第15話 王室からの報奨金

「エルニカ、何か良いことでもあったのかね?」


 講義の最中、テオに指摘されるまで、エルニカは自分が笑みを浮かべていることに気付かなかった。慌てて、何でもない風に無表情を作ろうとするが、どうもうまく行かない。


「そんな風に見えますか?」

「あぁ、そんな顔をしている君を見るのは初めてだな。嬉しそうだ」


 エルニカは、コルネリアに奥義を見せてもらってからというもの、自分が一人前の魔術師になったような気がしていた。もちろんコルネリアに遠く及ばないのは分かっているが、彼女は魔術師の中でも規格外の『ヴァルプルギスの魔女』である。ならば、そこに及び至らないのは当然といえるし、規格外の存在に認められたのだから、少なくとも魔術師の端くれくらいにはなったのではないかと考えていた。だが、何故かそれをテオにそのまま言う気にはなれなかった。代わりに、尤もらしい説明をする。


「最近、工芸派の技術も大分身についてきましたし、そろそろ僕も一人前の魔術師に近づいてきたかなと思って。そのせいでしょうね」


 全く嘘というわけではない。真実味のある嘘をつくには、ほんの少し本当のことを混ぜて言うか、事実の一部を隠して伝えるのが効果的だと、エルニカは経験上知っている。


「なるほど。すまない、妖精派としても君の自信に繋がるくらい色々教えられればいいのだが」

「すみません、そういう意味で言ったんじゃないんです」


 エルニカは慌てて首を振った。


「いやいや、少なくとも私は君に何か利益になるようなことを教えられているとは思っていない。君のためになるような魔術師を紹介する程度のことしかできないでいる」


「それがどれほど僕の助けになっている事か」


 事実、ヘルメス院に来てからの、エルニカにとって身になる教えをしてくれた魔術師達は、そのほとんどがテオの紹介である。


「そうかね。私としては歯がゆいのだが」

「では今度、妖精郷について教えて下さい。汚染を防ぐ心構えとか、出入りの方法とか」

「そうか、確かにここ最近、妖精郷が頻出しているからね。迷い込んだ時の備えをしておきたいのは理解できる。よろしい、では次回からは妖精派の実用的な知識や技術を教えていこう」

「ありがとうございます」

「時にエルニカ、君にとって――と言うか、真珠の家にとって耳寄りな話があるのだが」

「何です?」

「学院への出資者から、魔術工芸品アルティファクトゥムの製作依頼が来ている。私が懇意にしている貴族でね。信用できる魔術師なら誰を紹介してもいいが……真珠の家で受注してくれないかね」


 それはエルニカにとって願ってもない話だった。貴族との繋がりが出来るのは、大きな足がかりになる。しかしどういう訳か、彼はあれだけ切望していた成り上がりよりも、真珠の家に貢献できる事の方が重要だと感じていた。真珠の家の収入が増えれば、エルニカの賃金も増えるし、何より彼は今、コルネリアに恩を返したいという気持ちが日に日に増している。仕事が増えて暮らし向きが楽になるのであれば、コルネリアも喜ぶだろう。


「ありがとうございます、僕たちで引き受けます。それで、何を作れば良いんですか?」

「先方は魔術師の業界のことをよくご存知だ。当然、妖精郷の頻出も承知している。先方が求めているのは、妖精除けの護符アミュレットだ。妖精郷頻出のせいで、世俗に迷い込む妖精も徐々に増えてきている。彼等は世俗の倫理観では計れない存在だ。ブラウニーのように、気まぐれで人を助けるような者もいるが、生来好奇心旺盛で享楽的、非常にいたずら好きであるし、好戦的な妖精もいる。そういった危機から一族郎党を守りたいと言うので、それなりの数になる」

「なるほど……予算はどのくらいですか? 僕はまだ商売の方は任せてもらっていないので、見積もりなんかはできませんが、婆さんに伝えておきますよ」

「言い値で買うそうだ。とにかく質の高いもの、効果のあるものを、という要望でね」


 エルニカは耳を疑った。言い値で商品を売買するなど、庶民の世界ではあり得ないことだ。買い手はどれだけ値切る事ができるか、売り手はどれだけふっかけることができるかが商売だというのが、エルニカの常識だった。


「貴族というのは豪胆ですね……」

「魔術や錬金術に耽溺する貴族というのは、身代を食い潰してまでもそういった世界に触れたいと思うようでね。本当にのめり込んでしまうと外交派に入門してしまう方もいるくらいだ」


