う。
弱い魔力でも曝され続ければ汚染されるし、怪我をするとそこから汚染されやすくなる。また、妖精郷のものを口にすると汚染に繋がるという。そこで、妖精郷で安全を確保するには、食料を十分に備える事、小さな怪我も予防できるような服装・装備を整える事、出入り口の場所を辿れるようにするか、自力で出口を発見できるようにしておく事が重要である。
エルニカは、保存が利いて軽い干し肉や干しぶどうなどの乾物と、皮で出来た水入れを用意した。水は少なくとも一日二日は凌げる量を確保している。なるべく衣服の露出している部分を減らすように、足首や手首などには布を巻き付ける。妖精郷の出口に関しては、ライールからその特徴や見つけ方を聞いておいた。こちらの世界で見られる
準備を整えたエルニカは、ロンドン市内の
しかし、調査した妖精郷はほとんど
これは彼に限った話ではなく、他の魔術師にしても同じようだった。報奨金目当ての魔術師は少なくないが、新参の探索者も、古参の妖精派も、未だになんらの手がかりも掴めていない。
エルニカは、逆に彼らを出し抜く好機だと、自分を励ましながら調査を続けた。
そのうち、エルニカはあることに気付いた。妖精郷では必ず出入り口付近を改めるようにしていたのだが、妖精郷側から見た出入り口――
この世側から見た
一方、妖精郷側から見た
そしてどうも、エルニカの目には、それが自然発生したようには見えないのである。
(どれも同じだ、八面体の面に研磨痕がある)
エルニカは妖精派と言うより工芸派である。植物由来の素材や、鉱物由来の素材も色々と目にしてきた。そして、様々な工芸派魔術師の技を盗み取ってきた。だから分かるのだ、自然に幾何的な形になる植物や鉱物と、人が加工して出来た幾何的な形の違いが。
例えばそこらの石を正八面体にしようとしたら、『割り』と『研磨』の行程が入る。その石の性質にもよるが、石にも木目のような『石目』があって、それが都合よく正八面体になるとは限らない。そうなると研磨が必要で、熟練の職人の手によるものでない限り、研磨の痕が残る。
キノコなどは分かりやすく、何か型にでも詰めたのか、全体としては正八面体にはなっているが、よく見ると元の形がひしゃげている。植物や菌糸類が幾何学的な形になる場合、生存するために最適な形になっているのだから、基本的に過不足なくその形になるはずである。
つまりこれらの
妖精郷とこの世の間に穴を開ける、正八面体の物体を、エルニカはよく知っている。
(
八属即ち、地水火風命魂像魔。五式即ち、創知変破操。
この世の全てを構成する八つの属性を、五つの方法で支配する魔術の形式。
それがどういう原理で世界に風穴を開けるのか、エルニカには分からなかったが――。
(数字は符合する)
考えたくはないが、状況が犯人を示しているように思えてならない。コルネリアか、アウローラ。二人のどちらかが意図的にこの事象を引き起こしているのではないか?
エルニカの心に疑念が生まれた。そしてそれを振り払いたいという気持ちも生まれた。
エルニカは、師と姉弟子にかかった疑いを――特に自分の中に生まれた疑いを晴らすために、躍起になって調査を続けた。妖精郷の発生が人為的なものならば、出入りする魔術師に調査の的を絞ることが出来た。犯人を特定すれば、師と姉弟子の疑いを晴らすことが出来る。
かつては酒場や大市で聞き耳を立てて、
魔術師達が調査に出向こうとしている場所は、『既にこちら側と繋がってしまった妖精郷』である。エルニカは、出来れば誰かが出入り口を作っている現場を押さえたいと思っている。となれば、彼らの調査予定に入っている場所は調べても仕方がない。魔術師達が踏み込んでいない場所、或いは未だ発見すらされていない場所を見つけなければならない。
エルニカは、ロンドン市内の地図を広げ、既にどこかの魔術師が調査予定に入れている場所に印を付けた。これで、新しく出現した
そしてエルニカは再び、こちらの世界の
調査を始めた当初に比べ、明確な目的を持った調査であるから、エルニカ本人のやる気もずいぶんと違った。
◆◆◆
