水鏡の澱(原稿用紙95枚)

Umehara

水鏡の澱

 少しずつ大きくなっていた救急車の音は、宮前通りの入り口で止まり、そこからは音を立てずに入ってきてデニーズの前で止まった。柚木に付き添って岸さんが乗った。岸さんが乗るのが順当だろうという雰囲気があった。柚木と岸さんが参加しない同窓会は居心地が悪いだろうと思ったが、柚木とってはその方が良いのかもしれないと思った。集まるのは柚木の父親の葬儀以来だからもう二年ぶりになる。一人一人とは会っていたが、誰と何回会っているのか、何を話したのかあまり覚えていない。葬儀の後だと思っている出来事も、もしかするともっと前のことかもしれない。いきものがかりのポスターの貼られたCD屋から出てきた客が目の前の救急車に目を瞬くのが見える。電車の発車のベルがいきものがかりの曲になったのを、耳の悪い父が音が高くて耳に響いてつらい、と話すのを聞いて家を出たのが二時過ぎ、バーベキューではゆっくり話せないだろうからと、女子ばかり八人が同窓会の前に集まっていた。トイレから戻ってきた柚木が隣に座って荒い息をして弱々しい声で、吐いちゃった、と言った。顔が白くなっていた。膝枕をして寝かせた。太ももに乗った頭の重さと体温を意識しながら、柚木の顔をのぞき込んだ。震える体から汗が吹き出していた。熱中症?という言葉が飛び交い、岸さんが店員に話して救急車を呼んだ。

 千晴の七歳になる娘が目を見開いて、担架を持って入ってきた救急隊員を見つめていた。道行く人が、立ち止まりはせず、けれど目でなにごとかと見ているのがわかった。救急車、数年前に乗ったときは図書館の下で夜だった、最終のバスはもう出ていたはずだけれどバスターミナルはまだ人がいて、担架に乗ってエレベーターを下りながら、周囲の人間の気配と視線を意識していたことを思い出していた。救急車はなかなか出発しなかった。

 空いた柚木の席に千晴が娘を連れて移った。外は炎天下だったが、千晴の体からあのにおいはしない。中学生の千晴の周りにあったにおいについて口にしたことも誰かが話すのを聞いたこともなかった。図書館の地下に漂う浮浪者のにおいとも違うそれの正体に、家を出てはじめての冬、まだ着られるだろうと置いておいたニットのセーターをかぶった時に気がついた。制服のブレザー下に見えていた、しわの寄ったブラウスを思い出した。隣に座った千晴は髪を栗色に染めていて、淡い色のワンピースの上に、薄いカーディガンを羽織っていた。

 いつまでも出発しない救急車を見つめることに飽きた栞奈ちゃんが折り紙を折るのを、みんなで褒めた。できた赤いハートを差し出されて受け取るとサイレンが鳴り始めた。一瞬みんなでそちらを見送って、熱中症じゃないよね、意識しっかりしてたから大丈夫だと思うけど、貧血じゃないかな、と口々に心配を口にして、熱中症だったら命を落とすこともなくはないのかと今更のように気がついた。

「ねえ、ちゃんと見てて」と栞奈ちゃんが言うのでその手元で出来上がっていく花のような形を褒める。一ノ瀬さんがわざとらしさのない明るい声ですごいねえ何の花?と聞くのに機嫌をよくしているので相手を一ノ瀬さんに任せて、もう一つのテーブルに近づく。

 鈴木さんが幹事の連絡先を知っているというので、二人減る、一人戻るかもしれないと送ってもらった。席に戻ろうと立ち上ると、どこか悪かったの?と鈴木さんがこちらを見上げる。貧血だと思う、と答えながら、柚木と岸さんが参加しないのは痛いが、それでも千晴がいるし、新田も来るから大丈夫だろうという算段をしていた。

 柚木の頼んだミニパルフェは半分ほど残っていた。

 デニーズに入るなり、また痩せた?と聞かれて増えたと答えた。顔を合わせると体型の話になるのはそれしか話せることがないからだと思った。柚木は痩せたように見えたが、心配で口にする言葉で喜ばれるのも癪だと思い、食べてる?と尋ねた。

「カロリーはとってる」と答える柚木にもっと食えと苦笑する。やだ、と柚木は笑う。電話で何度も聞いたように、もっと痩せたい、と口にする。「胸も、お腹も、ぺたんこになって、板みたいになりたい」

 料理はしないと言っていた。四人家族の家事のすべてを、仕事をしている母親がやっていると話した。今なにやってるの、と聞かなかったのは、柚木に対する気遣いではなく、その答えに自分が苛立ってしまうと思ったからだった。昼夜、自室でパソコンに向き合い、風呂場での体重計の目盛り一つが自分自身の評価だというように母の作る食べ物のカロリーを計算する柚木の姿が見えるようだった。

 柚木の父親の葬儀から、二年が経っていた。あの頃はまだ働けていたはずだった。

 千晴と岸さんは通夜で会ったときと何も変わっていないように見えた。変わっていたのは千晴の娘が大きくなっていたことで、もちろん通夜に連れてきてはいなかったから、栞奈ちゃんと会うのは六年ぶりになる。通夜の席で来年は小学生だと話していた栞奈ちゃんはもう二年生になっていた。

 新田は通夜には来なかった。子供が熱を出したとかそんな理由だったように思う。

 死んだ柚木の父親は、まだ五十前で、癌だった。実家に寄って喪服を着て岸さんの母親の運転する車で向かった。柚木の家は、中学の頃一度だけ遊びに行った小学校裏の一軒家ではなく、隣の市の団地に移っていて、団地の中の集会場が葬儀場になっていた。柚木の二人の弟を見るのはこれが初めてだった。高校の制服を着た長男と、まだ小学生の次男。長男は、写真の中の父親によく似ていた。

 こんな席であれだけど、と言いながら、お清めの席で千晴の結婚を祝った。

「お前ほんと幸せになれよ」と、柚木と千晴と同じ高校に通っていた二宮が言った。「男教えろぶん殴ってやるって言ったんだけどね」と二宮は笑う。栞奈ちゃんの父親が誰なのか、誰も聞かされていなかった。心当たりぐらいはあるのか本当に知らないのか、二宮も柚木もわからないと言った。

 大学の入試が終わった頃、駅前のベローチェにいつもの面子が集まった。千晴の膝に抱かれた女の子を見て、あ、と思ったが、浮かんだ言葉を飲み込んで、妹?と聞いた。中退した頃に弟が生まれたという話を聞いていた。

「娘です」千晴が笑う。

「妹連れてくるわけないじゃん」と柚木が笑った。

 そりゃそうだけど、と言いながら、千晴と娘を見比べる。「いきなり聞けないじゃん」子供は、静かに緊張している様子で千晴の膝に座っていた。「まあ、こんだけ似てればねえ」と岸さんが千晴を見る。隣に座る新田が同意するように頷くのを見て、自分だけが知らなかったのだと、そのとき気づいた。

 席に着き、コーヒーにミルクを入れながらおそるおそる尋ねた「父親は?」という問いに千晴は笑って「内緒」と言い、「私も二宮も知らないんだよ」と柚木が言った。じゃあシングル、と言うと千晴は子供の頃から変わらない笑顔のような地顔で頷いた。

 はじめまして、と声をかけた。栞奈ちゃんは、上目遣いにこちらを見るとすぐに視線を外して、母親の胸に顔を埋めようと身体をくねらせた。「かんな、挨拶は?」千晴が、小さな背中に手を回して言う。子供はいやいやをするように首をふり、あうァ、と声を上げる。嫌われたねえ、と柚木が笑った。

 その頃から面影はあったが、六年ぶりに見た栞奈ちゃんはますます千晴に似ていた。二手に分かれて席につくなり「母親似でよかったよね」と、頭に浮かんで口にするのをやめた言葉を岸さんの口から聞かされた。

 二宮は来ていなかった。メールは送ったが返信がなかったと千晴が言った。

 同窓会の知らせを送ってきたのは新田だった。携帯に表示された新田の名前を見ると小田急線を思い出した。新宿駅のホームで、折り返しの電車が来るのを待ちながら、結婚したことを知らせる新田のメールを見ていた。そのメールと、伯母の死を伝えるメールのどちらが先に来たものだったか、どうしても思い出せなかった。結婚して浅野になりましたというメールを読んで、おめでとう、と送ろうとした。おめでとう、の後に、新田がこんなに早く結婚するとは思っていなかったなんで大学辞めたの、というような文を続けて打ち込み、全文消して携帯を閉じた。折り返し電車が入ってくるのを見ていた。目の前にある車止めと電車との間隔が少しずつ狭くなっていき、僅かな隙間を残して電車が止まったところで、もうその隙間には入れない、という考えが浮かんで、それと意識せずに飛び込むことを想像していたことに気づいた。列の先頭に立っていた。降車ホームの扉に続いて、目の前の扉が開いたので、決まった作業を行うように足を持ち上げて電車に乗り込み、一番近くの座席に腰を下ろして、鞄にしまった携帯をまた取り出し、メールの受信箱を開いた。新田の名前がある。メールを開こうとした。開けなかった。開けないというイメージを行動でなぞっているだけのように思えた。ショックを受けているように振る舞っているだけではないのかと考える自分がいた。吐きそうだと思ったが本当に吐き気があるわけではなかった。

 その芝居じみた感情は、叔母のときとはあまりにも対照的だった。メールを送ってきたのは母だった。おばさんが死にました、という簡潔なショートメールで、それを開いた新宿駅のホームで、こみ上げてきた笑いをこらえるために思わず口元を押さえたのは、芝居じみた感情の入り込む余地のない、全く自発的な動きだった。腹から立ち上ってくる笑いを必死で飲み下して、改めてメールを見直してから、母が祖父母の兄妹もおじさんおばさんと呼ぶ人だったことを思い出し、「どのおばさん?」と送った。他の「おばさん」であれば必ずその言葉を添えるだろうからおそらく父の妹にあたる叔母だろうと思ったが、おばさん、という言葉だけで真っ先に叔母だと考えた自分を、薄情だと思った。返事はなかなか来なかった。駅から駐輪場まで歩いている途中に、携帯が震えた。「紀子おばさん、自殺です」という文を見て、ああやっぱり、と思っていた。最初のメールに死因は書いていなかったのに、やっぱり、と思ったのは、叔母がそういう人だったからではなくて、その半年前に自分が死に損なっていたからだった。

 その出来事とほぼ同時期の新田のメールにショックを受けていたというのが、薄情を通り越して滑稽に思えた。母に「どのおばさん?」と送るのは造作なかったのに、新田におめでとうを送ることは結局その週末になるまでできなかった。電車が出発するまで、ミクシィを開いていた。柚木と岸さんがマイミクにいるから、反応がないだろうかと二人のページに飛んだ。何もなかった。なんかすごいメール来た、と書き込んで、携帯を閉じた。誰かと話したかった。新田ではなく、柚木か岸さん。メールにあったのは入籍の日にちと苗字だけで、相手の名前も書いていなかった。何か詳しいことを知っているなら教えて欲しかった。