 金も権力も地位もあるのに、わざわざ裏街道に足を踏み入れてしまう感覚はエルニカはよく分からなかった。しかし、賭博場にお忍びで出入りする貴族をカモにイカサマをしたこともある彼は、なる程どこの裏家業にもそういったカモがいるのだと思った。


「でもテオ、それなら自分で引き受ければ良いんじゃないですか? こんなうまい話わざわざ僕に振って、逃してしまう手はないでしょう」

「私に魔術工芸品アルティファクトゥムの制作の才があったら、そもそも汚染を食い止めるのにコルネリアに助力は求めなかったろう。だからこそ君にコルネリアの奥義についての情報を貰おうなどと言う、不躾な頼み事をしてしまったわけだがね」


 テオは自嘲気味に笑った。

 この話をコルネリアに伝えると、老婆はかなり驚いた。そして少し難しい顔をした。


「そいつはありがたい話だけどねぇ、妖精除けとなるとアタシの専門からすこぅし外れるね。妖精派の面々に助力を請わなけりゃあならないだろうさ。アンタちょいとテオに、責任取って面倒見てくれるように言ってくれないかい」


 こうしてテオは、エルニカを通して定期的に真珠の家と連絡を取り合うようになった。テオが妖精除けに効果的な魔術的図案を提供し、コルネリアはそれに相応しい材料や染料について見本を提供する。エルニカは、成る程テオはコルネリアの奥義の一端にでも触れようとこの話を持ちかけ、自分をダシに使ったのだと理解した。本人同士がやりとりする分には、何かあっても自分に累は及ばないだろうと、寧ろこの件について安心しさえした。



***



 護符の図案や材料の選定が済み、真珠の家が実作業に取りかかる準備ができた頃、エルニカはゾーリンゲン工房で十人前の作業を同時にこなせるようになっていた。


「俺はコルネリアがうらやましいぜ」


 昼食中、ヘルバルトはパンを食いちぎりながらぼやいた。


「何ですか親方マイスター、藪から棒に」

「俺もお前さんみたいな直弟子がいりゃあ、研究もよほど楽になるんだろうってな」

「僕がお世話になってる間に、お弟子さん半分は入れ替わっちゃいましたもんね」

「最近の若ぇモンは根性がねぇぜ、全く……」


 ヘルバルト工房は高度な魔術工芸品アルティファクトゥムを研究しているが、労働は過酷で、音を上げて他の工房に流れる者が多かった。その技の深淵に触れるどころか、鍛鉄の技すらろくに身に付かない内に逃げるので、ヘルバルトの性格的には『あんな奴らこっちから願い下げ』なのだそうだが。


「ところでその優秀な弟子ぁよ、妖精除け作りの仕事を取ってきたそうじゃねぇか」

「よく知ってますね……誰から聞いたんですか」


 ヘルバルトは眉をひそめた。


隠秘学派オカルトゥスが噂してんだよ。コルネリアは護符で儲けるために妖精郷を出現させてるってな」

「そんな! あれは僕がテオに誘われただけで、婆さんは何も――」

「分かってらぁ。だがな、お前さん気をつけろよ、奴ら何かってぇとコルネリアを悪者にする材料集めてやがるからな。よかれと思ってした事が仇になることだってあるんだぜ」


 エルニカは心中複雑な気分だった。自分のツテで真珠の家の経営が楽になると思ったのに、裏目に出たと言う落胆と、それらの噂を流している連中への怒りがない交ぜになっていた。


「ま、この間デカいネタが来たからな、それで連中の目先も暫くコルネリアから逸れるだろ」

「デカいネタ……?」

「何だ知らねぇのかい。何とな、ヘルメス院に女王から直々に妖精郷事件解決の依頼が来たのよ。功績のあった者には報奨金、場合によっちゃあ爵位もくれるってんだぜ」


 ヘルバルトの話によれば、この所の妖精郷の頻出の影響か、ロンドンの町中に妖精が出現して悪戯をしたり、町の一部が異界に侵食されたりと、妖精郷がらみの事件が世俗に影響を与えることが増えているという。特に異界の侵食が厄介で、ロンドンの一部が長期間異界化し、汚染される人間や、人間界の空気に汚染され狂乱した妖精が現れるようになったのだそうだ。

