番外編 本能寺の変
天正十年 六月
信長は京に入り、様々な仕事をこなしていた。
博多商人より名物を買い上げたり、茶会を開いたり、本因坊の碁を観戦したりと、比較的ゆったりとした日々である。
天下の趨勢はすでに織田に傾いており、東国は北条が武田攻めの際に兵を出すことを申し出ており、服属は時間の問題であった。また、伊達、佐竹などの大名家とも外交関係が結ばれており、敵対していたのは上杉家のみであり、越後一国の戦力では太刀打ちできないことは明白であった。
西国は、大友氏が誼を通じてきている。毛利とは秀吉が交戦しているが、高松城を取り巻き毛利の主力をその半数の兵で釘付けにしていた。
四国はこれより息子の信孝が丹羽長秀の補佐を得て兵を出す。数日後には彼らの出征を見送る予定となっている。
織田家はまさにこの世の春であった。そして、好事魔多しとの言葉通り、変事は六月二日払暁より起こった。
中国攻めの援軍を任されていた惟任日向守、すなわち明智光秀が突如軍を返し、洛中になだれ込んだのである。
曰く「敵は本能寺にあり!」と号令を発して。
「上様! 謀反にございます!」
「中将(信忠)か?」
「いえ、桔梗紋の旗印にございます」
「キンカンか……。是非に及ばず」
「上様、落ち延びられませ!」
「ふむ、いかようにしてじゃ? キンカンは長く洛中を任地としてきた。本能寺の備えについても知り抜いておろうが。あ奴はこのような時に手落ちはするまい」
「で、あれば……」
「お乱、槍を持て!」
「御意!」
「ふふ、舅殿も長良川で槍を振るったという。まさか我もそうなるとはのう」
「上様……」
覚悟を決めた表情の信長に森乱丸はなにも言えなかった。
「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの……」
静かな声で口ずさむ。そこには天下を制した覇王ではなく、一人の戦人の姿があった。
「ふふふ、尾張のうつけの死に狂い、見せてくれようぞ!」
信長の激に馬廻たちも喊声を上げる。その中には服部一忠などの、信長が若いころからともに戦ってきたものも含まれていた。
鬨を上げて明智の手勢が押し寄せる。鉄砲巧者の光秀らしく、巧みに弾幕を張って信長の手勢の攻撃を退け、どんどんと押し込まれていく。
本能寺は寺とはいえ、この頃の寺社はほぼすべて武装していた。平城に近い造りとなっている。だが明智の手勢は1万を超え、信長の周囲にいた兵は百余り。もはや絶望的な情勢であった。
「ふむ、ここまでか」
弦の切れた弓を手に信長が独りつぶやく。槍を持って敵兵と渡り合い、いくつかの浅手を負っていた。
「ふ、息が上がるわ。年はとりたくないものよのう」
「上様……」
周囲に控える小姓たちはこみ上げる涙を隠せず、嗚咽を上げる。
「ふむ、人間五十年と良く謡っておったが、あと一年及ばなんだか」
信長の独白を小姓たちだけが聞いている。死生を共にすると誓った主従であれば、すでに言葉は無粋とすら思われた。
「腹を切る。我が遺骸は断じて敵に渡すな!」
「「「はは!」」」
寺の本堂に足を向ける信長。そんな時だった。
「兄上!」
ここにいてはならないはずの声。織田の躍進を陰から支えていた弟の声だった。
「喜六!? なぜここにおる!?」
「ふふ、なんとなく虫が知らせたのじゃ。堺から義弟殿の手勢も迫っておるぞ」
「なに!? 家康の手勢は良いところ五百だろうが!」
「五郎左殿の手勢と合体して二条の城を取り巻く明智勢の背後を突いておる」
「なんと……喜六よ。いっそ我の代わりに天下を望むか?」
「滅相もない。天下人は兄上しかおらん! 勘十郎兄も三十郎たちもそう申しておる!」
「左様か。我は未だここで死ぬべきでないというのだな?」
「当り前じゃ! 日ノ本を一統し、帝から神に祭られるのじゃ!」
「またふざけよるか……こんな時であってもお主は変わらんな、喜六」
「ふふん、だから兄上も今まで通りじゃ。いざ行こうぞ!」
喜六郎は厩舎から信長の愛馬「ものかわ」をひいてくる。
木瓜の旗印を掲げた軍に攻撃され、明智勢は大混乱に陥っていた。
「っく、あの魔王に謀られたか!」
わずかな兵で京周辺は空白地帯になっていた。そんなさなか、ほぼ丸腰で信長が滞在している。まさに討ってくれと言わんばかりの有様だ。
しかし、京に侵攻してわずかな時間で堺にいた丹羽勢をはじめ、京周辺から信長の連枝衆が兵を率いてやってきた。
信長の義弟で、最大の同盟者たる徳川家康も同時に討ち果たし、畿内を押さえることができれば光秀の天下の目もあったのである。
だが、彼は知る由もなかった。未来から来た喜六郎秀孝と家康の中にいる松平葵の存在を。光秀を討ったのは京郊外に手待ち伏せしていた徳川勢であったという。
かくして、織田政権は一度の大きな危機を乗り越え、より強固な形となって存続した。日本を統一し、近代化を果たしたことで織田信長の名は日本最大の偉人として伝わり、幕藩体制が終わりを告げた後も、時の天皇によって京郊外に社が立てられ、神として祭られたという。
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