 新田からのメールはその後も何度かあった。中学の仲間で集まろうという連絡、同窓会の連絡はだいたい新田からだった。それらを見るたび、小田急線のホームで車止めと電車の隙間を見つめていた瞬間と、こみ上げてくる笑いをこらえるために口を押さえたことの両方を思い出した。小田急線を利用しなくなってからもそれは変わらなかった。

 新田から最後に連絡があったのは、メールではなく年賀状だった。出産や引っ越しなどの報告がある年にだけ送られてくる新田の年賀状には、今年は苗字が変わったことと二人目が生まれたことが書いてあった。苗字が変わった、ということの意味がわからなかった。書いてあることをそのまま受け取るのなら、離婚して再婚したと考えるのが自然なのに、そんなはずはない、という意識がはっきりとあった。メールには、幹事の名前と同窓会の日時が書いてあるだけで、再婚や二人目の子供のことは書かれていなかった。

 柚木から、二人が行くなら行く、という連絡があって、こちらも柚木と岸さんが行くなら行く、と答えた。年賀状のことを尋ねると、別れて再婚したんでしょ、と当然のように返された。

 会って話を聞きたいと思いながら、会っても何も聞けないだろうという予感があった。


 一ノ瀬さんとドリンクバーに行っていた栞奈ちゃんが、コーラにしては色の薄いグラスを、オリジナルと言って千晴の前に差し出すのを、なに混ぜたの、と苦笑しながら千晴が受け取る。「当ててみて」と栞奈ちゃんが笑う。変なのは入れてなかったから、と一ノ瀬さんが笑いながら言うのを加勢と受け取ったのか、「ほら、飲んで!」と声を強める。

「栞奈、ちゃんと全部飲みなさいよ」と言いながら、一口飲んでやる千晴を見て、思わず母親だねえ、と呟いた。あ、意外と美味しい、と言う千晴の言葉に、栞奈ちゃんが「でしょお?」と得意そうに言うのがおかしくて、一ノ瀬さんと笑った。

 中学の卒業式以来の再会だった一ノ瀬さんは、帝国ホテルで働いていた。こちらがバイトで教材を作っていると話すと、一ノ瀬さんは「勉強できたもんねえ」と懐かしそうな顔をして言う。とっさに中学まではね、という言葉が出た。「大学行ってないしフリーターだし」と言うのに、「それでもすごいよ相州だし」と嫌味のない口調で返されて、そっちは大変なお客さんとかいないの?と尋ねた。一ノ瀬さんは、そんなにいないけど言葉通じないとつらい、と笑う。

「英語通じないアジアのお客さん多いから、何語覚えればいいのかもわかんない」

 花を折り終えた栞奈ちゃんが、「アジア語は?」と言うのに、大人たちは笑い出した。栞奈ちゃんも笑った。

 相州、という言葉をもう何年も聞いていなかった。三流大学を中退した身には落ちこぼれた証拠にしかならないその高校名は、東京に出てしまえば何の意味も持たなかった。一ノ瀬さんの言葉には、もちろんお世辞があっただろうが、地元に残るなら大学名よりも高校名、相模野出の早稲田と相州出の明治なら、明治の方が評価されるという程度には、ここは田舎で僻地だった。高校に入るなりついていけなくなる程度の自分が勉強ができたと言うなら、柚木だってそうだった。この辺りの高校のレベルは相州、相模野と続いて、東、西、南、北の順だから、柚木が南を受けるのに、担任も不可解そうな顔をした。

「坂上るのが嫌だから」と柚木は言った。相州は丘の頂上、東はそこからさらに先、西は丹沢山麓の麓、相模野は相模川の向こうの海老名市にあった。

 高校に入ったばかりのころ、薬剤師になりたいと口にしていた柚木は短大に進んで、それから地元の小さな企業の事務職に就いた。父親の癌がわかったのは就活が始まる前で、それがなければどこかに編入していたのかもしれなかった。

 就職活動中の柚木と、よく会った。大学を辞めてバイトを辞めて、家でひたすら腐っていた自分は、高校の同級生との連絡を断って、柚木とばかりつるんでいた。

「働きたくないよお」と柚木は言った。大学行きたいけど奨学金はプレッシャーだからやだと言うのを、煙草を咥えて聞きながら、ふと気になって「なんで相州来なかったの」と聞いた。

「坂が嫌だとか言ってたけど、親になんか言われなかった?」

 柚木は、少し考え込むような顔をして、言われたけど、と言う。柚木の成績がよいことは、母親なら知っていただろうし、三者面談でも何か言われたはずだった。相州だと受験勉強しなきゃじゃん、と笑って言いながら、それにさ、と少し声のトーンを落とした。「落ちないでねって言われたし」

 柚木の顔を見た。落ちないでね。柚木は、塾には行かなかった。相州は安全圏だったと思うが、余裕というほどの順位でもなかった。

 柚木と親しくしていた同級生の顔を思い浮かべる。仲の良い同級生のうち、成績のいいものは相州か私立、東に行ったのは新田一人で、あとは南か商業だった。友達と一緒でないと部活にも入らない柚木が、親しい友人のいないほどほどの高校よりも、友人のいる南を受けることは十分にあり得た。親の言葉に対するあてつけもあったのかもしれない。

「実際、落ちても私立行くお金ないし」と言って、柚木は自嘲するように笑った。

 柚木が併願校を一つも受けなかったことは覚えている。公立の合格発表の日も、柚木は全然喜んでなかったと、一人泣き出しそうな勢いで喜んでいたという千晴が話していた。

 併願校を受けるとき、受験料を父親に無心するとき、嫌な顔をされたのを思い出す。柚木の父親は嫌な顔こそしなかっただろうが、歴然とある貧しさに、柚木が不満を感じていたことに気づいたのは、高校を出た後だった。


 集合時間が近づいてきて、車で海老名に渡る度に父が「昔はこっちが中心街だった」と話す通りを、相模川まで歩いた。栞奈ちゃんがはしゃいで駆け出すのを千晴が追いかけて、危ないからと叱る様子を見て、十七で栞奈ちゃんを生んだ千晴が娘にひどく当たるようなことはないのだろうと思う。顔のつくりは母親似だが、体つきは、小柄で細身の千晴とは対照的に大きく、幼い頃から大柄だった、千晴の年子の妹を思わせた。Tシャツとショートパンツから伸びる手足は日焼けしていて、そこに傷も痣もないことを確認している自分の目線の気持ち悪さを感じていた。千晴の旦那に会ったことはなかった。障害者みたいな男だったと言ったのは、去年、千晴家族と鮎まつりに行った柚木で、栞奈ちゃんが挨拶もお礼も言わなかったことに「ああいうの、教えてないのかな」とこぼした。一年前、盆に帰省したときに柚木と岸さんと相模川で酒を飲んだ。三人で集まりながら、それぞれの立場が、家を出る前と変わってしまったことを感じていた。岸さんが大学を出て就職した。自分は家を出て自活している。柚木は父親が死んでからしばらくして、仕事に行けなくなっていた。


 夏の日差しが頭上から照りつけて、人通りの少ないシャッター街を歩く集団の足元に色の濃い背の低い影を作っていた。先々週にあった鮎まつりのポスターが、台風でやられたのか、シャッターに貼り付いたまま水に濡れて溶けたように破れている。

「鮎まつり行った?」横を歩く千晴を見ると、「お父さんにプリキュアの買ってもらった!」と栞奈ちゃんが言う。「綿菓子。まだ袋を飾ってるの」と千晴が笑う。「花火よりも袋の絵ばっかり見て」「花火も見てたよォ」と栞奈ちゃんが口を尖らす。その跳ねる影を見ながら、自分にも千晴にも、両親と祭りに行くという記憶などなかったと気づく。栞奈ちゃんの汗ばんだ身体からは、夏の埃っぽさと子供の汗の甘酸いにおいしかしなかったから、千晴は自分が育てられた環境とは違う形で娘を育てているのだろうと思った。弟妹の多い家だった。中学二年のときに引っ越しをして、家族全員で公営住宅に移っていた。小学校の目の前にあった一軒家は空き家になり、中学の帰りに回り道をしてその暗い家をときどき眺めていたが、今、あの家がどうなっているのかは知らない。当時はただ、中学校に近くなるのかとしか思わなかったが、今ならそれが、柚木の家族が家を手放したのと同じような理由だったのだろうと想像がつく。どうして引っ越すことになったのか、いまさら十年も前のことを聞けるわけもない。

 今はもう、すぐ下の妹も、その下の弟も働いているはずだから、あの公営住宅に住んでいる人数は、それほど多くはないのかもしれない。栞奈ちゃんの下に子供はいないから、千晴たちは三人で暮らしているはずだった。柚木の父親の通夜で「二人目産みたいんだけどね、なかなかね」と口にしていた千晴が、新田の年賀状で何を思ったのかと想像してみるが、もし自分ならという感情を当てはめるには、千晴と自分は違いすぎるのかもしれないと感じていた。

「去年は柚木と二宮も一緒だったんだっけ?」と、探りを入れるような聞き方だと思いながら尋ねた。「去年、盆に帰ったときに柚木に聞いて」

 岸さんも一緒だった、とは言わなかった。帰省したとき、千晴は呼びたくないと言ったのは柚木だった。「最初はさあ、四人で集まろうって言ってたんだよ。なのに、仕事終わったからって旦那も来て」靴の裏にあたる川砂利のごろごろした感触を意識しながら、岸さんが、旦那と柚木じゃ接点ないもんねと言うのを聞いていた。

 ベローチェもサイゼもマックも並んでいて、高いところは嫌だと柚木が言ったので、じゃあ外でいいじゃんと言ってスーパーの地下で酒を買った。相模川に行きたいと言うと、二人とも面倒くさそうな顔をしたが、喋りながら歩いているうちに着いた。砂利に足を取られて転びそうになりながら川に近づいた。落ちないでよ、と言う岸さんの声が、本気で心配しているように聞こえて、「暗くて怖い」と笑って足を止めた。そこで酒を開けた。川岸の風は涼しかったのに、酒で火照った身体に汗が滲んだ。柚木は白い顔のまま、饒舌になった。

「二人が来てくれればよかったのに」川面に指先を浸していた柚木が顔を上げて言った。

「ごめんて」バイトが忙しくて、と言いかけてやめた。柚木が仕事を辞めて一年が経っていた。さすがに八月に二回こっち来るのはきついと苦笑すると、「戻ってくれば?」と言う。できるわけないじゃん、とは答えずに、指に挟んでいたたばこを咥え直して笑った。吸い込むと酒が回り、視界が揺れた。

