SSシリーズ

森村直也

壁の向こうの底の僕ら

 最果ての場所だと誰かが言った。最果ての場所だと僕も思った。一緒に連れてこられた僕らは皆、似たようなことを考えていた。

 社会の底さ。言ったのは誰だったか。僕の隣に座るやつか、その隣のやつだったか、向かいで蹲るやつだったか。それとも僕か。社会の底だ。世界の底だ。ため息のようにこぼれた言葉が広がっていく。最初に言い出したのが誰であっても、僕らは皆さざなみのように呟きあった。

 社会の底。世界の底。これ以上どこに行くこともなく、行かされることもなく。何をするでなく、何をさせられるでもなく。生み出すこともなく、生み出す力もなく、情熱もなく。

 あたたかいと思っていたんだ。どこから生まれた言葉だったか。

 おとうさんもおかあさんもあたたかいと思っていたんだ。でもおとうさんはおかあさんに冷たくて、おかあさんはおとうさんに冷たくて、あたたかかったのに、冷たいんだ。

 同じだと幾つも声が上がる。ともだちはあたたかいと思ったんだ。せんせいはあたたかいと信じていたんだ。

 あたたかかったはずなのに。あたたかいと思っていたのに。

 あたたかさは消えて行き、僕らの熱は吸われて行き。いつしか声を失った。声をなくし、表情のない笑顔を貼り付け、ながされ、たゆたい、ここまで来た。

 同じだね。誰かが言った。同じだね。誰かが返した。最初に言い出したのは僕の隣に座るやつか、その隣のやつだったか、向かいで蹲るやつだったか。それとも僕か。


「降りなさい」

 声に誰かが立ち上がった。また一人誰かが続いた。程なく全員が立っていた。僕も。

 バスに乗っていたとぼんやり思う。降りるとき、誰もが車体を振り返った。バスに乗っていたと感慨にふけるでもなく思ったのだろう。

 目の前には曇り空に沈むコンクリートの壁があった。いや、窓がある。大きな建物なのだろう。ここに入るのか。皆が壁を見上げていた。僕も壁を見上げていた。最果ての。底が吹き溜まる場所には似つかわしい、装飾も個性も感じられないコンクリートの建物だった。

 ため息の一つも聞こえては来なかった。こんなもんだろう、僕も思った。

「君たちはここで生活する。知識を学び、思考を知れ。常識を身につけ、やがて社会に帰るのだ」

 ようこそとか、歓迎する、とか。

 そんな言葉は一切、なかった。


 *


 起床は七時。授業の時間は九時から五時まで。昼休憩は一時間。食事は朝昼晩と食堂で取る。授業が終われば自由時間。勉強するもよし遊ぶもよし。テレビもインターネットもないけれど、本は図書室に山ほどあった。

 図書館に出入りする人は少なくなかったように思う。対して、大声上げて遊び回るような人は見なかった。

 制服含めて衣服に日用品は支給。不足や不具合があれば申請する。

 壁の中には『先輩』がいた。僕らは『先輩』に倣い、生活に馴染む。彼らは『先輩』ではあったけれど、『先輩風』は感じなかった。

 ここは社会の底なのだから。彼らは口癖のようにつぶやいた。どう足掻いても底なのだから。上も下もないのだから。

 みんな同じ。みんな同じ。情熱を奪われ、努力を奪われ、表情をなくし、言葉をなくし。個性を失い、行くあてもなく。


 僕に割り当てられた部屋は203号室だった。多分。きっと。そうだったろう。

 四人部屋で、同室はみな『先輩』だった。確か。きっと。間違いなければ。

 実際間違った部屋に入ったとしても追い出されはしなかったろうし、同室者が異なっていても気づく自信は僕にはなかった。

「勉強はわかる?」

 それでも。聞き慣れた声だったから。

 顔を上げると、柔らかい目が語りかける。

「わからなかったら聞いて。一人だけわからないのはつまらないでしょう?」

 みんな一緒に。出る杭は出たところを振り分けて。低い杭なら持ち上げて。みんな一緒。みんな一緒。

 こんな場所に来てしまった僕らだから。優劣も貧富もなく。みんな一緒。

 それに。

 言葉は続く。

「勉強は楽しいよ」

 あるかなしかの笑顔が覗く。社会の底から世界の底から、見上げる空が広がっていく。


 *


 卒業は同期全員一緒だった。いつの間にかの卒業だった。『先輩』は順に卒業していき、順当にこの日を迎えた。多分、そうだ。

 雪を花を深緑をきつい陽射しを落葉を幾度か見た。『先輩』が抜ける度に『後輩』が入ってきた。そう思う。同室の人数はいつも同じだったから。

 僕らは互いに互いを覚えなかった。熱を失い、生み出せもせず、壁の中でたゆたう僕らは、個性もなく、外で生きるためだけに学び。

 だから、見分けなどつかなくて。


 教師が窓の外を見る

 幾人かが教師に続き、幾人かは微動だにせず。

「君たちは理想的な『人』となった」

 喜ぶとか、褒められてはにかむとか。

 やれと言われれば出来なくもなかった。それだけの勉強はしてきていた。

「君たちを閉じ込める檻はない。君たちを閉じ込めた親も、兄弟も、親戚も、隣人も、義務教育もない」

 教師は僕らへ振り返る。並ぶだけ、見分けなどつかないだろう僕らの顔を一人一人見回して。

「君らは一人で全員でもある。社会に出て、君たちとして暮らして欲しい」

 桜は終わりと始まりのアイコンでもある。

「卒業だ」

 行ってこいも、おめでとうも何所にもなかった。


 *


「同じ教育を受けたものは同じ価値観を持ちやすい。個性豊かであれば個性による揺らぎが、バラバラの性質をもたらしてしまう」

 フェルミ粒子のようにね。

 くつくつと笑う学者の後ろでは、スクリーンセイバーが飛び出す円弧を描き出す。

「ボース・アインシュタイン凝縮は超伝導を起こすこともある。条件を整えれば超臨界流体にも」

 ――超臨界流体?

 マイクを向けるフリーライターへ学者はニヤリと口元を歪ませる。

「比喩だよ、比喩。しかし――」

 ――しかし?

「ボース統計に従うかのように完全に『社会的』な『彼ら』がこの国を覆っていくのだよ。鳥肌が立つほど愉快じゃないか!」


 *


 社会の底。世界の底から、解き放たれた僕たちは――。


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お題リクエスト:はっけい様

お題:ボース・アインシュタイン凝縮

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