いつの間にか秋が過ぎ去り、冬の気配が近づいていた。郊外の木々は落葉し、枝ぶりが露わになっている。セントポールの大市でも冬着が売りに出されるようになり、毛織物がよく売れる時期が来た。あの中には真珠の家で作られた製品も混じっているかもしれないと思いながら、エルニカは人々の間を通り過ぎる。もう数ヶ月、真珠の家に帰っていないことに気付き、彼は足を早めた。間もなく何らかの成果を得られると、彼はそう思っていた。
なぜなら、毎年ほぼ必ず妖精郷が出現するという、万聖節がやってくる。
空が雲に覆われ、気温も下がり、防寒しなければ外を歩けない、凍えるようなある日。まだ早朝の薄暗いうちから、エルニカは市内を探索していた。深夜や早朝なら人目に付きにくい。犯人が動くのもその時間帯だろうとあたりを付け、最近ではめっきり夜型の生活になっている。
「おい、そこの兄ちゃん」
チープサイドの路地裏を抜けて大通りを歩いていると、不意に後ろから声をかけられ、エルニカは驚いて体を震わせた。まだ市場を開く準備すらされない時間のはず――
振り向くと、そこには真珠の家のフィーがいた。
「やっぱり、エルニカじゃねぇか。テメェ、どこをほっつき歩いてやがったんだ!」
「いやまぁ待ってくれ、ひとまず僕に拳を向けるのをやめてくれないかな?」
突然食ってかかってきたフィーと距離を取るため、エルニカはじりじりと後ずさる。
「俺は別にテメェがいなくなろうが知ったこっちゃねぇが、婆様も姉様も餓鬼どもも人がいいからな、大層心配してたぜ。連絡くらいよこしやがれ馬鹿野郎!」
「ああうんそれは僕が悪かった、謝るからどうか拳を納めて下さいお願いします」
フィーが拳を下ろす。エルニカがほっとして警戒を解くと、その瞬間に殴られた。
「まぁ今日の所はそれで勘弁しといてやる。俺の記念すべき一日にケチつけたかねぇからな。思い切り殴ってこっちが怪我でもした日にゃシャレにならねぇ」
随分な言いようだなと思いつつ、エルニカは叩かれた部分をさすった。
「フィー、何でまた
フィーは不適な笑みを浮かべ、エルニカの肩をバンバン叩いた。
「へへ、ついにフィー姐さんの料理の腕が認められてよ、お取り立てになったって訳よ!」
「まさか――前に言ってた――宮廷料理人かい?」
「あのな、世の中には順序ってモンがあんだよ。こんな小娘がいきなり宮廷料理人になれるわきゃねぇだろ。ある子爵家の厨房に徒弟奉公出来ることになったんだよ」
エルニカは素直に驚いた。宮廷とまでは行かずとも、貴族に仕える奉公人となれば、
「何だよ、口半開きになってんぞ。オラ、祝いの言葉の一つも言いやがれ」
「フィー、君って奴は大したもんだ。本当に包丁一本でここまで来たんだね」
フィーは顔をしかめてエルニカの額に手を当てた。
「テメェ熱でもあんのか? 自分から言っといてなんだがよ、テメェから素直に誉められると逆に気持ちが悪いぜ」
「ああうん、口の悪さの方も大したもんだね」
「そうそう、それで良い……って良い訳ねぇだろ馬鹿野郎」
エルニカの頭が再び叩かれる。
「何なんだ君は、本当に理不尽だな!」
「へへ。この顔を見る機会が減ると思うと、相手がテメェでも絡みたくなるのさ」
「何だいそれ……いやまぁ君がここにいる理由は分かったけれど、その子爵様ってのはえらく早起きなんだね。こんな時間に呼び出すなんて」
「いやそれがよ、緊張してちょいと早く来ちまったのよ」
可愛いところもあるのだな思い、エルニカはさらに訪ねた。
「何時の約束なんだい?」
「料理の腕を確かめてぇってんで、昼時よりなんぼか前」
「早いよ! 早すぎだよ! まだ朝飯前だよ!」
「だってよ、お貴族様だぜ? 万が一にも失礼があっちゃいけねぇだろうが。朝一に真珠の家を出ようと思ったけどよ、迷ったりしたらと思って夜中に発ったって訳よ」
「だからって君、あと七時間以上はあるじゃないか……寝不足でヘマしないようにね」
「このフィー姐さんがその程度で手元を狂わせるとでも思ってんのか。大体テメェこそ何してんだ? そんなこ汚いナリで夜明け前から路地裏うろついてるなんざ、どう見ても不審者だぜ」
それを言ったらフィーの風貌もどうみてもやくざ者だったが、それを言うとまた殴られかねないので、エルニカはそれについて触れるのを控えた。