「岸さん夏休みなのに」と口を尖らせる柚木に、音大を卒業して幼稚園で働いていた岸さんは「夏は夏で忙しいの」と素っ気なく答えた。

「柚木こそ東京出てくれば?」

 ふらつく足をごまかすためにしゃがみ込み、同じ目線で柚木を見つめる。柚木は水に濡れた手を振りながら立ち上がり、「お金ない」と言う。働けば、とは言わなかった。柚木から見えるかわからない苦笑いを浮かべながら、ほとんど燃え尽きていた煙草を石の間でもみ消した。

 三人で缶チューハイを五本開けて、電車で伊勢原に向かう柚木と別れ、岸さんとバスターミナルに向かった。あのとき担架で運ばれながら乗り込んで、思っていた以上に広いことに驚いたエレベーターの、目の前にある停留所が、岸さんの家を経由して、実家の最寄りを通る路線だった。夏休みも忙しいのかと尋ねると、軽く肩をすくめるような動作をして、ほんとはデートだった、と言う。なんだよ、と苦笑したが、意外ともひどいとも感じてはいなかった。

「向こうは土日しか休みないしさ」と悪びれる様子もなく言う岸さんに、昔なら反発を感じたかもしれないが、今は、男を優先するのもわかるし、嘘をつく方が優しいとわかる。

 合コンで知り合った、四つ上の男性だと聞いていた。結婚はしたいがその男との結婚はない、という岸さんの言葉を不思議な気持ちで聞いていたのは数年前のことだから、相手は変わっているのかもしれなかった。別れるのを前提で付き合えるのかという質問を、もう何年もできずにいる。

 ベンチに腰を下ろして、それにさ、と岸さんが口を開く。

「デートなくても二宮さんいたし」

 その言葉に思わず笑って、気持ちはわかると言った。

「それホント意外だったんだけど」と岸さんがこちらを見上げる。

「嫌いな子とかいないと思ってた」と言われて、柚木や千晴にも同じことを言われたのを思い出す。どんだけ八方美人だったんだ、と中学時代の自分を思い出して笑った。

 中学を出てから、集まるメンバーがこの五人で固定になったのは、岸さんの「二宮さん呼ぶなら行かない」という言葉がきっかけだったが、それに賛同するようなことを言って、柚木たちに驚かれたのを覚えている。だがそれは、八方美人というのではなく、そういう感情の鈍麻した、へらへら笑っているだけの白痴だと思われていたからかもしれない。嫌なことはあったはずだし、嫌いな人間もいたはずだが、中学時代を思い出すと、家のことばかりが記憶に残っている。学校でへらへら笑っていたのは、不快を不快と感じられないほどに何かが欠落していたせいかもしれないと思う。会いたくない、という感情が、嫌いとイコールなのかもわからない程度に、感情は、混濁していた。

「中学の卒アルの寄せ書き、誰にも書かせなかったんだよ」唐突に思い出して言った。岸さんが、え、という顔をして、書かなかったじゃなくて?と聞き返すのに、「書いてもらわなかった」と念を押すように答えた。卒業式の後で集まった、北棟一階のカウンセリングルーム、カウンセリングとは名ばかりの、帰宅部や活動のゆるい文化部のたまり場になっていた空き教室で、赤や青や緑のペンをテーブルの上に出してアルバムを回した。その中で、「白紙のままで残したいから」と言って、ケースからアルバムを出さなかった。「なんでよ書かせてよ」と二宮がアルバムを奪い取ろうとするのを、尻の下に敷いて拒んだ。二宮は諦めて、他の人のアルバムに寄せ書きをしていった。見開きページを横切って線を引き、絵を描くのを、柚木が苦笑しながら「二宮、ちょっとそれやめて」と言うのを、多分本気で嫌がっていると思いながら見ていた。

 ターミナルに入ってくるバスの表示が七沢でないのを確かめて、岸さんの隣に座り「あれ、二宮に書かれるのが嫌で全部拒否ってたからね」と言った。こっわ、と岸さんが笑った。

「二宮だけ拒否るのもアレじゃん」

「徹底してるねえ」という言葉に、バカなだけだわと笑って返した。

 だから卒業は嬉しかった。嬉しさしかなかった。二宮だけではなく、他の色々な繋がりが切れることに期待しか感じていなかった。自分の通った小学校からは全員が持ち上がりで、別の小学校の半分が同じ中学に流れた。中学で知り合った友達はいたが、このカウンセリングルームに集まっていたのはほとんどが同じ小学校の人間だった。それが、今日で終わる。

 あの頃は、終わることすべてが嬉しかったと、やって来るバスの行き先表示を見つめながら思う。学校生活が終わることも、これまでの繋がりが終わることも。

 降りる人もいないのに、唐突にエレベーターが開いて、思わずそちらを見た。「ほら、乗らないんだから」と言って子供の手を引く母親を見て、子供が勝手に押したのか、と気づく。心臓が、妙な音を立てているのが自分でもおかしかった。終わればいいと思っていた十代の自分が、そこに立っているような気がした。


 もう一年前かあと、タオルで汗を拭いながら千晴が言った。

「そう、二宮さんも一緒だった。旦那呼んだら、二人がすごい機嫌悪くなっちゃって」

 そうなんだ?と初めて聞いたような声で答えた。不機嫌になった二宮の相手を自分がずっとしていた、と柚木は言った。千晴が旦那とずっと喋ってるから自分が相手しなきゃいけなくて、とこぼしていた柚木はおそらく、千晴にその不機嫌を見抜かれていたことに気づいていない。

「二人とも難しいとこあるからなぁ」と笑う自分の言葉に、鳥と動物の間を行ったり来たりするコウモリの童話を思い出す。千晴は、悪かったとは思うけどと苦笑して、「二宮さん、何してるんだろ」と首をかしげた。「去年の鮎まつり以来会ってないんだよ。秋ぐらいに、遊ぼうってメールしてたけどそれっきり」

 柚木も鮎まつり以来会っていないと言っていた。何をしているのか興味はあったが、それが悪趣味な好奇心から来ているものだという自覚があった。

 鞄の中で携帯が震えた。千晴が同時に携帯を取り出した。岸さんからだった。メールには、西湘病院に搬送されたこと、柚木の親に連絡をしたこと、同窓会には行けたら行くということが書かれていた。

「西湘って、吾妻川のとこのだっけ」携帯を見ながら尋ねると、千晴は「そう、新しくできたとこ」と頷いた。

 家を出た頃、まだそこは工事が始まったばかりだった。深夜過ぎ、広い更地の端に避けられていた瓦礫の山に、両手を使ってよじ登り、ここがファミレス、あっちがクルマ屋と、暗闇を指さしてかつての景色を頭でなぞっていた。向こうがホテル、と指を差しながら、そこで二宮を見たと思い出していたことを、妙にはっきりと覚えていた。

 通夜で会った二宮は、文化祭以来と言って抱きついてきたが、高校二年の文化祭の後にも一度、一方的に二宮を見ていた。

 駅から離れた国道沿いの歩道を、制服姿の二宮が歩いていた。ファミレスとホテルの並ぶ通りを、スーツを着たサラリーマン風の男と歩く二宮を見て、真っ先にホテルと結びつけたのは、駅から離れたその道が、ただ歩くには不自然な場所だったからだ。

 それを、自転車の速度を落としながら向かいの歩道から見ていた。

 同年代とは言いがたい男の横で不機嫌さを隠そうともしないその表情は、同じ学校に通っていた頃の二宮を思い出させた。その話を、通夜で会った二宮にはしなかった。

 通夜の後、片付けの始まった集会場を出て、団地の中の小さな公園でそれぞれの迎えが来るのを待った。身長ほどの高さしかない滑り台の柱に寄りかかって煙草に火をつける二宮に、親が迎えに来るのかと聞くと、親ではなく男だと言う。

「今ほとんど家帰ってなくて、喪服取りにすごい久しぶりに帰った」と二宮は笑った。その笑い方が、中学の頃と何も変わっていなかった。親反対しないのと尋ねる岸さんの言葉に、二宮は過保護すぎるというように笑い、「言われても聞く必要なくない?」と言って、わざと悪ぶって見せているような大きな仕草で、煙草の煙を吐き出す。

「結婚とかは考えてないの」と聞いた千晴は、男のことを知っていたのかまったく驚いていなかった。

「ないない、付き合うとか絶対ムリだし」と二宮が言う。

 あの国道沿いの光景を思い出しながら、彼氏じゃないのかと尋ねた。二宮は肩をすくめて、「相手四十よ?」と、嘲るような笑いをつくる。バカにされているのが男なのか自分なのか、その両方かもしれないと思いながら、自分も煙草を取り出した。

「泊まっていいって言うから試しについてったんだけど、金あるし、気ィ弱いから殴んないし」

 へえ、と言いながら火をつけた。笑って聞き流すしかなかった。真剣に聞き返すのも、引いた顔をするのも二宮の期待を汲むようで嫌だったがそれは自分自身の底の浅さを二宮に投影しているせいかもしれないとも感じていた。こちらがそう思いながら必死に聞き流していることも気づかれているような気がする。バスターミナルでの一件も伯母の死も、二宮には言っていなかった。言いたくなかった。二宮に同情されるのも二宮の中で納得するような形で収められるのも耐えられないだろうと思う。二宮と向き合っているだけであの出来事がより醜いものになる。いや、もともと醜かったものが言い訳のできない醜さになる。二宮に映る自分の姿は、底の浅い、キチガイぶって同情を買う、白痴面の下に隠れていた醜い無様な本性だった。

「どこで知り合うのそういう人」岸さんが、携帯から顔を上げて尋ねる。ネットに決まってんじゃん、と見下したような口調で二宮が言う。

「彼女探して出会い系やりまくってるけど、全然モテないから」

 でもやることはやってんじゃないのと思いながら、月を見上げて煙を吐き出す。

「四十でデブで彼女探しで出会い系やってるってもうねえ」

 そこに転がり込む二宮も大概じゃん、と笑いながら返そうかと考えてやめた。不愉快な顔をされるかもしれないと思ったのと、千晴と旦那が知り合ったのも、出会い系だったのを思い出したからだ。ぎりぎり三十代だったはずだが、二宮はそれをわかって言っているのだろうか。

 高校の頃、二宮が売りをしているらしい、という話をしたのは柚木だった。知り合いがそういうことをしているという話に驚きはしたが、それが二宮以外の女子であればもっと驚いただろうという程度には違和感を覚えずに聞いていた。

 同級生の父親の通夜の後でこんな話をしている自分たちを、不謹慎だとも感じないまま、電柱の灯りに照らし出される同級生を見回して、この中でただ一人自分だけが男を知らないのだと思った。集まれば、柚木と自分にだけ昔の男の話がなかった。二宮と千晴と一緒にいるのに何もないというのを不思議に感じていたが、自分が柚木の立場でも何も起こらないだろうと想像できる。家から出なければ死ぬと思ったが男の家に転がり込むということは自分のできる範囲のことを超えているという感覚があった。それを軽蔑していたというのではなく、そうまでして生きるということに執着していないだけだったかもしれない。けれど別に、生きるために転がり込むというわけでもないのだろうと、煙の向こうの二宮を見ながら思う。

