第2話 弱くて、ちっぽけな
『目覚め』は、俺にとっていまいちピンとくる言葉じゃない。
『目が覚める』のは、目が見える健常者だけだと思うから。俺がその『目覚め』を感じるときは、耳からだったり、鼻からだったり、手足からだったりするけれど……断じて、目からだけはあり得ない。
「ケルン? 起きてる?」
こんこん、と木製の扉を叩く音と母さんの声音で、意識が覚醒した。
今日はどうやら、寝すぎてしまったらしい。
「……ごめん、今起きた」
「着替え、持ってきたから。入るね?」
そんな声が聞こえてきて、がちゃり、と部屋につながる木扉が開かれる音がした。
俺は手探りで、自分が
落ちてしまわない様に体を移動させて、寝台の上から、ゆっくり床に足を付ける。
「はい、着替えだよ」
俺の膝の上にポンと、軽い布が置かれた感触がした。母さんはそのまま、俺の手を置かれた服の上に移動させて、感触を確かめさせる。
「今日は、とってもいい天気なんだよ? 窓、開けておくからね」
「ありがとう、母さん」
がちゃがちゃと、母さんが俺の部屋の窓鍵を触る音。
やがて、ぎぃぃと、軋むような窓を開く音と共に、沢山の環境音が俺の耳に入ってきた。
唄を囀る小鳥の声、通りを行く馬の
一度、二度。朝特有の爽やかな匂いを深呼吸して吸い込む。ぐぐっと伸びをして体の緊張をほぐすと、五感の内四つ、視覚以外が鋭敏になっていくのを感じる。
「ご飯できてるから、着替えたら下まで降りてきて。あ、ゆっくりだよ? 階段は気をつけて降りること!」
俺の頭をゆっくりと撫で、母さんが笑う気配がした。
――もう俺も八歳になるんだから、心配ないよ。
そんな言葉を、つい先日階段から転げ落ちたことを思い出して、飲み込んだ。
着替えを終え、木扉を開けると、空腹を悪化させるいい匂いが広がった。
父さんが俺の為に作ってくれた、階段に付いている手すりを掴んで、慎重に階下へ降りていく。
杖を使えば、もっと楽に歩けるのに、と思うのだが。目の見えない盲者に対して、両親以外のヒトが抱く感情は嫌悪みたいで。
だからできるだけ、初対面のヒトに目が見えないと悟られたくない。
そんな思いがあるから、杖無しで生活しようと、俺は盲者なりに頑張っている。
壁に軽く手をつきながら、台所兼用の
「おはよう、ケルン」
母さんのとはまた違った、でも聞きなれた、落ち着いた低い声が俺の耳に届く。
がたり、と音がして声の主が椅子から立ち上がったのが分かる。
「おはよう、父さん」
俺がそう返すと、ぎぎっと椅子の脚が床を擦る音。
いつものように、とんとんと、父さんは俺の肩を叩いたあと、手を引いて椅子まで誘導してくれる。
俺の手が、父さんが引いてくれた椅子の背もたれに触れる。ゆっくり確かめて、腰掛けると、父さんは俺の傍から離れた。
「ありがとう」
「気にするな、当たり前のことだ」
そんな会話をしていると、奥の台所から母さんが忙しなくバタバタと動く音が。
「テイン~、お皿出すの手伝って~!」
「分かった」
再び、父さんが椅子から立ち上がる音。
何だか、母さん今日は忙しそうだ。
声音も、若干上ずっているのが分かる。こういう日は大抵、何か用事が入っていたりするんだけど。
ぱんぱん、と二度、俺の隣に座った母さんが手を鳴らす。それは食事の準備が整ったという合図だ。何がどこにあるか、隣にいる母さんに聞きながら食事をとっていく。
特に、飲み物を呑もうとするときは、コップを手に触れさせてもらって、どこにあるのかをしっかり教えてもらう。そうしないと、どうしても手が触れた時勢い余って零してしまうからだ。
本当に、こんな何もできない俺に、良くしてくれて。ありがとうって、いつも。
絶対に、感謝だけは、忘れちゃいけないって思う。
二人がいなければ、俺はきっと、生きていくことさえできないんだから。
「ねぇ母さん、今日何かあるの?」
「ケルン、よく分かったね? 私、また今日からちょっと家を空けるの」
母さんは偶に、数日家から居なくなることがある。
研究者という、誰にでもなれるわけではない職についていて、主都フォルロッジと呼ばれる大きな都市に『転移
父さんは、普段家にある工房で魔法具を作っている。離れていても互いに話せる不思議な石だったり、触れていると温かくなったり冷たくなったりする布だったり。とにかく想像の埒外の物ばかりで。
二人とも自分にしかできないことができて、すごいと。俺は心から尊敬している。
何故、何故そんな二人の息子が俺なのだろうか。
俺でいいのだろうか。分不相応ではないのだろうか。
こんな、何もできない無能が、二人の人生を邪魔してはいないだろうか。枷になってはいないだろうか。
思いはするけど、口に出さず心の中で留めている。こんなことを言っても、二人を悲しませるだけだと分かっているから。
心優しい両親は、きっと胸を痛めてしまう。
それに、二人の元に生まれてきたことは、俺の唯一の誇りでもあるんだ。
ちりん、と玄関の石扉に取り付けてある鈴が鳴った。母さんが、出張に出かける時間みたいだ。
「それじゃあ、行ってくるね。ご飯は外食でお願い、洗濯物は……」
「ミゥ、大丈夫だ。俺とケルンで何とかする」
「うん、大丈夫だよ」
俺と父さんがそう言うと、母さんが苦笑する気配を見せた。
とんとん、と俺の肩を叩いた母さんは、次にぎゅうと俺のことを抱きしめる。
肩を叩くのは、いきなり抱きしめられると、何が起きたかわからず俺は焦ってしまうから。
「ごめんね? ……二日後には、戻るから。ケルン、
「うん、店番くらいなら、俺でもできるよ」
母さんの仕事は、俺じゃなくても手伝えないし。父さんの手伝いをしようにも、足手まといになるだけだ。
家は、父さんの魔法具を売るお店と一体になっている。その店の番位ならば、俺でもできる。客が来る足音を聞いて、接客して、父さんを呼ぶだけ。
俺が盲者だってことも、そうそうバレないし、お客さんに気味悪がられることもない。
これぐらいしかできないけど、何かできる。
俺は、ちょっとでも、役に立ててる。
そんなちっぽけな満足感があれば、いい。俺には、十分すぎる幸せだ。
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