「一口では説明できないけど、大きなチャンスがやってきたから、鋭意魔術の研究中、ってところかな」
「宮廷魔術師にでもなれるのかい」
「場合によってはそうなるだろうし、それを狙っているよ」
冷やかしのつもりの質問に対して予想外の答えだったのか、フィーは一瞬きょとんとした顔になった。すぐに破顔して、またもやエルニカの背を叩いた。
「まぁそう言うことならお互い頑張ろうや! ところでやっぱ暇だからよ、時間までテメェについて行くけど文句ねぇよな」
「大ありだ! 僕がやってるのは外道魔導の研究なんだ。素人が手を出すと怪我じゃあすまない」
「見くびるなよ、俺だって修羅場の十や二十はくぐってんだ。テメェに出来て俺に出来ねぇ事ァねぇだろ。大体テメェだって魔法の学校入って一年足らずじゃねぇか」
その点に関しては、エルニカには全く否定できなかった。とは言え、専門家の手助けが得られない状態での単独調査は、それだけで神経を使う。そこに世俗の人間を連れて行っては確実に足手まといになる。場合によってはエルニカ自身の身も危なくなるだろう……と、そこまで考えて、エルニカは自嘲した。コルネリアやテオ、ライールにとってのエルニカこそ、今のフィーと同じようなものだったのだ。どう考えても連れて行きたくはなかったろう。
いずれにしろ汚染の危険性がある以上、フィーを連れて行くわけには行かない。しかし、フィーに妖精郷や汚染の事をどう伝えたものか、うまい言葉が出てこずに、エルニカは逡巡した。
「フィー、本当に危ないんだ。アウローラが頻繁に姿を消す理由を知っているかい? あれは魔法の世界に踏み込んだ結果、治療法が見つかっていない病気にかかって療養しているからなんだ。婆さんも治せない。僕についてくると、もしかしたらそんな病気にかかるかもしれない」
フィーは一瞬深刻な顔付きになり、少し考え、そしてニヤリとした笑みを浮かべた。
「ははぁ」意地悪そうにフィーの口元が引きつる。「テメェさては、その研究とやらは婆様に黙ってやってんだろ。そんで、それがバレると婆様に大目玉を食らうってとこか? だからこの数ヶ月、真珠の家に戻ってこなかったんだ。違うかよ?」
図星を付かれたエルニカは、しかし至って冷静だった。
「どの道危険なことには変わりない。君を連れていくわけには行かないよ」
「いや、そうと分かったらもう着いて行くなんて事ぁ言わねぇよ」
「分かってくれたかい。じゃあここでさよならだ。徒弟奉公頑張って」
エルニカはほっと胸をなで下ろした。そして次の瞬間には耳を疑った。
「ああ、奉公は気張らせてもらう。だが決めた、俺はテメェを止めて真珠の家に送り帰す」
「何言ってるんだ君は、今日は大事な日だろ? 僕に構わず、そっちをしっかりやれよ」
「テメェをふん縛って荷駄を雇って婆様の所へ届けて貰うのに、そう手間はかからねぇ」
エルニカは慌てた。女とは言え、フィーの腕っ節ならば有り得る話だ。そして彼女の目つきは本気である。ナイフを使って脅せば逃げられるだろうが、彼女がこの先ロンドンに留まるならば、一時的に逃げてもいずれまた出くわしたときに同じ事になるのが目に見えている。何とか思いとどまってもらうのが最善の方法だが、彼女が放つ雰囲気が説得は難しいと思わせた。
「君、さっきはお互い頑張ろうって言ってたじゃないか」
「テメェの話を聞くまではな。だがそりゃただの博打だぜ。婆様の許しを得てねぇって事は、テメェにその研究とやらはまだ荷が勝つって事だ。しかも不治の病だぁ? どうせそうなったら婆様の世話になって手間かけさせるのは決まりきってんだ、ならここで止めさせてもらう」
エルニカは後ずさりして、作り笑いを浮かべた。隙あらば逃げ出そうと、全身を緊張させる。
「君ってばそんなに僕のことを心配してくれてたんだね……」
「馬鹿野郎、俺は別に心配してねぇ。テメェに何かあれば、婆様や餓鬼どもが泣くんでな」
フィーも、エルニカが逃げ出そうとした気配を察知したのか、じりじりと歩を進める。
「いや、大丈夫、僕は専門家から手ほどきを受けているんだ。心配ないよ」
エルニカは視界の端で辺りを観察し、逃げ道の算段をつけはじめる。路地には人気はない。建物の窓から窓に渡されたロープに、取り込み忘れた洗濯物だけが微風に揺られている。