「いい部屋住んでるし、お金有り余ってるみたいだし、むしろ有効活用っていうか」と、二宮が自分の言い草がひどすぎておかしい、というように笑う。岸さんが呆れた様子を隠しもせずに笑っているのに、二宮が気づいていないわけではないだろうと思う。千晴は困ったような顔で笑っていたが、笑っているような地顔のせいでそう見えただけかもしれない。そういう言い方やめなよ、とは誰も言わなかった。機嫌を損ねるか増長するかのどちらかになるのが目に見える。そういう言い方やめなよ、かつてそう言った岸さんは、二宮の話に付き合いきれないと思ったのか遠慮する素振りもなく携帯電話をいじっている。窘められたということは心配されていたということだろうと思いながら、自分と二宮のどこも違っていないのに、という気がしてくる。


 病院にいた一週間のうち三日だけいた部屋では夜中に運び込まれてきた人がベッドから立ち上がるのを看護師が押さえる様子がカーテン越しに見えた。ほんと色んなもの見えて勉強になったわ、と笑って話すのを岸さんが窘めた。そういうの、楽しそうに言うのやめなよ。

 言わずにいられなかったのか、言うことで構ってもらおうとしていたのかはわからなかったが、見聞きしたものを持て余していたのは確かだった。

 病室を移る日に入ってきたのは身体の大きい老齢の女性で、ムチ打ちの人がつける首用のギプスをはめて、起こしたベッドによりかかり、こちらに顔を向けていた。どちらからともなく挨拶をした。入院の理由を聞かれて熱中症みたいでと答えてから、それが礼儀のように感じて聞き返した。事故ですか。ええ、東名で。娘一家と事故にあったんですが、別々の病院に運ばれたみたいで。あ、と口を開きかけて、閉じた。

 夜半、ラジオで聞いていた、東名高速の玉突き事故、けが人が十数人と報じられたニュースの中で、一家四人の乗ったワゴン車が巻き込まれていたと聞いた覚えがあった。

 娘夫婦は無事だったんですがね、と女性は言った。続く言葉とラジオがかぶる。

「孫がね」

 死者一人。

「生まれたばかりの孫がね」

 乳児、ひとり。

 次の言葉が見つけられず、黙っていると、女性が言葉を続けた。二月に生まれたんですよ、半年も、生きられなかった。

 二月生まれ。自分と同じ月に生まれていた、死んでしまった赤ん坊、頭に浮かぶお悔やみの言葉はどれも形式じみていて滑稽に思えて、ただ、黙って女性を見つめていた。傷が痛むのか大きな身体のせいなのか、女性はふぅ、ふぅ、と身体で息をして、静かに、痛みを湛えた無表情で、動かしようのない首から見えるものを目に映している。泣き叫びも嘆きもせず、孫への贖罪を延々口にするわけでもなく、ただ、首を固定する器具によって向けられた方向を見つめながら、孫が死んだということを、繰り返し、思い出し続けている。その向かいで、生かすための機器に繋がれている自分の身体は、とても、醜い。

 その話を、自分の身体の醜悪さを、持て余した挙句に笑い飛ばすしかなかったと言い訳をすることもできる。だが持て余すということが底の浅さなのかもしれなかった。二宮の姿はそのときの自分と同じように見えた。きっと、もともと似ていた、だから拒絶しきれなかった、自分の底の浅さを二宮を通して何度も見せられていた。それを拒絶しないことで、自分の醜さも受け入れられるかもしれないという期待を抱いていたのかもしれない、でもそんな話ではなくただ単に白痴じみた子供だったから拒絶できなかっただけかもしれない。二宮はそういう人間を見つけて取り入るのが上手かった。そんな二宮だから、きっと男は切れないだろうと、まだどちらも男を知らないうちから感じていたような気がする。二宮は女になった。高校、もしかしたら知らなかっただけで中学の間にもあったのかもしれないがいずれにしても、小学校の頃じゃれあっていた細い手足の男を知らない娘の身体はもうないのだと思う。自分ひとり変わっていないような気がした。自分の触り方だけを覚えた身体が、あの頃と同じ体躯のままで、グズグズと腐り続けているような気がする。四十八キロの体重は、ちょうど中学二年の頃と同じ重さだった。

 親来た、と岸さんが携帯から顔を上げて言った。


 日差しが川面に当たって跳ね返っていた。並べられたバーベキューのセットの近くに新田を見つけて、千晴と一緒に駆け寄った。新田はこちらに気づくと手を振って、それから川辺に向かって「慎治」と声をかけた。

川べりにしゃがみこんで、石を拾っていたらしい幼子が、振り返って立ち上がった。「おいで、あんまり遠く行かないで」と言って手招きする新田に「上の子?」と聞く。新田の子供を見るのは初めてだった。

「今は高幡だっけ」と年賀状に書いてあった苗字を尋ねる。浅野から高幡になりました、と書いてあった。浅野から新田、新田から高幡。最初の結婚を入れて三度変わっていた。

 下の子供は今の旦那の子供なのかという質問は、慎治くんが来たのでやめた。三歳になる息子に新田の面影はなかった。


 あの日、カーテンの向こうで、「かえる、いえかえるう」と言って立ち上がる女性を看護師が止める様子が影となって天井に映るのを見ながら、新田に謝らなければと考えていた。紹介してもらったバイトをバックレた。その日はバイトが入っていた。体調不良のため休みます、申し訳ありません、というメールだけは打っていたけれどその翌日もシフトが入っていたはずだから、無断欠勤になってしまう、もう行けないだろうと思った。バイト先よりも新田に申し訳ないと、合わせる顔がないと、そのことが、後遺症が残るかもしれないという医者の言葉よりも気になっていた。バイト先には親が菓子折りを持って謝りに行っていたとあとから聞いた。辞めてしまったバイトの尻拭いを親にさせた自分のみっともなさに笑いが出た。

 そのバイトを紹介してくれたのは新田だった。土日だけの、飲食店のバイトがある、というメールが来たのは大学に入ってすぐのことで、ちょうどバイトの面接に落ちたばかりだったから、やる、と返信した。絵文字付きで「やらせてください」と送り返す自分が、尻尾を振る犬のようだと感じた。

 真面目でおとなしい、そこそこ勉強のできる女の子、という印象しかなかった新田の印象が壊れたのは、中学の合唱部で彼女の歌を聞いてからだった。多少はうまいと思っていた自分のプライドが折れるのがわかった。愛着と嫉妬と羨望の入り混じった執着は、中学の三年間、ずっとつきまとっていたが、二人きりで親しくすることはほとんどなかった。こちらばかりが新田を意識している、という自覚があった。

 退院してからしばらくして、集まろうという連絡が柚木からあった。電話口で大学を辞めたと話したら、なんでみんな辞めてるの、と驚かれた。みんな?と聞き返した。

「新田も辞めてる。六月ごろだったかな。ほら一度岸さんから、集まろうって連絡きたじゃん、そのとき新田にも送ったんだよ、そしたらバイト忙しいって。バイトばっかで勉強大丈夫なのって岸さんが送ったら、辞めたって。聞いてない?」

 自分と入れ替わるようにして、新田はバイトを辞めていた。大学のサークルが忙しくなりそうだからと言っていたのが五月のことだった。聞いてない、と答えた。ショックを受けている自分自身を、気持ち悪いと思った。

 千晴の子供を見たところとは別の、北口のベローチェの店先で、新田にバイトを辞めたことを謝った。

「ほんとごめん。せっかく紹介してもらったのに」と言うと、新田は驚いたような調子で「いやいやこっちこそごめん、ひどいとこだったでしょ」と言った。

 一瞬、自分の聞き間違いかと思った。あるいは、何か解釈を間違っているのかと思った。言葉を探して呆けていると、新田が言葉を続けた。

「辞めるって言ったら代わり探して来いって言われるからね。バックレるのが正解だよ」笑うでも悪びれるでもなく、早口でそう言った。

 コーヒーを飲みながら、新田が大学を辞めた理由を聞いた。バイトで忙しかったからと答えた。バイトを辞めるときに自分に向けて言ったことと、辻褄を合わせようともしていないのだと思った。

「母親倒れてたから、家事も忙しくてさ」

 高校三年のとき、新田の母親が入院した。命に関わるものではなかったが、それでもかなり長く入退院を繰り返していて、推薦で大学が決まっていた新田が家事全般をこなしていたという話は以前すでに聞いていた。

 今はもう元気なんだけどねと言ってコーヒーに口をつける新田に、「なんでバイトじゃなくて大学辞めたの」と尋ねた。

「だってバイトしないと生活費ないし」と、当然のような口調で新田は言った。

 は?と首をかしげた。自分だけではなく、岸さんも不可解そうな顔をしていた。

「お父さん働いてるよね?」

「働いてるけど、生活時間違いすぎて家で会わないから生活費貰えないのよ。だから自分で稼いでて」

 そんなもの、どうとでもやりようがあるだろうと言いたかったが、それを聞いても多分無駄だということが、なんとなくわかった。新田が、そういう細部まで矛盾なく話を組み立てて説明するのを放棄していることだけはわかった。それが、ひたすらもどかしく、腹立たしい。お母さんの体調大丈夫なの、と柚木が尋ねる。しばらく自宅療養だったけれどもうほとんど以前と同じ、と説明して、

「でもまあ、母親倒れると、やっぱ親すごいなって思うよ」としみじみと言う。

「私は母親あんま好きじゃないなあ」と柚木が言った。

「好き嫌いっていうか、敵わないって気がする」と新田が言うと、岸さんが頷いた。「うちも、専業主婦だけどすごいなーって思うよ、私一人暮らしとかできる気しないし」

「親に感謝とか、できる気がしないなあ」と笑いながら言った。

「だって、親まだ元気でしょ?」新田がこちらを見て言う。

「親が弱ってくると、また変わると思うよ」

 それが多分、十八か十九の頃だった。


 幹事の高野が軽く挨拶をして、同窓会は始まった。新田と千晴、一ノ瀬さんと鈴木さんとで一つのセットを囲んだ。子供がいるのをいいことに、食え食え、と子供たちの皿に肉を盛った。子供たちは肉よりも周りの大人が面白いのか、男たちに飛びついていく。子供扱いのうまい人間を嗅ぎとるのか、栞奈ちゃんに絡まれていた五十嵐と落合は栞奈ちゃんが肉を食べている間には慎治くんの攻撃を受けていた。ケリを入れた落合に追いかけられている栞奈ちゃんを見ながら千晴が「男の趣味って母親に似るのかなあ」と言うのを、「おいこら既婚者」と笑いながら、栞奈ちゃんの父親は、千晴の好きな男だったんだろうかと考える。

