26
昔と現代、地上と海底、お葬式の作法が変わればお風呂の入りかただって変わる。
なんて、昔のことを考えてしまうのは、ベルがいつまた太陽のことを言い出さないか心配だからだろうか。
ねぇ、知ってる、ベル?
いまベルがわたしの背中をカイロウドウケツのスポンジで流してくれてるけど、その海底生物、昔は仲睦まじいパートナーの象徴だったんだって。
「昔はね、誰かといっしょにお風呂に入ることを裸の付き合いって言ったんだ」
向かい合って湯船につかると、ベルは指先だけを湯から覗かせてぱしゃぱしゃとはねた。真っ白な指先が湯気にとけてしまいそうだった。
「裸の付き合い? わたしたちがやってるこれのこと?」
「そう。昔はね、ひとりでお風呂に入ることが普通だったの。だから、誰かといっしょにお風呂に入るっていうのは、ある意味で特別だったんだ」
わたしもベルのマネをして指先を出したら、何かが引っ付いていた。目を凝らすと水色の細長いもの。ベルの髪の毛だった。けれどもう一本ある。湯気に紛れて見づらいけれど、ベルのよりいくらか短くて、真っ白な髪の毛。わたしのものだった。
水色と白、二本ががっちりと絡まっている。
「どうして昔はひとりで入ってたの?」
「昔、というよりいまは、って言ったほうがいいかな。どうしていまはツーマンセルでお風呂に入らなきゃいけないのか。燃料とか水がもったいないでしょ? いっしょに入れば、どっちも節約できるじゃない」
「そっか。あ、でもさ、ここ海底でしょ? 水なんてたくさんあるのに、節約しなきゃいけないっておかしな話だよね」
「塩水で体洗いたい? 目に入ったらすごく痛いよ。髪の毛もきしきしするし」
「それは嫌かも……」
「海水から塩分を抜き取るのだって簡単じゃないってこと」
塩だけじゃない。海水にはヴァスィリウスの体液とかも含まれている。
なるべくなら触りたくはない。
いや、塩分とかはどうでもいいの。
「だからいまでは当たり前だけど、昔は裸の付き合いって特別な意味を持ってたの」
「どんな意味?」
「それだけ信頼し合える関係、ってとこかな。裸って、やっぱり無防備だから」
自分の無防備な姿をお互いに晒し合える関係。もしかしたら微妙に違うかもしれないけれど構わない。ベルにもわたしにも正解かどうかなんて確かめられないんだし。
「そっか。じゃあ、わたしたちのことだね」
ッ――!
電撃が走ったみたいに体が震える。水色の視線がまっすぐ貫いてくる。
その無邪気さに恥ずかしくなってすぐに視線をはずしてしまった。
お湯のなかをあてもなく泳ぐわたしの視線。
「そ、そうだね」
いや、ベルはおかしなことは言ってない。
海上に行きたい、太陽を見たい、なんてわたしに言ってくれたのも、わたしのことを信頼してくれているから。わたしだってベルのことは信じている。本当に海上に行きたいのなら方法はいくらでもある。そんなことはしないだろうと信頼している。
それ以上に、ベルがわたしをそこまで信じてくれていることと、お互いの関係を信じてくれていることが嬉しくて、恥ずかしくて、頭が熱くなってくる。
「は、裸の付き合いで聞くけど、ベル。太陽を見たいっていうのは落ち着いた?」
恥ずかしまぎれの問いかけ。
んー、と逡巡する素振りはあったけれど、すぐに暴走することはなさそうだった。
最初に言い出してから早くも二週間。
わたしのほうに進展はないけれど、ベルが落ち着いているなら何よりだ。
「もし我慢しきれなくなったら、ちゃんと言ってね?」
「裸の付き合い?」
「そう。裸の付き合い」
安心したのもつかの間。
「えへへー、裸の付き合いー」
「ちょ、ちょっと!」
湯船のなかでベルが抱き着いてくる。
わたしより育った胸元、わたしよりふっくらした太もも、わたしよりメリハリのある体つき。ベルの素肌はすっごくやわらかくて吸い付いてくる。
「いろいろ、いろいろ当たってるから!」