 流石に世俗にこれほどの影響が出てしまうと、王室としても何か手を打たねばならない。そこでヘルメス院に依頼が舞い込んだわけである。そのような状況ならば、なるほど貴族が金に糸目をつけずに護符を求めるのも頷ける、とエルニカは納得した。


「しかし……爵位って」

騎士位ナイト男爵位バロンやらの下級爵位だろうし、隠秘学派オカルトゥス伝承学派トラディティオはそんなもんにゃ関心はねぇだろうが、研究資金に困ってる工房は掃いて捨てるほどある。飛びつく輩は多いんじゃねぇか」


 エルニカは逆に、報奨金より爵位の方に関心があった。最近では、以前ほど強烈に求めてはいないが、彼が魔道へ足を踏み入れたのは、それを求めていたからに他ならない。

 地位、権力、金。この世の何もかも……と、彼が思っているもの。


親方マイスター、その話、もう少し詳しく教えてくれませんか」


 工芸の腕前は上達してきたとは言え、エルニカはまだまだ魔術師の端くれでしかない。自分が妖精郷事件そのものを解決できるとは思ってはいないが、解決に何らかの形で貢献できれば、少なくとも爵位を与えられる魔術師とは関係を持てるし、そこから王宮へのコネもできるだろう。そう考えると、しばらくなりを潜めていた欲求が、俄かに頭をもたげ始めた。


(これはチャンスだ)


 エルニカの心は色めき立った。



***



「よしときな。あんたは妖精郷に踏み込むにゃあ、まだ早いよ」


 真珠の家に戻ってきたエルニカは、コルネリアの妖精郷調査に同行したいと申し出たが、あっさりと断られた。


「たった一度きり、それも巻き込まれて入ったことがあるだけじゃあないかね。妖精に関わるのは難しい。汚染を避けてとなると、更に難しいよ」


 それを聞いてエルニカはむっとした。婆さんは奥義を授けてくれるほど、僕を買ってくれていたんじゃないのか、と。


「僕だってダテに妖精派に厄介になっているわけじゃない。これでも妖精郷については随分詳しくなったつもりさ。それに、婆さんに同行するなら良いだろう? 何事にも初めての事はあるじゃないか」


 コルネリアはやれやれとかぶりを振った。


「妖精郷の恐ろしさは、身をもって実感していると思ったがねぇ。いいかい、その妖精派から見ても異常事態だから、皆こぞって調査しているんだよ。あたしだってあんたを守りきれるか分からない」


 コルネリアはどうあってもエルニカを連れて行く気はないようだった。そこまで拒否されると、彼は逆に意地になりはじめた。


「分かったよ、婆さんが連れて行ってくれないというなら他を当たるさ」

「ちょいとお待ち、エルニカ!」


 エルニカは、コルネリアがどんな表情をしているか、確認しなかった。すれば決意が鈍ると思った。コルネリアのおかげで、彼の心は柔らかくなりすぎている。きっと彼は、コルネリアのあの目でじっと見つめられて説得されれば折れてしまう。

 だが、それでいいのか、と、心の奥でドロドロとした黒い何かが叫んでいた。どうしようもないゴミ溜めで生きてきたエルニカの、ヘドロのような鬱屈した感情。コルネリアや子ども達、妖精派の気のいい面々と数ヶ月付き合ったくらいでは決して消えない、焼け付くような渇望。それらが、自分の持ち得ない全てをこの手に、とざわめく。そもそも、そのために自分は魔術の世界、日陰者の中でも更に暗い闇へ踏み込んだのではないか。

 エルニカはコルネリアの方を見ないように努力して、真珠の家を飛び出し、夜の森の中をロンドンへ向けて駆けていった。



***



 ロンドンに戻ると、エルニカは早速テオの工房を訪ね、妖精郷調査の件を相談した。流石に一人で調査するのは無謀だと分かっていた。だが、テオにも難色を示された。


「コルネリアにも止められているのだろう、エルニカ? 良いかね、彼女は君を汚染させたくないのだよ。それだけ君が大事なのだ」


「でも、婆さんの魔術工芸品アルティファクトゥムで汚染を軽減できるんでしょう?」

「進行を遅らせているだけだ。止めることは出来ない」


 テオは深刻そうな顔をして、床に目線を落とした。


「妖精郷に関しては、解明されていない事が多すぎる。分かっているのは、妖精郷は無数に在るという事と、それぞれ独特の世界法則を持っていて、汚染の症状も異界によって異なると言うことだ。未知の妖精郷汚染には、我々は成す術がない。妖精郷の迷い仔ワンダラーズは、幸運にも汚染の進行が遅かったと言うだけで、そうでない者は汚染によって、とっくに命を落としている」