 河原には、新田と千晴の子供だけではない、川遊びをしている子供たちが声を上げて走り回っていた。

 小学五年の夏休み明け、始業式の最後に臨時の全校集会が続いて、夏休み中に生徒が一人死んだことを校長が告げた。小学一年生、バーベキューの事故だった。夜の相模川に連れ去られた身体は、見つかったときにはもう呼吸が止まっていたという。栞奈ちゃんが二年生で、慎治くんが三歳だった。生きていたら高校を卒業する頃かと考えて、同級生の何人が死んでいるのかと考える。把握しているのは二人、どちらも事故だった。一人は大学生で登山中の事故、もう一人は仕事中に車でガードレールに突っ込んで死んだ。交通事故で死んだ飯塚には妻子がいたと、同じ高校に通っていた柚木が言った。奥さんは、二人目を身ごもっていた。

 千晴の子供が大きいことにも驚いたけれど、新田が結婚していたことにも驚いた、と一ノ瀬さんと鈴木さんが言った。そんなに意外?と首を傾げる新田の皿に、「バリバリ働いてそうなイメージあった」と言いながら肉を乗せた。

「働いてはいるけどね」

「パチ屋だっけ?」

「そう。店舗は変わってるけど」そう言って、箸をグーで握る息子の手を、違う、と言って直させる。注意する新田の低い声は千晴のそれとは対照的で一瞬怖いと感じたが、生来の気質なのか慎治くんはバーベキューが楽しくて仕方ないという顔を変えずに「こう?」と箸を持ち直す。新田の印象は、変わった。変わったのではなく、自分が勝手に誤った印象を持っていたのだろうと思う。自分が執着するような形で、新田がこちらを意識することはこれまでもなかっただろうし、この先もないだろう。それを未だに未練がましく思っている自分を、惨めで気持ち悪いと思えるぐらいには頭は冷えていた。

 数年前に、親すごいなって思う、と言っていた新田がバツイチで再婚して二児の母になっていること、その一つひとつを何年経っても消化できないままの自分を、ひどく幼稚に感じた。感謝、という気持ちがどういうものなのか、罪悪感と何が違うのか、それは負い目ではないのか、わからないまま二十四になった。感謝することは負い目を感じることだったし負い目と罪悪感はよく似ていた。自分を責めずにいられる感謝というものが、あるらしいという知識はあるが、それがどういう手触りなのかを想像するのは難しかった。

 午後に高円寺のアパートを出ても同窓会には間に合ったのに、朝早くに出発して実家に寄ったのは祖父母の墓参りのためだった。山で死んだ北くんの墓は、実家の墓の斜向かいにある。北くんとはクラスが同じになったことも話したこともなかったが、成績のよい子だったから定期テストの順位は互いに意識する程度の距離感だったと思う。高校は相州ではなく私立に進んだ。そこから慶応に入った、という話が、別の同級生の母親経由で伝わってきた。

 いつも、墓の前まで行って、刻まれた名前と享年を確認するが、線香を立て手を合わせることは、なんとなくはばかられた。自分は死に損なっているのに死ぬつもりのなかった北くんが死んだ。幼子であれば玩具やお菓子が置かれるのだろうが、大学生で死んだ北くんの墓にそういった玩具が置かれることはなく、代わりにいつ行っても取り替えたばかりのような洋花が挿してある。

 北くんは一人っ子だった。

 行年二十一才という文字を見る度に、成人式のあの会場にはいたのだろうかと考える。北君の両親も、この墓に入るのだろうと思う。

 生きている頃にはほとんど接点のなかった自分が、同級生の中でいちばん北くんの墓に来ているかもしれないというのがおかしかった。小中を通して何度か同じクラスになっていた柚木から「お葬式行く?」と連絡があった。下宿のそばのコインランドリーで電話を受けながら、自分はあまり接点がなかったからと断った。北くんの家と菩提寺が同じだったことは、墓ができてから知った。先代の住職が最後に執り行ったのが祖父の葬儀だったから、北くんの葬儀は当代の住職が務めたのだと思い至り、何を話したのだろうと考える。いい声で経を読む、と親戚一同から評判で、葬儀でも法事でも必ず故人のエピソードを話す人だった。親戚でここを菩提寺にする家は多かったから、住職の話は何度か聞いたが、住職より若い人間の葬儀には参列したことがなかった。

 実家の墓には、祖父と祖母しか入っていなかった。叔母が死んで、何年経っただろうと数えようとして、やめた。それは自分が生き延びたのと同じだけの年数だった。父が密葬にしようとするのを、叔父と従姉妹たちが反対した。

 旦那と別れて、長女が結婚してから、叔母は実家に戻ってきた。次女がどこで暮らしていたのか、その頃の叔母一家のことはよくわからない。家に来ることを父が強要したのかどうか、わかるのは、おそらく叔母が自分の母親の介護を兄夫婦に任せておけないと考えていたということだった。

 叔母の死を伝えるメールは死因も何も書いてなかったが、こみ上げた笑いは何かを予見して期待していたから出たのかもしれない。前の年に、在宅介護の末に死んだ祖母の誕生日が、その日だった。

 なにもうちで死ななくても、と母が言った。この家で生まれ育った二人の女のうちの一人が死にそこねて一人が死んだのだと思った。

 葬儀は結局、平塚の叔父の実家の近くで行われた。父は叔父の借金のせいだと思い、叔父と二人の従姉妹は父が殺したと思っている。だから叔母の葬儀にも、通夜しか参列しなかった。通夜も告別式も参列できないかと思ったが、叔母の死で腑抜けた叔父が喪主として使い物にならなかったので、結局父が裏方を執り行った。実の親が死んだときも、雑務一切を事務的にこなす様子を、叔母が「兄貴のそういうところはすごいと思う」と言っていたのを、嫌味だろうかと思いながら聞いていたのを思い出した。叔父は実の親の葬儀でもやっぱり腑抜けになっていた。だが、こちらの娘はこのざまなのに、叔母夫婦の二人の娘は短大を出て働いて、結婚をして母になっている。

 遺骨は、納骨されずに長女の家にあるはずだったが、父に連絡することなく叔父の実家の墓に納められているのかもしれない。

 美人ではないが格好良く美しい人だった。叔母がおかしくなったのではなかった。世話をしていた実の母親が死んで姪が蛍光灯で窓ガラスを割る家でまともでいられない程度に叔母がまともな人だったというだけの話だった。

 祖父母の墓の前で手を合わせるとき、ありがとうとも安らかにとも思えない。

 ごめんなさい。ただそれだけの言葉を言うために、盆と正月、この墓に来て、手を合わせる。頭を下げる。

 当代の住職と叔母は、中学校の同級生だった。もし住職なら、叔母の葬儀で何を話してくれただろうか。首を括って冷たくなった同級生の亡骸に、なんと話しかけただろうか。

 高野が、一つひとつのテーブルを回っていた。テーブルに来た高野が、こちらを見ておそるおそるというように、「同じ高校だったよね?」と尋ねる。河川敷に集まっている三十人近い同級生の中で、相州を出たのは自分と高野、それから高野と同じテーブルを囲んでいる今田の三人だけだった。今何してるの、と聞かれて「大学辞めてフリーターっす」と笑って答えた。高野が少し驚いた顔をしたので「東京砂漠で一人暮らし中」と、わざと得意げな顔を作って言った。高野はと聞くと、病院で技師をしていると答えた。横から鈴木さんが、彼女と結婚秒読みなんだよね、と茶々を入れる。「もう二年も同棲してるんだよ」箸で高野を差しながら、鈴木さんがリア充とからかう。

 同棲、という言葉を聞いて二宮を思い出した。それから新田に目を向けた。姑とうまくいかない、と話す千晴と、家族づきあいは難しいよね、と答える新田のやりとりを、自分の入り込める世界ではないと感じながら見ていた。結婚した、という連絡の後で集まったとき、新田はもう妊娠していた。「結婚して家は出たけど、一人暮らしはしたことないんだよね」と、下宿で暮らし始めたばかりだった自分に、新田が言った。「一人大変でしょ」と言われて、「自分のことだけやればいいんだから楽だよ」と答えた。本心からの言葉だった。人の世話も、人に世話をされるのも苦痛にしか思えない自分にとって、他人を介さない生活はとても心地良かった。家出たいけど母親も一緒に連れて行きたい、と岸さんが言うのに柚木が同調するのを、軽蔑するような気持ちで聞きながら、「金かかるし、必要ないならやらなくていいじゃん」と言って笑った。

 新田は、二十歳になると同時に婚姻届を出したと言った。親がよく許したね、と聞くと、「二十歳過ぎてれば許可いらないでしょ」と言って、事後報告だったと話す。母親をすごいと言い、両親と不仲なわけでもない新田が、親の許可などいらないと言うのがよくわからない。だが、それを当然のことのように話す新田に、なぜ、と聞くことはできなかった。

「うちも兄妹多いから、家出たかったんだけど、部屋探したり家具そろえるのも大変でしょ。そしたらちょうど、旦那がうち来ればって言うから」

 一緒に暮らすなら結婚してしまおう、という感覚で籍を入れたと言った。「正直、そんなに好きじゃなかったんだけど、タイミングがよかったんだろね」という新田の言葉を聞きながら、男と女なら、そういうことができるのかと思った。男女なら、好きでなくても一緒に暮らすという関係が成り立つような気がした。

 友達でもなく恋人でもなく、セフレでもなくてセックスもないそういうよくわからない関係が、女同士では築けない。五時ぐらいには行けそう、という岸さんのメールを見ながら、柚木との距離を考える。家に住ませて援助する、というような関係が、同性で友人の柚木とは築けないと考えて、それはただの言い訳かもしれないとも思う。


 テーブルを囲む人間は、自分以外はみんな市内に暮らしていた。一人暮らしは親が反対する、という鈴木さんの言葉に、新宿まで一時間で行ける土地の、独特の閉塞感を感じていた。家から職場まで二時間半かけて通っていると言う一ノ瀬さんは「一人暮らしも考えてるんだけど、実家の方がお金かからないし楽だし」と話す。

「やっぱり親のありがたみとか感じた?」と鈴木さんに聞かれて「開放感しかなかった」と苦笑した。それを間違っているとは思わないが、「親すごいなって思う」と新田のように言えないことが、劣等感としてへばりついていた。