「別にいいじゃん、減るもんでもないし」
「お湯が減っちゃうの!」
顔が近い。匂いが近い。
息が耳の穴にじかに入ってきて脳みそがくすぐったくて――
――――――――
――――
――
気が付くと自室にいた。
「ご、ごめん、シリウス。のぼせるなんて思わなくて……」
「だ、大丈夫大丈夫、こっちこそごめん……あはは……」
「えへへ……」
ベルの苦笑いを見上げる。後頭部にベルの太ももを感じながら、ファイルであおいでもらう。まだふらふらする熱っぽさに、涼しさが心地いい。ついでにと言わんばかりにベルは、空いているもう片方の手でまだ濡れそぼっているわたしの髪を梳く。頭の感触だと無造作にわしゃわしゃされているだけなのに、あっという間に乾いていく。何かコツとかあるんだろうか。
「もう大丈夫だよ、ありがと」
「ほんとにごめんね」
「いいのいいの」
ずっと膝枕されているわけにもいかないので、後ろ髪を引かれながら起き上がる。
顔を洗ってすっきりしてしまいたかった。
洗面台の前に立つと、もうひとりのわたしが見返してきた。鏡よ鏡。
垂れ下がった前髪の奥にある、落ち窪んだ眼。相変わらず上下の瞼がひどい色をしている。髪も瞳も真っ白だから、クマは余計に悪目立ちする。ちょっとでも綺麗になればと水をかけてみるけれど、むしろ悪化したような気がした。
「あ、前髪がまた濡れてる」
「……」
「梳かないと癖ついちゃうよ」
「……」
ベッドに戻ったらまたベルに引っ張られて、前髪を乾かされて、櫛を入れられる。名前も知らない深海魚の骨で作られた櫛。痛くはない。人形になった気分だけど心地いい。このまま眠ってしまいたくなる。抗いようのない幸福感。目の下のクマとか、髪を乾かすのが下手とか、そういうのは些細な問題。
幸せな気持ちになりながらふと、レグルスの顔が浮かんだ。
レグルスはいまごろ独りなんだろうな、と思った。
わたしがベルといっしょにお風呂に入って、いっしょに眠るように、レグルスはアルと生活を共にしていた。そのアルは、いまはいない。
レグルスが誰かと、生活のためのツーマンセルを新しく組むという話は聞いていない。毎日毎日長い時間をいっしょに過ごすのだから、相手探しは慎重にならざるを得ない。そして、いっしょに過ごせるほど相性のいい相手が、都合よく独りぼっちになっているわけがない。
そもそも、ツーマンセルは遺伝子によって定められている。オケアノスの操縦に耐えるための遺伝子操作があるなら、生活をスムーズに送るための遺伝子操作だってある。仲の良い生活共同体は、人為的に構築されたもの。わたしたちの人間関係は綿密に計算された網みたいなもので、どこかをずらしてしまうとすべてがうまくいかない。穴は放置するしかない。
手を加えられた信頼関係、なんて言ってしまうとものすごくきな臭い。
けれどベルとわたしの裸の関係は、遺伝子操作のうえにわたしたちが積み上げたものだと信じている。この信念すら遺伝子操作の結果だとしたら、と考えると怖くなるけれど。
いや、そんなことはどうだっていい。
ベルに髪を梳いてもらっているこの時間は幸せだ。ベルといっしょの時間が、これからもずっと続いてくれることだけを、とにかく考える。
「シリウス、眠くなってきた?」
「うん。ちょうどいい感じ」
「寝よっか」
「そうだね」
「あ、寝る前にひとつだけ、いいかな」
髪も乾いて、くしゃくしゃに折れた毛布を伸ばしていたら、ベルが思い出したように言った。隣のベルはとっくに毛布にくるまっている。折り目のない綺麗な毛布。
これなんだけどさ――、とベルが取り出したのは、黒い物体だった。入眠を促す青いライトに照らされて、まるで宝石みたいにキラキラ光っている。完全に油断していたわたしは、我が目を疑うしかなかった。胃が縮み上がって痛いくらいだった。
「それ、黒曜鱗じゃない。どこから持ってきたの」