 確かに、アルセイシアで見た鳥男は瀕死の状態だった。汚染の程度がひどければ、ああなってしまうのは理解できる。しかし、エルニカには腑に落ちない事もあった。


「妖精郷の調査をしている婆さん自身はどうなんですか?」

「彼女は、もうとっくに汚染されている」


 返ってきたテオの言葉は、衝撃的なものだった。

 エルニカには、どういうことなのかよく分からない。


「待って下さい、婆さんはもう三百年も生きている魔女なんでしょう? だとしたら、汚染されても長生きできるって事じゃないですか」


 テオはどう伝えたらいいか、言葉を選んでいるようだった。


「君は他の魔女を見たことがないから分からないだろうが、魔女の秘奥に、不老の霊薬アムリタと言うものがある。ほとんどの魔女は、その霊薬で若さを保っている。私の知る限り、最古参の魔女であり、ゆうに千年は生きている『新緑の魔女』の外見は、ほとんど少女と言っていい」

「つまり――どう言うことです?」

「魔女の不老の霊薬を使っても進行する、老化の呪い。止まっているものを加速させるのだ、常人であればすぐに老衰で死ぬだろうな。私も数十年来のつき合いだが、昔の彼女はもっと若かったよ。今の彼女は、常人より早く老化しているように見える」


 コルネリアが自分の老い先が短いと言っていたのは、本当だったのだ。


「でも、他の派閥の魔術師も調査に入ってるんですよね。それはどうなんですか?」

隠秘学派オカルトゥスは、そもそも自分達の研究によってこの世界の真理に到達できれば、自分の体が多少汚染されようがかまわないという者も多い」


 つまり、汚染自体には対策はしていないという事だ。

 汚染は確かに恐ろしい。テオの話を聞いて、エルニカは一層そう思う。彼は少しだけ迷った。そして、だけどよく考えろ、と損得勘定を始めた。彼はゴミ溜めから這い上がるために魔術師になった。隠秘学派オカルトゥスのように魔術を追求したいわけではない。最近ではやりがいさえ感じているものの、染織やその他の工芸ですら手段に過ぎない。全ては王宮とコネを作り、金と地位と権力を手に入れるためだったはずである。この機会を逃した後、また王宮に近づく手立てが舞い込んでくるとは限らない。

 そして決断した。決断までの時間は早かった。


「それでも、テオ、僕は妖精郷の調査がしたいんです」


 テオを説得するのは、コルネリアを説得するより、まだ目があると思った。


「僕も妖精郷に迷い込んでひどい目に遭いました。その恐ろしさは分かっているつもりです。でも、妖精郷の頻発をこのまま放っておいたら、いずれ同じ目に遭うんじゃないですか? それなら自分から解決策を探しに行った方がまだ建設的です」


 テオは黙ってエルニカの話を聞いた。その言葉をじっくり検討しているようだった。


「それに、そろそろ僕も妖精派の方々に恩を返さなければ。妖精郷の調査に同行すれば、汚染を治療する手がかりだって一緒に見つけられるかもしれない。そうでしょう?」


 エルニカはかなり熱を込めて演技した。心にもない事を言っているというわけでもない。彼は本当に、妖精派の面々にそれなりの恩義を感じていた。そういう感性が身についていた。

 テオは長い間黙考していた。あごに手を当て、床を見つめ、工房の中をうろうろと歩き回っている。あまりに長くそうしていたので、もう一押し何か言った方が良いか、とエルニカが口を開いたとき、テオはようやく顔を上げた。


「分かった。妖精郷での安全措置策について、伝えられることは伝えよう。だがあくまで、君が調査する前提ではない。妖精郷の出現に巻き込まれた場合に備えてだ。やはり君が妖精郷に深入りするのはまだ早い。私が君を調査に同伴させることはない」


 エルニカはそれでも良いと思った。妖精郷で生存するための手段さえ分かれば、後は他の魔術師に当たってみればいい。エドガーは無理だとしても、まだライールがいる。


「ありがとうございます、テオ。それで僕には十分です」

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