 家を出て、倉庫のような下宿に一年暮らした。部屋数八十、家具付きとは言うが箱のようなベッドと棚しかない、東向きの四畳半で、シャワー、トイレ、台所は共同、買ったマットレスには二ヶ月でカビが生えた。それでも柚木は「いいなあ」と言った。親がうるさい、部屋が狭い、そういうことを言いながら、一人暮らししたいけどお金ない、働けないと言う。柚木を連れ出して住まわせる、そういう選択肢についてぼんやりと想像してみるが、柚木は「さみしい」と言う。家族と離れるのは寂しくて嫌だと言う。家を出れば良い方に進む、という人ばかりではないのだと思いながら、どこかで家族と離れられない柚木を見下す気持ちがある。家を抜け出した傲りがあるのを意識しながらじゃあ柚木はどうしたいのと聞けば「お父さんに生きていてほしかった」と言う。そのどうしようもない願望を聞きながら、親に生きていてほしいと思えるのは幸せなことじゃないかという最低な言葉を腹の底に沈める。

 下宿の部屋の東側の窓は桜並木に面していて、昼はお年寄りの夕方は子供たちの声が聞こえてそれは全く不快ではなかった。桜の季節、窓から見下ろす大通りには、カメラを構える人もいた。その中に、桜ではなく下宿にカメラを向ける人がいた。それが父だと、しばらく見つめてしまった後で気づいた。反射的にカーテンを閉めた。閉めてから、今、あれはどこを見ていただろう、今ので部屋がばれたかもしれない、と思い、その場に座り込んだまま、カーテンを握りしめていた。父に住所を教えた記憶はなかった。


 大山に近づいた太陽が相模川を赤く染める頃になってやってきた岸さんは、慎治くんを見るなり、誰の子、と大げさに驚いて言う。「慎治です、今三歳」と言って、新田がビールと缶チューハイを持ってくる。どっち?と言うのを、岸さんがビール、と言って受け取り、「同級生の子供がこれとか、年取るわけだよ、ねえ」と溜息をついた。

 川遊びをする同級生たちを眺めながら、つまみを片手に、岸さんと酒を飲んだ。日差しの当たる背中がじりじりと熱い。日を遮るものもないので、うちわで影を作りながら酒を飲み続けた。

 パートを早退して病院に駆けつけた柚木の母親は、白髪が増えてすっかり老けこんでいたと岸さんは言った。もともと年齢より幼く見られる顔をしていたから、歳相応に見えるようになっただけかもしれないと思いながら、柚木の母親を思い浮かべる。

 かっちゃんがカーテン燃やした、と笑うような口調で言った柚木の声を思い出す。父親が死に、柚木が仕事を辞めた後、定時制に通っていた上の弟が高校を辞めた。その弟が、家のカーテンに火をつけた。焦げ臭いのに気づいた母親が部屋に入って悲鳴を上げた。火はカーテンの裾をわずかに焦がしただけで消えた。

 大丈夫だったの、と言うと、柚木は「私は別に平気なんだけど、むしろお母さんがうるさい」と言った。弟の状態やボヤの被害を気にするでもなく「怒って、かっちゃん叩きながら泣き出しちゃって、それがうるさかった」と言う。わざと言っているのか本心からそれがいちばん辛いと言っているのか、柚木の家が壊れていくことだけが電話の向こうから伝わってくる。下の弟はまだ小学生のはずだった。焦げたカーテンとその理由を、下の弟に隠し通すことはできないだろうと、それが真っ先に心配になるが、柚木はそれよりも母親が嫌だと言い募る。それを、聞く以外に何ができるだろう。

 柚木によく似た小柄なおばさんが、声を上げ、息子に手を上げる様子が見えるような気がした。普段子供を殴らないおばさんの振り上げる腕は、大人の身体をした息子に大した打撃を与えることなく、自身の声の代わりだというように振り下ろされる。それを、避けるでもなく面倒くさそうに受け止めている上の弟の姿が浮かぶ。それが去年の年末だった。

 柚木は、ただの貧血だったという。ファミレスでの様子を思い出して、どこか悪いんじゃなくて?と聞くと、岸さんが顔をしかめた。

「ちゃんと食べてないんでしょ」

 口調に咎めるような調子があった。

 本人がいちばんつらいんだろうけどさと、赤い夕陽を跳ね返す相模川に目を向けながら岸さんが言う。

「自分で動けよって思っちゃうんだよね」という言葉に、わかる、と言って頷いた。

 辛いのは本人で、動けないのはその人のせいではなくて、その人が弱いわけではないし、もしそれが弱さだとしても弱いことが悪いわけではない、というテンプレートが頭をよぎる。あなたが動けて元気があるのはあなたの努力の賜物ではない、たまたま恵まれていただけで、それを当たり前と思って人を責めてはいけない、そういう話は知っている。だがそういう理性を振り切って、罵りたい気持ちは生まれてくる。もうやだ、誰か助けて、と柚木は言う。

「病院も薬もやめたって言ってたじゃん」

 自分の口からこぼれる声が、酒のせいかうわずっているのを意識しながら、言葉を続けた。

「合う合わないあるんだろうけど、諦めるの早すぎだろって、思っちゃうよ」

 自分で動けよ、という言葉を、何回飲み込んだだろうと思う。

 バスターミナルの一件から家を出るまでの間、病院に通って薬を飲み続けた。効果よりも副作用が出る体質なのか、吐き気、だるさ、アカシジア、説明書に載っていた副作用はひと通り出た、それでもそれにしがみつくしかないような気がして僅かな効果にすがりついて家を出た。だから、そう、思ってしまう。けれどそんなもの、別に、努力の賜物ではないのだと、頭では、わかっているのに。

 ね、と岸さんが同意を示すように頷く。

「自分ちが恵まれてるのもわかるけどさ」

「思っちゃうよね」と苦笑しながら言った。

 だから、それを口にしないで済むところより先には近づかない。辛いね大変だね、と共感を示す、それ以上踏み込むことを、多分、誰も、望んでいない。

 今、ここで口に出さなければこんな感情はなかったことにできたのに、出さないとやっていられないくらいに濁りきった淀みがぽこぽこと溢れてこぼれていやなにおいを立てている。けれどもそれでも体は心地よかった。言葉を紡ぐ口に、それを入れる耳に、快かった。

 薬は副作用がつらくてむり、カウンセリングの先生も嫌い、アルバイトをしたほうがいいのはわかるけれど一人では怖くていやだと、同じような話を何度も電話で繰り返す柚木に、助かりたいの、と聞いてしまった。

 助かりたいよ、と力なく言ってから、助かりたいに決まってるじゃん、と続けた柚木の声に怒りが混じっていたので、ひどい言い方をしてしまったと気づいた。

 家を出てすぐに柚木に言われた言葉を思い出した。叔母が死んで家を出て、叔母が死んだおかげで生き延びているような気がすると話したときに「おばさんに感謝したらいいんじゃない」と言った柚木の言葉は間違いなく励ますつもりで、言葉の意味するところまで思い至らずにこぼれたものだったのだろう。その無神経さと、助かりたいのという言葉の下に沈んでいた淀みとを比べるなら、罪深いのは淀みから出た言葉の方かもしれなかった。動けなくなっている柚木の状態をもどかしく思い、甘えと感じる、その淀みを、助かりたいのという言葉の裏に感じ取ったから柚木の声はきつくなったのだろうと思った。

 ごめんそうだよねと深刻ぶった声で言葉を紡ぎながら、淀みに両足を突っ込みながらでも親身なような言葉が吐けるなら優しい言葉たちはどこから生まれてくるのだろうと考えた。


「だいたい、仕事辞めた理由にしてもさ」と岸さんが言うので、「あれねえ」と苦笑して頷く。

 数ヶ月の休職期間の後、柚木は退職届を出した。

「お父さんが死んだのがいちばん大変だけど、会社行けなくなったのはね」と柚木は言った。忌引休暇が終わって会社に行ったら、上司に慰めるような言葉を言われた。触れないでほしかったと柚木は言う。「これからは大黒柱になってお母さんを支えてあげなさいって言うんだよ、私だって辛いのに。なんで支えなきゃいけないの。私が支えてほしいのに大学も行きたいのに、大黒柱? みんなもっと遊んでんのに、なんで」

 その上司の言葉が決定打だったと柚木は言った。

 パワハラとかならわかるけどさあ、と岸さんがビールを口にしながら言う。「大黒柱として頑張れなんて、柚木が傷つくのはしょうがないとしても、それぐらいで」

「おばさんもパートだし、柚木が稼ぐしかないじゃんね」と苦笑しながら、貧乏をしたことのない自分たちに言えることではないとも思った。もしかしたら千晴や新田なら柚木に言えることがあるかもしれないけれど、すでに働いて子供を育てている二人を相手にこの話をしない程度には柚木も相手を選んでいるはずだった。

「そういうの口実にして逃げてるように思っちゃうし」

 わかる、と頷きながら、叔母の通夜で歯を食いしばりながら泣いた理由を思い出していた。叔母の死が、どろりとのしかかってきたのは、家を出て虐待死のニュースを見る度に笑い出さなくなってからのことで、通夜の晩は、泣き崩れる従姉妹たちを見ても何も感じなかった。いや、悲しい気持ちは感じなかった。ただ、不快だった。なんであの二人はこんなふうに泣けるのだろう? こちらは笑い出すくらいおかしな人間になってしまっているのになんで貴女たちはまともでいられたんだろう?

 叔父の家の菩提寺の住職の読経を下手だと思って聞きながら、歯を食いしばり涙をこぼしたのは、直前に大伯母から言われた言葉を思い出していたからだった。大学を辞めたことを、両親は伏せていた。隠そうとしたわけではないだろうが特に話す機会もなかったのだろう、大叔母はそれを知らなかった。「大学出たら、何になるんだい」と聞かれて、なんでしょうねえ、まだ全然考えてないですねえ、と笑った。

「上の学校行くんかね? 優秀だもんねえ」大伯母は笑ってそう言った。

 大伯母の家の孫たちは、みな家庭教師をつけていて、長女はどこかの医学部に入ったと聞かされていた。経済状況は大差なく、ただ、親の考え方が違っただけだった。おばさんちに生まれてたら女でも院に行けましたねそうですねという言葉が、読経の合間に繰り返し沸き起こるのを、叩き潰す度に涙が滲んだ。死者の冥福を祈るこころなどなかった。

 柚木を崩した一言は、大伯母のそれに通じるものがあるのかもしれなくて、柚木に対してなぜ、と思うように、あのときの涙も、他の人間から見れば、なぜそんなことでと言われるようなものだった。


 サンダルを脱ぎ、浅瀬に足を浸した五十嵐が、同じく裸足で水辺に立っている栞奈ちゃんに水を掛けられ、お前なあッと追いかけるのを、千晴が笑って見ていた。栞奈ちゃんは笑いながら五十嵐の後ろに回り込み、その腰にしがみつく。五十嵐が身体をねじってその頭を抱き込むように押さえつけて、身体を揺さぶる。栞奈ちゃんの悲鳴のような笑い声が、足元の水飛沫と一緒にあがる。親子みたい、と岸さんが言った。

