耳目を失った軍は淡雪のように溶け消える

 朝比奈勢の士気は高かった。先日の敗戦で責を負ったのは事実である。そして人質交換でその身柄と引き換えに松平の人質の多くを開放することとなった。

 竹千代の身柄を要求して、断られたため、ほかの家臣の一族を開放させたのである。まあ、ここら辺は駆け引きだ。

 さて、そういういきさつがあったため、朝比奈の名は地に堕ちたと言っていい状況だ。そりゃ汚名返上に躍起になるか。


「吉田城を出た敵勢はこちらの村落を焼き討ちしつつ進撃しております」

「なんだと! 許せぬ!」

 俺はまず領民の救助の指示を出した。服部党を中心に情報を集めさせることも目的である。

 もともと情報収集のための間者は多く放っていた。彼らには情報を集められなくとも、帰還すれば褒美を出すと伝えている。また、当家に所属し、忠誠を誓うならばと決まった額の俸給も出していた。

 家族を呼び寄せ、定住するならば、領民として認め、保護する旨も伝えた。

 これにより伊賀より保長の伝手で多くの間者働きのできる者を雇い入れることができた。

「間者こそ軍の要である」

 俺のこの方針は、尾張での成果によって不動のものとなっていた。

「補給を整え、情報を集めれば百戦するも危い状態になることはない。勝てない敵を避け、敵の弱きを衝く。さすれば負けることはない」

「お主らが情報を手に入れてくれることにより、わが軍は負け知らずとなろう。故に命を惜しめ。帰還せぬ間者は何ももたらさぬ。「情報を探れなかった」これも情報である。ゆえにまずは無事に帰ることを心掛けるのじゃ」

「当家は有能な者を求める。ゆえに出自は問わぬ。俺の前に才を示すのだ。さすれば流民であろうが農民であろうが身分と地位を与える」


 この宣言は戦国時代では破格のものだ。と言ってもすでに吉殿が尾張でこの布告を出し、滝川一益殿のような人材を得ている。

 故に、当家でもと思った次第ではある。譜代家臣をないがしろにするのか! と不満の声が上がっているようだが、譜代意識だけが強い戦バカは要らない。

 文官も育成を急がねばならないが、一朝一夕になることではない。まあ、俺もまだ子供だしな。焦らずに行こう。


 さて、ここで話を戻す。俺は軍勢を率いて岡崎を出た。吉殿は本陣に詰めてもらうが、手勢は岡崎の留守番にしてもらった。織田の援軍を得て勝ったということでもよいが、松平宗家としての勝利を得ておくに越したことはない。ちとギャンブルではあるが。


 岡崎の東で敵軍を発見した。こちらの兵は敵とほぼ同数。真正面から戦えば五分五分だろう。今川は強国だけあって兵も精鋭だ。三河兵も精強であるが、部隊としての差配は今川の方が上だろう。


「保長、報告せよ」

「はっ! 岡崎に向け進軍中です。岡部の手勢も加わっている様子にございます」

「なればこの先の平野で迎え撃つ。先陣は平八郎、お主じゃ!」

「はっ!」

「右備えは忠次、お主に任す。あちらの林に伏せよ!」

「はは!」

「左備えは忠員。そなたじゃ。忠次が突っ込んだらお主は敵の後背を突け!」

「そして平八郎。お主がこの策の要じゃ。負けろ」

「はは……はあ!?」

「話は最後まで聞け。敵を誘い込むのじゃ。この任はかなり厳しいものとなる。故にお主に任すのじゃ。当家の先駆けたるお主にじゃ」

「はっ! 命に替えましても!」

「タワケ、こんな小戦でお主を失っておったら割が合わんわ。天下分け目の決戦までその命はしっかりととっておけ!」

「は、ははっ!」

「さて、ホラも吹いたし後は勝つだけじゃ。皆の者、励め!」

 俺の大法螺に家臣どもは噴き出すものもいた。命がけの戦の前だが、笑うことで緊張をほぐした。これで少しでも有利に戦えればいい。

 そうして一人でも多くの将兵が生きて戻ることができたらいい。戦国の世に生きる者としてはあまりに生ぬるい考えかも知れない。だが、一人でも死ぬ者を減らすことができればいい。まずは味方から。そして力をつけ、戦わずして勝つことができるようになれば、敵すらも救うことができる。

 甘いと言われてもこのことだけは譲ることはできないな。などと考えていたら、口から考えが漏れていたらしい。

 だから照れ隠しの意図である。他意はない。とりあえずニヤニヤしている吉殿の足を思い切り踏みつけたのだった。


 戦いは順調にというか、想定通りに進んだ。「小童が率いる軍などひと思いに踏みつぶしてくれよう!」とばかりに突撃してくる。

 彼らはこちらの軍勢はどれくらいか把握していなかった。だから、平八郎の率いる兵と、俺の本隊を見て、それだけだと思い込んだ。

 罠を想定することなく、無防備に突撃してくる。平八郎は一当たりして徐々に退いて行った。見事な采配だ。

 忠勝も良き武者であったが、父も劣らぬな。損害をを最小限に抑えつつ撤退戦を見事に指揮していた。

「ほほう、さすがは本多よ。佐久間に優るとも劣らぬ」

「ふふん、うちの家臣もやるでしょうが」

「心強い限りじゃ。しかし、鬼神のごとき槍よ。鬼の平八郎じゃな。今後あ奴を鬼平と呼んでやるがよい」

 どこの南町奉行ですか!?

「はは、それはありがたきお言葉。平八郎に伝えれば喜ぶことでしょう」

「あれほどの武者を従えるは部門の面目と言うものじゃ」

 などとのんきに話しているが、半ば以上演技である。大将がどっしりしていないと、兵は安心して戦えない。

 実際見ていると危い場面がいくつもあった。平八郎の采配が際立っているので崩れてはいない。しかし、徐々に押し込まれ苦戦しsている様が見て取れる。

 しかしここで本隊を投入してしまえば、伏兵の意味がなくなる。よって、誘引予定地点までは怖気て動けないふりをした。


 そして平八郎の忍耐の采配はいよいよ実を結ぶ。俺は本体の兵五十ほどを敵の側面に送り、鉄砲を放たせた。

 それにより敵の耳目がそちらに向く。銃撃で損害を出させようとは思わない。これは囮であると同時に、合図でもあった。

「いまじゃ、我に続くのじゃ!!」

 松平の宿将たる酒井忠次の采が振られた。雪崩を打って鉄砲隊の反対側から襲い掛かる。敵将の注意が酒井隊に向いた。そこで再び銃声が響く。これは本陣で空砲を放ったのだ。

 再びの合図に大久保隊が、敵の側面を突く。敵は二方向から攻められ混乱していた。本隊に配備していた弩兵に一斉掃射をさせる。これにより、敵正面に空いた穴に兵を突入させた。

 朝比奈勢は四分五裂の有様である。岡部元信の懸命の反撃で、敵将は取り逃がした。しかし、兜首を多くとれたことは、中級以上の指揮官を多く討ち取れたということだ。これで今川の片翼をもぎ取ったとは言わないが、大きな打撃を与えたことは間違いないだろう。

「これが釣り野伏せりか。凄まじいな。我でもああなったら首を取られる覚悟が要りそうじゃ」

 吉殿の独り言が、兵のあげる勝鬨よりも耳に残った。

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