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本当に、突然の出来事だった。
合宿から帰ってきて、冬休みが終わり、俺の原稿ももうすぐ完成するという時、
霞音が部室で倒れた。
事態は深刻だった。
小説や漫画などの物語には『伏線』というものがある。
結末の手がかり、事件の糸口、展開するための下準備。
「こうなるかも」という予感を、物語は俺たちに与えてくれて、心の準備をさせてくれる。
だから、前触れもなく主人公やヒロインがいなくなったり、登場したことのない人物が事件の犯人として登場すると、それは『駄作』だと罵られる。
全くもって、勝手な話だと思う。
じゃあ、
現実でも、大震災が起こる前に伏線を張ってくれよ。
現実でも、犯罪を起こした人間は全員解明してくれよ。
現実でも、もうすぐ死ぬ人がいるなら、伏線を張って心の準備をさせてくれよ。
目の前には、病室のベッドで横たわる霞音。
現実と小説、どちらが奇なのか、そんなことはもう俺にはどうでもよかった。
ただ、
小説よりも現実の方が遥かにクソなのだと、俺は思い知ったのだ。
「母親と、同じ病気だそうだ」
芽衣ちゃんの声を聞きながら、あの、優しい顔を思い出す。
亡くなる直前まで、まるで本当の母親のように俺にも愛を振りまいてくれていた。
昼陽中
それが霞音の母親の名前だった。
覚えたところではどうしようもない病名なんか、覚えたくなかった。
でも彼女は、何も隠さなかった。幼い俺たちに全ての真実を話した。
治ることのない病気のこと、
それがそう遠くないうちに死を招くこと、
別れがすぐそこまでやってきていること、
包み隠さず、ごまかさず全てを知らせ、それでも笑っていた。
現実を受け止められない霞音は、俺と2人で行っていた見舞いに、すぐにこなくなってしまった。
そのまま学校にも行かなくなり、部屋に閉じこもってしまった。
まるで、今の俺みたいだった。
「親と子供が同じ病気になるのは、ないことじゃない。霞音は——」
聞きたくなかった。
真実なんてこの世界にない方がいいと、本気でそう思った。
病院にはもう行かないと決めた。学校にも行く必要なんてない。
あの頃の霞音と違って義務教育ですらない。
文芸部の存続なんて、もう、俺しかいないのだから、どうでもいい。
自分で書いた原稿を全て破り捨てて、パソコンからデータも全て消した。
自暴自棄だと、自分で自分を判断してしまう賢しさすら、苦痛でしかなかった。
心羽は何も言わなかった。
毎日、学校に行って飯を作っていた。
薄情なやつだと思った。なんで、そんなに普通にできるんだ。
芽衣ちゃんだって毎日学校と病院にかかさず行っているらしい。
なんでそんなことができるのか、本気で理解できなかった。
そうか、
みんな、きっと心のどこかで霞音なんかどうでもいいと思っているんだ。
大切だと思っていたのは自分だけなんだ。
きっと俺だけが、霞音を大切にできるんだ。
今ならわかる。自分だけが、彼女を愛してあげられるのだ。
そうだ。きっと、そうだ。
俺はこの物語の主人公でもないし、霞音がこの物語のヒロインでもない。
2人とも、その他大勢のモブなんだ。
だからひょっこり死んだって誰も見向きもしてくれないんだ。
だからそれでも世界は回るんだ。
…………………………。
あれから何日が過ぎたのか、もうしばらく前からわからなくなっていた。
気がつくと俺は、自分の部屋にある彼女の原稿を何度も読み返していた。
彼女の作り出した文字列に陶酔するように、何度も、何度も。
そこには彼女がいる気がして、そして決して消えない気がして。
その原稿を、今なら暗唱できるのではないのかと思うほど、読み尽くした。
ある日突然、神経に電源が入ったかのように、突然喉が乾いた。汗だくな気がした。
原稿から顔を上げ時計を見ると13時だった。
果たして何曜日なのはかわからなかったが、物音がしないから心羽は家にはいないのだろう。
部屋を出て、冷蔵庫を目指す。中にめぼしいものはなかった。
水道水を飲む気にもなれない。外に出る決意をする。
財布だけを持って家の近くの自販機を目指す。
玄関を出て、久々に太陽の光を浴びる。
寒いのか、暑いのか、よくわからなかった。
身体が突如、浮遊感に襲われた。
……意識は、そこで途切れた。
◆ ◆ ◆
ファンタジーを一番現実的に体験する方法が、これなのかもしれない。
自分がいつ死ぬかなんて、みんな知らない。
でも、だいたいだけど、私は知っている。
それはこのどうしようもない現実の中で、唯一ファンタジーなことなのかもしれない。
抱え切れないほどの悲しさと虚しさの中に混じる、少しだけの浮遊感。
まるで、今この身体がここに無いような、意識だけが世界をふらふらと漂っているような、そんな感覚。
そんな非日常を受け止め、そして陶酔できたら、どれほど楽なのだろうか。