「高校辞めたって聞いたときはホント大丈夫かって思ったけど」

 ふと思い出して、いつ妊娠を知ったのかと尋ねると、千晴が中退してすぐだと答えた。

「辞めたって聞いて、半分冗談で送ったのよ。妊娠でもした?って」

 冗談かよ、とビールを開けながら笑うと、半分は本気、と苦笑する。

「中退って聞いたら、まあ、それ考えるよね」と言いながら、聞いてはいけないような気がして送らなかった自分と岸さんの違いはどこにあったのだろうと思う。踏み込んではいけないと思ったのではなく、本当にそうだったとして、掛ける言葉が思いつかない、そんな理由だった気がする。ベローチェで栞奈ちゃんを見たとき、娘だろうと思いながら、妹?と尋ねた自分はどんな顔をしていたのだろうか。

「父親隠すとか、どんだけ訳ありだよって思ったけど、すっかり母親やってるしねえ」そう言って岸さんはうちわで顔をあおぐ。父親、と聞いてふと気になり、岸さんを見た。

「さすがに両親には言ってるのかな、相手」言ってから、一度だけ考えたことのある予感が頭をかすめた。いや、そんなはずはない、とその考えをかき消すよりも早く、神妙な顔をした岸さんが目に入った。それさあ、と岸さんが、少し考え込むように黙って、こちらに目を向ける。そして、「変だと思わなかった?」と声を潜める。

「妊娠したのと千晴の弟が生まれたのって同じ頃じゃん」

 それは、ずっと前に、一度だけ考えてかき消した、最悪な予感の一つだった。喉が詰まるのを感じた。「考えたけど」とかすれた声で呟いて、千晴の方に目を向けてから、足元に視線を移した。

 考えただけで、自分の発想がおかしいと思って打ち消した。他の人間はそんなことは考えないだろう、と思っていた。だが岸さんも同じことを考えていたのなら、近くにいた柚木や二宮も考えていたのかもしれないし、二宮なら柚木に言ったかもしれない。相手、もしかして家族なんじゃないの。

「まあ、ないと思うけどさあ」と吹き飛ばすように言ってから、「ていうか、もしそうでも何もできないし」と言葉を続けた。ほんとうにそうだ。何もできない。その最悪が当たったとしても、互いに、手を伸ばすことは、きっとできない。

 栞奈ちゃんが、おかあさん、おかあさんと言いながら千晴にも川に入れと促している。

 ほんとうに、何も、できない?

 風が、汗で湿った身体をなでて、背中と胸がひやりとする。まだ高校生だった自分たちには、何もできなかった、できるわけがなかった。けれど、ほんとうに何もできなかった?

 何もしないことを何もしたくない今のこころを、千晴と一緒に雨の中を歩いていた中学生の自分が見つめていた。涼しくなってきたね、と岸さんが言った。あの日、千晴と歩いていた帰り道は、冷たい雨が降っていた。覚えていたけれど思い出さずにいた、中学の頃の記憶の一つ。

 傘を持っていなかった千晴を自分の傘に入れて中学から徒歩三十分の道のりをのろのろと歩いていた。折り畳み傘は小さく、遠慮がちに傘に収まる千晴の肩は、傘から流れる水で雨の中を歩くよりも濡れていた。もっと近づいて、と言うが、小柄な千晴を収めようとすると脚がもつれそうになる。結局、そのまま歩き続けた。千晴の酸っぱい臭いはいつもしていたわけではなくて、その日は雨の匂いが強かったから、気にならない程度だと意識していたことは覚えているのに、それだけ身を寄せながら何の話をしていたのか思い出せない。共通の趣味、というものは、今となっては何もないが、この頃はマンガを回し読みしていたから、その話をしていたのかもしれない。小学校前の交差点を曲がり、葉の落ちた桜並木に差し掛かったところで、千晴が言った。

「私ね、お兄さんとお姉さんがいるんだって」

「え?」

 一瞬、謎かけかと思いながら千晴を見た。千晴が足を止めたのに気づくのが遅れて、千晴が雨に打たれた。慌てて一歩戻って「どういうこと?」と、まだ冗談だと思いながら首をかしげた。四人だか五人だかいる姉弟の一番上のはずだった。多分困っているのだろう、中途半端な笑みを浮かべながら、「お父さんの、子供なんだって」と言った。それでようやく、謎かけでなかったことに気づいた。こういうとき、何と言えばいいのかわからずに、「いくつぐらいなの」と尋ねた。どちらも二十歳過ぎているという答えに、また何と言ったらいいかわからず、必死に言葉を探した挙句、「じゃあ結婚前?」とおそるおそる質問を続けた。「そうみたい」と頷く千晴の顔からは、何を期待されているのか察することはできなくて、黙り込んだ自分の代わりに、傘に当たる大粒の雨がうるさく音を立てていた。

「……びっくりだねえ」

 やっとのことで呟いた言葉は、ひどく間が抜けていて、それで、千晴が噴き出すように笑った。

「そう、ホントびっくりした」そう言って千晴が笑うのにホッとしていた。子供がどうやってできるかもまだ自分は知らなかった。笑い声が合図だったように、また二人で歩き始めた。歩き出すとまた千晴の肩が濡れた。会ったの?と聞くと、千晴は首を横にふる。

「なんか、いるって聞かされただけで。でもなんで急に言い出したんだろ」本当に何もわかっていないような口ぶりで、千晴は首を傾げていた。家の前まで来て、立ち止まることもなく別れた。また明日、と言って軒先で手を振る千晴に、風邪引くなよ、と言って手を降った。

 翌日、千晴は学校を休んだ。あの傘から伝った雨が風邪を引かせたと思って、それだけが心苦しいと思った。千晴の話を思い出すよりも、合唱コンクールのソロに決まった新田への嫉妬を、すごいと言って隠すことに必死だった。欠落だらけだった心は、あのとき、千晴が差し出した何かを取りこぼしていたのかもしれない。

 千晴の兄や姉の話は、それから一度も聞いたことがない。千晴は他にも打ち明けていたのだろうか。柚木や岸さんは、知っていたのだろうか。

 あの頃毎日のように聞いていた、勉強しかできない欠陥品、という言葉は実際当たっていたのだろうと十年以上経った今思い知る。あのときの欠落を、二十四の今埋めたところでやり直せない。その話と、引っ越しの時期は、一年も離れていなかったのではないかと、今になって思い出す。けれど今更それを聞くことも、栞奈ちゃんの父親についての推測を言うことも、できるわけがなかった。

 千晴に踏み込めないことと、柚木に手を差し伸べられないのは、似ているような気がした。友人という距離を保ちながら、病院に行くように説得したり金を渡したりする代わりに痛みを和らげる言葉だけを続ける。

「旦那とうまくいってるならいいんだけどさ」と、うちわで夕日を遮りながら岸さんが言う。

「今年も鮎まつり行ったって。栞奈ちゃんが楽しそうに話してた」そう言うと岸さんは「なら、よかった」と頷く。

「普通の家族やれてんじゃん」と言いながら、反射する光を防ぐようにうちわを構えて川に目をやる。

 そうねえ、と頷きなら、岸さんの言う普通の家はどんな家だろうと、卑屈な気持ちで考えていた。

 働き始めた柚木が家にお金入れてないというのに、岸さんは「信じられない」と言った。そう言う岸さんは、年上の彼氏のためにと二万円もする財布を見ていた。まだ親のすねをかじっているのにどうして家族以外の人間のために万単位のお金が使えるんだろうと思いながら、自分のその感覚がおかしいのかもしれないとも感じていた。

 今、お互いにそれぞれ働きながら、それでも柚木に二万三万のお金を援助することはないだろうと思う。本やネットを見ればそういう関係はあって、だからべつに、女同士だからできないとか、そういうことはないだろうと、もしもっと裕福だったら宝くじが当たったら、と考えてみるけれど、誰も、互いに踏み込まないしこちらに踏み込む人もいない。

 あの入院の後で、岸さんと柚木もこうやって言葉を交わしたのかもしれない、だいぶマズイけど何もできないしさ、おじさんたちだっていい人たちなのに、あいつもああいう性格だからね、助かったけどああいうのって繰り返すっていうじゃんてかなんであいつ大学やめたんだろうね? うちと違ってお金がないわけじゃないのにね? そんな被害妄想を、こころの底に沈めたまま、タオルで汗をぬぐう。太ももの上に感じた柚木の重さと体温と、荒い息と流れる汗を思い出していた。

 去年の冬、柚木の暮らす団地の公園で、最近煙草を吸い始めたという柚木に、ピアニシモのメンソールを一本やった。柚木は一口吸って「まだおいしくない」と言って煙を吐いた。「じゃあちょうだい」と言うと、柚木は「慣れたいから」と言って、また咥えた。息が、煙のように白くなる冷え込みの中で、それで暖まるはずもないのに、暖を取るような気持ちで自分も煙草に火を付けた。空気に晒された左の指先が、冷たさにピリピリと傷んだ。

 最近は食べようとしても吐いてしまう、外に出ると気分が悪くなる、という話を、柚木は笑いながら話した。深刻にすることを柚木が望んでいないような気がして、マジかよやばいじゃん、と笑いながら返した。病院に引っ張って行けたら、と思いながら、家族でもない恋人でもない自分にそれができるわけでもない、と思った。ネットで見た、ひきこもりの友人を更生させる話を思い出した。煙草を吸った。吐いた。「誰か養ってくれないかなー」と柚木が笑った。病院行こうよ、という言葉は、柚木を黙らせてしまうような気がして口にできなかった。

 そういえばさ、と柚木が思い出したように言った。

「聞いた? トシくん東大って」

 聞いた、と言って頷いた。岸さんの弟の進学先は、母親経由で聞かされていた。私立の進学校からの現役合格だったという。

「すごいよね」という柚木の言葉にへばりついた感情の手触りを確かめるように、柚木の手元の煙草から立ちのぼる白い煙を見つめていた。

 柚木はきっとそれをこの関係性の中でしか話さないだろう。お金があったら。女に生まれてなかったら。それだけで学歴が得られるなんて思ってはいない、けれど絡みついた足かせの重たさを柚木となら共有できた。


 慎治くんが、男たちといっしょに川に石を投げていた。川に近づき過ぎないようにと、新田が近くに立っていた。息子に石を渡されて、投げた。母親の投げた石は川面を二回、三回跳ねて、四回目の着水で沈んだ。息子が手を叩いて歓声を上げた。

 せっかく河原に来たんだし、と言って、岸さんと一緒にビールを持ったまま川に近づく。足元はしっかりとしていたが、ギリギリまで行くのはなんとなく恐ろしく感じて、男たちのずっと後ろの方に立って石を拾って、投げた。石は、きれいな王冠のかたちの飛沫を上げて低い音を立てて沈んだ。もう一つ、今度は一回り大きい石を拾って投げた。同じように投げたつもりだが、石は低い弧を描き、尖った形の飛沫を上げて、水を弾くような音を立てて沈んだ。