黒曜鱗。ヴァスィリウスの屍から採取できる真っ黒な鱗。でもただの鱗じゃない。石炭や石油をはるかに凌ぐ高効率のエネルギー源。いまの人類はほぼ百パーセントのエネルギーをこれに頼っている。それくらい重要で貴重なもの。
「二か月くらい前かな。回収のときに、ぱぱっとね」
「職権乱用ってわけ」
「まぁね……あはは……」
「笑い事じゃないって」
まさかそんなに前から隠し持っていたなんて気づかなかった。気づけなかった。
わたしの不安を映すように、黒曜鱗の固い表面は怪しく輝いている。
「どうしてそんなこと……」
「これがあればオケアノスだって動かせるんでしょ? うえに行ったとき、もしエネルギーが切れたらどうしようって思って。予備で持ってたら安心」
「そうだけど、いくらなんでもやりすぎだよ」
海底という資源の限られた環境。燃料は何より大切だ。個人がもっていい代物じゃない。規則にだってそう書いてあるし、回収係とはいえベルも例外じゃない。
「内緒にしてね」
でもそれを裁く権限を、わたしは持っていない。わたしは戦闘指揮官で次期艦長だけど、それ以上にひとりの子供。権限は大人の持ち物だ。だからわたしには報告することしかできないけれど、次期艦長としての倫理観と、ツーマンセルとしての友情、どちらが勝つかは明白。
告げ口はしない。微妙な立場なんだ、次期艦長ってやつは。
ため息をつきながら、わたしも毛布にもぐりこむ。
「……仕方ないなぁ」
「さすがシリウス。そういうわけだから、これ、シリウスに渡しとくね」
「話が見えないんだけど」
毛布の下、訝しむわたしの手にベルが黒曜鱗を押し付けてくる。
渡したことを確認するように、黒曜鱗を握ったわたしの手を包み込んでくる。
「わたしが持ってたら、またうえに行きたくなっちゃうかもしれないし。でもシリウスが持ってたら、勝手に行けないでしょ。シリウスがうえに行きたいって思ってくれたときに持ってきてくれたら、いつでも連れて行くよ」
つまりベルは、海上に行くかどうかの判断もわたしに委ねてくれたことになる。
これが抑止になるのなら、受け取らない理由はなかった。
「ひとつだけ。だから、大事にしてね」
「うん、わかった」
嘘をついているような瞳の色ではなかった。
透き通った水色の瞳が、光の加減で濃い色をしていた。
「まぁ、わたしからうえに行きたい、なんて言い出すとは思えないけど」
「そう言わずにさ」
悪戯っぽく笑って、ベルは目を閉じた。
「ふぅ、すっきりした」
「じゃあ、今度こそ寝よっか」
「うん」
黒曜鱗をお尻のポケットに入れて、枕元にある入眠装置のスイッチを入れる。
発生した電磁波が神経に作用して眠気を誘ってくる。一気に瞼が重たくなった。
「おやすみ、シリウス」
「おやすみ、ベル」
ゆっくり瞼を閉じると、お尻の下で黒曜鱗が叫んでいるような気がした。
そうだ――。わたしは重大な見落としをしている。
ベルが黒曜鱗を手に入れたのは二か月前。そのときアルは元気だった。アルが死んだのは二週間前で、倒れたのは三週間前。二か月前は体調不良の兆候すらなかった。
アルが倒れたとき、ベルは黒曜鱗を持っていた。海上に行きたいという思いを抱えていた。少なくとも二か月以上前からベルは太陽を見たいという願望を抱いていた。
そこに、アルの死は関係ない。
わたしがずっと考えていたこと。
アルの死がベルに影響を与えている。不安定なベルを守らなくちゃいけない。
それらは表面的なことだった。
なんて情けない。
ベルの思いは、わたしが思っているよりもはるかに深かったんだ。
わたしは、ベルのことを全然わかってあげられていないんだ。
もっと、ベルのことを考えないといけない。
もっと、ベルと向き合わないといけない。
それこそ、この命に代えても――
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