病室の窓から外を眺めながら、母の顔を思い出していた。
今なら、あの時、母親がどれほど辛かったのか、そして優しかったのかが分かる。
そして、同時にあの頃の自分がどれほど愚かだったのかも、嫌という程、思い知らされる。
「……馬鹿尋翼」
私は、今の彼の気持ちが痛いほど、わかる。
会いにきてくれないのも、私が母にしてしまったことと同じことだから。
だから、責めることなんてできない。
でも、
私は、彼に会いたかった。
きっとそれは同じように私に会えなかった、母も、そうだったのだろう。
…………ああ、馬鹿は、私だ。
「霞音」
ノックとともに姉さんの声が響く。仕事が終わると毎日ここに来てくれていた。
私はそれに応答して、姉さんを病室へ招き入れる。
「どうだ、具合は」
「うん。今日は、そこそこいいかも。……尋翼は?」
「いや、今日も学校には来なかった……」
やっぱりかと顔を伏せると、姉さんの話は終わっていなかったらしく、妙に歯切れ悪く言葉を続けた。
「来なかったんだがな……それが、そのな……」
「……どうしたの?」
「その……怒ってやるなよ?」
そういうと、姉さんの口から、想像もしていなかった事実が告げられる。
◆ ◆ ◆
「馬鹿尋翼!!!!!!!!!!!!!!!!」
一番聞きたくて、一番聞きたくなくて、一番心地いい罵倒が俺に向けて放たれた。
その声で、意識は覚醒する。
「あ……?」
目を覚ましたのは、病室だった。
「……え……?」
記憶が混濁している。
「お前はぶっ倒れて病院に運ばれたんだよ。栄養失調でな」
事態を把握できない俺に助け舟を出したのは、芽衣ちゃんだった。
「まったく、どんな生活してたんだ」
呆れるように吐き捨てる芽衣ちゃんの横には、顔を真っ赤にして大層ご立腹の霞音がいた。
「…………」
「……いや、えっと……」
「ばかあああああああああ!!!!」
罵倒とともに飛んで来た手のひらに打たれ、俺はまた気を失いかけた。
芽衣ちゃんに促され自分の部屋に戻っていく霞音を何も言えず眺めていると、医師がやってきて事情を説明してくれた。
俺は、ずいぶん長い間、ろくに食事も取っていなかったらしい。心羽が用意してくれた飯もずっと突っぱねていたのだ。そう言われればそうだったような気がするが、正直長い間正常な思考が働いていない。医者にはずいぶん怒られたが、今日だけ入院して明日には退院できるらしい。
霞音がいたのは、偶然にも搬送された病院が霞音の入院していた病院と同じだったからだ。
それからしばらくしないうちに、息を切らして現れた心羽にまたこっぴどく怒られた。
「……本当に、お兄ちゃんまで倒れたら、そりゃ霞音さんも怒るよ」
霞音の平手打ちはずいぶん効いたらしく、俺は少しづづ正常に物を考えられるようになってきていた。
「…………」
「ま、これで少しは目が覚めたでしょ。まったく、心配させないでよ」
「………………すまん」
「ん。許したげる。あとで、霞音さんの部屋にも行って謝りなよ。ここ数日は体調がいいらしいからお話ぐらいはできると思うよ」
「……ああ」
お話どころか、見事な打撃を受けたからな。
心羽が帰った後、重い足取りで霞音の病室へ向かう。
一瞬ためらったが、もう2度と来ないと決意していた部屋のドアをノックする。
「……どーぞ」
無言で部屋に入ると芽衣ちゃんはもう帰っていたらしく、霞音が1人ベッドで読書をしていた。
「…………えっと、その」
うまく言葉が出てこない。というより、どんな言葉を放ってもそれは不正解なような気がした。
「………………」
しばらく沈黙が流れた後、先に口を開いたのは霞音だった。
「……ごめんなさいは?」
まるで子供に説教するように、霞音は謝罪を促す。
「……ごめん」
顔も見れないまま、俺はそう絞り出すようにいう。
「…………ん、許す」
「……すまん」
「あとね、」
「……なんだ?」
「……私も……ごめんね」
「————え?」
思わず、顔を上げる。
そこには悲痛な面持ちで、俺を見る霞音。
「……こんなことになって、ごめんね……、辛い思いさせて、ごめんね」
今にも泣き出しそうなその表情を、直視できなかった。
そんなこと、霞音が謝ることじゃない。
「そんな……辛いのは、俺じゃなくて……」
……ああ、
…………ああ、そうだ。
………………そうだったんだ。
「お前、だろ」
とっくに、気づいていたのに、
頭では、理解していたのに、
何を、甘えていたんだ、俺は。
自暴自棄になって、自分に酔って、しまいには霞音に責任を押し付けて、
「…………本当、俺、なにやってんだろうな」
「……しょうがないよ、尋翼は悪くない、誰も、悪くないんだから、だからどうしようもないんだよ」
霞音は、そういって笑った。
「ねえ」
「……どうした?」
「私の、宝物、あげる」
そういって差し出して来たのは————、
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