「いいや、修行が一年足らずのひよっこに、危ねぇ橋を渡らせるとあっちゃあ、師匠がいないのはおかしいぜ。ははあ、さてはテメェ、学校の師匠にも許しを貰ってねぇな?」
フィーの勘の良さを呪いながら、エルニカはもう少し言葉を選ぶべきだったと後悔した。詐欺でならしたエルニカにしては、正直に話しすぎた。彼の中で、いつの間にかフィーを警戒する対象から外していたのかも知れない。
エルニカは
「師匠は先に行ってるんだ。早く行かないとどやされる。それに魔術ってのは、魔術師以外には見せちゃいけないんだ。君に見られると僕の立場が危うい。その方が余程婆さんに迷惑がかかると思うよ」
エルニカは半分嘘を混ぜた真実を語る。嘘を信じ込ませるときの常套手段。
「なぁに、それが本当だとしたら、
一方、フィーの言葉はほぼ真実だった。実際彼女がやろうとしているのは拉致である。
「いずれにしろ婆様の所に引っ立てりゃ、婆様がテメェにとって一番良い道を示してくれるだろうぜ。その研究とやらが本当にテメェのためになるんなら許しが出るはずだ」
「随分と信頼しているんだね。裏街道出身の君が、そこまで人を信じて良いのかい? 自分で自分の道を決めるのが僕たちの流儀じゃないか?」
「裏街道は、選んだんじゃなくてそこしか歩けなかっただけだろうが。そいつは自分で選んだ事になんのかよ。婆様は俺の命を救って、堅気の道を示してくれた。俺はそいつを自分で天秤にかけて、婆様を信じる方に賭けたんだよ」
「僕だって自分の天秤にかけたさ。人のやり方に口を出してほしくは……」
唐突に、エルニカは目を見開き、口を大きく開けて驚きの表情を作った。
「治安官だ!」
フィーの後ろを指さし、叫ぶ。ハッタリである。裏稼業者なら、嫌でも反応してしまう言葉だが、タイミングがタイミングだけに、フィーにはバレている。むしろ一層、エルニカから視線を外すまいと凝視してくる。
「下手な嘘だな。そんな事で俺が気を逸らすと思ったか?」
「いいや。でも別の意味で思った通りになった。僕は勝てない勝負はしない主義でさ」
突然、フィーの頭の上に白い布が覆い被さる。流石の彼女も慌てて、布の下で激しくもがく。
エルニカは、
エルニカは踵《きびす》を返して逃げ出した。たとえこの先ロンドンでフィーと鉢合わせになることがあろうとも、ひとまず今逃げ切らなければ、本当に拉致されかねないと考えた。
ちらちら後ろを確認しながら走る。まだ見える範囲に追ってきてはいない。地の利は、街道で辻強盗をやっていたフィーよりも、
路地裏の隅に妖精の円環を見つけたエルニカは、これ幸いと妖精郷に飛び込んだ。
(これで一安心だ、ここまでは追ってこないだろう……)
切れ切れの呼吸を整え、エルニカは周囲を見回す。
そこは美しい妖精郷だった。辺りは暗く、夜のようである。その夜闇に、緑色の光が薄ぼんやりと灯り、それが周囲を照らしている。どうやら周りは林か森のようで、光は木々や草花の内側から発している。木々には更に蔦状の植物が巻き付いており、それら光る植物の根本には、同様に発光する苔が、まるで
空を見上げると、低い木々の切れ間から星々の瞬きすらない真の暗黒の広がりが見えた。空には幾筋か緑の光が立ち上っており、ゆっくりと揺らめく炎か、煙のようである。
咄嗟に入ってしまったので、ロンドンでの妖精の円環の位置が分からない。エルニカは頭陀袋の中から地図を取り出し、逃げてきた道を確かめた。エルニカが飛び込んだと思われる場所の周辺には、印はついていない。つまり、ここはエルニカの知る限り、まだ誰の調査も入っていない妖精郷、と言うことになる。
出入り口を確認して、エルニカの身体は緊張した。こちら側の妖精の円環は、発光する苔で出来ていた。菱形が鎖のように繋がり輪を描いている。明らかにこれまで夢想郷で見てきたものとは異なる形。しかも苔を観察すると、人の手が入った形跡はなく、ごつごつした板状の岩にしっかりと根を下ろしている。これは天然のものだとエルニカは確信した。
「フィーのおかげ……と言うべきなのかな」
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