「違うよ」いつの間にか近くに来ていた慎治くんが、叱るような顔をして「こうだよ、こう」と投げる仕草を見せる。

 缶ビールを砂利の上に置いて、「こう?」と身体をくねらせる。

 慎司君に急かされて、川に石を投げつける。石は跳ねずにぼちゃんと沈む。

「とんでないよォ!」と地団駄を踏まれて「ごめんごめんおばちゃん下手だねー」と苦笑する。

 子供には、好かれない。動物にも好かれない。こんな生き物を育てられる新田や千晴をただすごいと感じた。二人は、身内の死に笑ったりしないだろうし、それを踏みつけて生き延びたりしない。子供に乳を吸わせ、子供の腹を満たし、十年、二十年、子供を産んだ身体を抱えて生活を続けていく。

 慎治くんが、岸さんにも石を渡して投げろと促す。岸さんの投げた石は、一回だけ水の上を跳ねて沈んだ。いっかい! と慎治くんが声を上げた。

「岸さんは、結婚の予定は」思いついて尋ねた。中学の頃、いちばん早く結婚しそうだと思っていたのは岸さんだった。岸さんは、苦そうな顔をして「したいんだけどさあ」と言葉を濁す。

 また石を投げようとする慎治くんに「投げる方ちゃんと見て」と言いながら新田が近づく。はあい、と笑顔で返事をして、大げさに周りを見渡してから川に向かって石を投げる慎治くんの陽気さは父親譲りなのだろうかと思いながら、バイト先で一度だけ見た、元夫の顔を思い出していた。

「一回も結婚できないやつもいれば、二回も結婚できるやつもいるんだから世の中不思議だよね」と自虐するように笑う岸さんに、うんざりした、けれど本気で嫌がっているわけではないという口調で「なんだよこんなの一回で十分だよ」と新田が言う。

「なんで別れたのよ」

「いろいろあんのよ」

 その会話を聞きながら、横で笑った。聞きたい、けれど自分にはそれを聞くことはできないし新田がそれを話すこともないだろう、それを悔しいと思う自分のみっともなさを、いつまで感じ続けるのだろう。

 あの出来事の後、新田が結婚して叔母が死んで家を出た後、呼吸がしやすくなった、心臓に血が流れるようになったと思いながら感じていた閉塞感の苦しさの中で、子供が生まれたとメールをしてきた新田に電話をかけた。カビの生えたマットレスの上で背中を壁にもたせかけて、新田の声の向こうに聞こえる赤ん坊の泣き声を聞いた、それがこの慎治くんだったのだと思い出す。

 話したことは、多分、話すべきではなかったことで、新田はそれに冷静に、真摯に答えてくれていたけれど、人はぬかるみに足を浸したままでも優しい言葉を紡げるものだから、紡がずに済むところまでは踏み込んだりしないから、その言葉の裏側を考えてしまう、けれど、それを思うには新田は遠すぎて、自分は盲目だった。

「岸さんこそ、いちばんに結婚しそうなのに」と新田が言う。「彼氏はいるんでしょ?」と言われて、岸さんがまた唸る。

「嫌いじゃないんだけど、趣味にお金かかりすぎるし楽観的だし結婚はムリだと思うんだよね、親も反対しそうだし」と言う。

 通夜の後、車の止まる場所まで歩きながら、「私、平和主義なのかな」と岸さんが言った。え?と聞き返すと、だって、とちらりと後ろを伺う素振りをして「親の反対無視して家出たり、新田みたいに籍入れたり、絶対できないもん。やっぱり親にも祝ってほしいし」と言う。軽蔑するでも見下すでもなく、考え方の違いだというような岸さんの言葉に、「不穏にならずに済むなら、それがいちばんだよねえ」と言って頷いた。不穏に、ならずに、済むなら。

 高校も大学も私立に進んで、親の留守に男を家に呼び込むだけの自由があるその環境で、反抗する必要など、どこにあるんだろう、という言葉を、淀みの底に沈めた。

 下宿の外でカメラを構えていた父親の話をすれば、岸さんは、娘を心配する父親だと言うだろう。だから言わない、父親の死んだ柚木にも言えない。言えるとしたら、二宮だと思った。親マジうざいんだけど、という言葉を笑って言える。親にどんなことをされたか、笑って延々自慢し合える。「それだったら私の方が」という言葉を重ねながら、お互いに相手を軽蔑しながら、それでも繰り返し言えるだろう。

 口にすればするだけ自分の醜さがよくわかっていく、体中から吹き出す泥で足元がぬかるんで歩けなくなる、それをしたくないから二宮には会いたくない、けれど「親ほんと死んで欲しい」という言葉すら二宮なら笑い飛ばして言うだろう。悔しさでこぼす涙すら「何泣いてんの」と笑うだろう。そんなやりとりを、心底欲している自分がいる。

 中学の頃から変わらないのは岸さんだけだった。いや自分がすべてを取り違えていたのかもしれなくて、岸さんから見た新田は何も変わっていないのかもしれない。

「三十までに子供は産みたいんだけどね」と岸さんが言った。

「子供はねー、年取ると辛いからねえ」と新田が頷く。

 産みたいと思えるのがすごい、という言葉を言おうとしてやめた。自分には、子供を産むことよりも、叔母と同じように縊れる方がよほど容易にできる気がした。

 葬儀のときに千晴が「大変だけど、産んどいてよかったとは思うよ。早過ぎるのはアレだけど」と言っていたことに安心していたことを思い出す。岸さんの口にした最悪の予感が当たっていたとしても、千晴はこんなふうにはならない。柚木のようになることもない。


 突然鳴り始めた救急車の音に顔を上げると、川沿いの消防署で、救急車のエンジンが入ったところだった。救急車が通ります、という音声がして、白い車体がゆっくりと車庫から滑り出て、相模川沿いを北上していく。しょうぼうしゃッ、と慎治くんが言うのを、「救急車だよ」と訂正する。「違う、ピーポーはしょうぼうしゃ!」と地団駄を踏むのに、面倒くさいと思いながら「そっかぁ」と笑う。ちょっとそこ訂正してよ、と新田が言う。

 自分が乗った救急車も、柚木を運んでいった救急車も、ここから出たのだろうか。

 死んだ叔母も、病院に運ばれた。救急隊員が運んでくれたから、助かるんだと思った、と母が言った。物置のタンクに灯油を取りに行った母が見つけた。母は、仕事から帰ってきたばかりだった。

 それが決定打になったように、するりと家から抜け出せたのだと、その死の上に立っているのだと、そう思うから寄らなくてもよい実家に寄って、墓も位牌もない叔母の死んだ場所である物置に、線香を供えて手を合わせに行く。叔母の両親である祖父母の墓に、ごめんなさいと言いに行く。

 私も出たいと柚木が言った。マンションは狭いらしくて、柚木の自室は四畳半、母と弟と顔を合わせるのも気が詰まる。けれど一人は寂しいと、柚木はこぼす。家具とか全部ついた綺麗で広いところに引っ越したいという柚木を、ぼんやりと見下しながら、柚木の家にも決定的なことが起これば、上の弟がカーテンにつけた火がボヤで消されず部屋に広がっていれば、何かが大きく変わったのかもしれないと思う。けれど、それがよいことになるのか悪いことになるのかわからない。父親の死という決定打で動けなくなっている柚木なら、さらに落ちるだけかもしれなかった。

 けれど決定打というなら自分が、あのとき救急車に乗らなければ、とときどき思う。致死量だったというのが本当なのか大げさなのかわからなかったが、後遺症も何もなく、今、こうして生きていた。あのままバスターミナルの上で横になっていれば逃げ出せたのは叔母だったかもしれない、下の娘の子供を抱いて結婚式にいたかもしれない、叔父も従姉妹も泣かずに済んだ、父に向かうはずの怒りもなかった。望まれていた叔母が縊れて死んだ物置の前に、今日、自分が線香を立ててからここに来ることもなかった。

 そしてそれは柚木にしたって同じかもしれない。二人の弟にとって、引きこもりの姉を見ながら暮らすよりも、もしかしたら。

 川の方に駆けていく慎治くんを、新田が追う。岸さんは高野たちと話していた。

 川砂利の上に置いてあったビールは、倒れてほとんどこぼれていた。あーあ、と口の中で呟きながら、軽く振った。残りの中身を飲み干した。ビールは未だに美味しくなかった。今日来ていたら、柚木は誰と何を話しただろう。

 多分ネットで知り合った男と結婚して家を出て、適当に旦那の愚痴などを言いながら主婦をする、というのが柚木の「助かる」道だと思うが、本当にそんな幸運が起これば「なんであいつが」と思う程度には柚木の幸せを願えなかった。けれどそれは、そのまま自分に向けられる感情だったかもしれない。ボタンを一つ掛け違えていたら、「羨ましい」と言いながら、〇・一キログラムの評価にしがみついていたのは自分だったかもしれないし、それを見ながら「甘えている」と感じていたのは柚木だったのかもしれない。

 もし、生き残っているのが叔母だったとして、その方が誰も傷つかなかったと、夕日に染まる相模川を眺めて思う。

 夕日が、大山にかかっていた。山に沈む夕日を見るのは久し振りだった。小学校の窓から、中学の音楽室から、繰り返し見ていたこの景色は、今、柚木のいるベッドから見えるのだろうか。おばさんと、どんな話をしているのだろう。あの頃の自分が感じていたように、柚木も死にたいと思ったりしているのだろうか。柚木が死んだと連絡があっても、新田の再婚ほどのショックは感じないだろうし、それは向こうも同じかかもしれない、と柚木の顔を思い浮かべる。「交通事故で死んだあんたの同級生の奥さん、もう再婚したって」と面白そうに話した母のように、自分や柚木が消えたとしても、「やっぱりね、ちょっとおかしかったもん」と言われて、消費されていくだけだろう。だけど。

 川で死んだ子供は生きていたら二十になっていた。東名で死んだ子供は慎治くんより大きいはずだった。大伯母の言葉も、新田への思いも、きっと、薄れる、きっと弱まる。けれど、北くんや飯塚の不在は、静かに淀みの底に重なる。でもそれだって、ぬかるんだ感情が、人の記憶を、不在を、泥に変えてしまうだけかもしれなくて。

 見つめる夕日の眩しさに、目がちかちかとして、大山に背を向けて川を見つめた。自分の影が、巨人のように伸びて、首から先が川に沈んだ。大橋を、新宿へ向かうロマンスカーが走り抜けていくのを見て、慎司くんがまた歓声を上げる。その横で「ほんとだね、ロマンスカーだね」と教える新田の母親らしい姿に、思わず目を背けている自分が無様だ。

 幸福を、願える人間ならよかった。丁寧に、悲しめる人間ならよかった。

 柚木、私達は、こんなぬかるみのこころを抱えて、いつまで歩いていけるんだろうか。










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水鏡の澱(原稿用紙95枚) Umehara @akeri

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