器の血脈
新田カケル
第1話 清夏の日に
少女の朝は早い。
夜明け前に起きて身を清めると、里の中央にそびえる高床の祭殿に上がる。そして、この國の祭政の中心を隅から隅まで清める。これは、この少女に課された役割のひとつである。
彼女が祭殿の二階を掃除し終えた頃に、母――この國ではヒメミコと呼ばれている――が付人を伴って現れる。ヒメミコがそこで毎朝の儀式を行う間、少女は一階と外に設けられた広縁、そして戸口と地面とをつなぐ長い階段に至るまで塵を掃き、磨く。
昔はそこで行われる儀式の様子をじっと見ていたものだ。しかし、最近はヒメミコが窓を閉め切り、二階で火を焚き始めると、すぐに他の場所の掃除に取り掛かってしまう。彼女はは、その後は薄衣だけを身にまとい、神懸かりの舞を演じる。その一挙手一投足までも少女は覚えてしまったのだった。もう覚えるべきものは残っていない。
祭殿すべてを清め終えた頃にはすっかり日が昇っていて、村人たちも動き始める。狩りに赴く男たちを見送りながら、巫女たちと共に広場を掃いて、朝の務めは終わりである。
特別な用がなければ、その後は夕時まで自由に過ごすことができる。そして彼女にとって自由な時間とは、すなわちある少年と共に過ごすことを意味していた。
母と寝起きを共にしている住居にいったん戻る。そして衣を整え、豊かな髪をひとつに結い直し、玉を連ねた首飾りを身に付けて外に飛び出す。母に見咎められる前に。気まぐれな少年が、どこかへ行ってしまう前に。
* * *
木陰には日射しが煌めき、川音が心地よく耳朶を打つ。時折思い出したように吹く風が、夏草をなびかせながら時と湿気とを運んでゆく。狭い川原の向こうでは、腰丈の菅草が重たそうな穂を揺らしていて、こすれ合う葉音の先には、律動的な水音が聞こえている。
この小川は、この地域の水運の要となっているミヅマキの川から分かれた支流である。東にそびえ立つ霊峰から流れ出でた川は、本流をそのまま西へ、そして支流を南へと下らせていた。霊威を帯びた水源の山は、トコタチの御山とか、単に御山と人々からは呼ばれている。
この御山に護られた國の名を、
その片隅、御山の裾野に広がる森の際、小川を覆う茂みの脇に、所在なさげに栗の若木が立っている。その小さな木陰で、茅那國の王太子であるタタラは、ゆっくりと上体を起こした。
彼の昼寝を妨げたのは、まぶたの裏に感じた日光である。
気づけば、全身を覆っていたはずの木陰はいくらか動き、彼の半身を日輪の下に晒していた。季節は夏。先日まで長雨が続いていたのが嘘のように、烈日は少年の肌を焼く。
起き上がったのも束の間、今度は木陰の真ん中の、しんと冷えた芝草に彼はその身を横たえた。
そして目を閉じると、彼の胸の中にだけ広がる物語の世界に足を踏み入れる。いつもこの場所で思い巡らす、先刻も眠ってしまうまで考えていた、空想の続き。
そこでは自分は、大陸の國々を気の向くままに歩き回っている。見渡す限りの広大な水田で民と語り合う日もあれば、幾千もの人々を守る城壁の影で暑さをしのぐ日もあるだろう。賢人と呼ばれる師匠について学ぶのも良いし、商いをするのも悪くない。極彩色の宮殿と瓦葺の屋根が織りなす街の風景を見下ろしてみたくもある。そして、新たな風が吹けば、それに逆らわず次の町へ向かうのだ。
そんなことをしているうちに身についた知識で、時には民を助けることも出来るかもしれない。國を治める王に教えを請われることなどあれば、それは一層誇らしい。だが、放浪で得た経験は、いたずらに費やしてしまうのが良い。大陸には文字があり、詩文があるという。あちらこちらで見てきたものを一編の詩にして日々を過ごすというのも愉快じゃないか。
でも、そのためには文字を覚えなければならないな。前に教わったときは、絡んだ仔虫のようなそれを見て、すぐに諦めてしまったものだけど。
* * *
「タタラ、起きて。ねえ起きてよ」
不意に体を揺すられて、タタラは目を開けた。
いつの間にかまた眠ってしまっていたのだろう。寝起きの頼りない視覚が、変わらずそこに在る木陰を捉え、湿った風が、ぼやけた意識を抜けていく。
まだ、あまり時間は経っていないようだった。
未だ焦点の合わない視界に、ふたりの幼なじみが映る。しゃがみ込んでこちらを覗き込む黒髪の少女と、中腰でこちらを見下ろす膝丈の貫頭衣の少年である。
「どうせここにいると思った」
呆れ気味にそう言うのはタタラと同年の少女、イスズである。この暑い日にも、彼女は白衣を二重に着ている。
「タタラ様、いつもここで寝てますもんね」
そしてイスズに同調する彼は、タタラたちよりも三つ年下のクガネである。
「もう、剣も放り出してるじゃない」
「寝るのに邪魔だったから」
「ほら起きて」
そう言ってイスズは、傍に転がっていた木剣でタタラを小突いた。
この三人はいつからか、特に示し合わせるわけでも無くいつも共に過ごしている。こうやって起こされるのもいつものことだ。それゆえ、昼寝を妨げられてもいまさらタタラは用を尋ねたりはしなかった。
「ちょっと待ってて」
それだけ言うとタタラは木剣を腰に下げて川縁に降りていき、小川で顔を濯いだ。トコタチの御山で湧いた水は清く、そして冷たい。
「今日はどうしようかしら」
「久しぶりに、タタラ様に手合わせして欲しいです」
タタラが眠気を払っている間、イスズとクガネは今日の予定を話し合う。集まってからその日の計画を話し合うのはいつものことである。そして、その決定に太子が関与しないのも、ままあることである。
顔と手を濡らして戻ったタタラに、イスズは白布を放ってよこした。少年はそれを受け取ると、遠慮なく顔を拭う。
「で、今日はどうするの」
畳んだ白布をイスズに返しながら尋ねると、クガネが勢いよく踏み出して言った。
「タタラ様、勝負です!」
「お、今日も負けないよ」
クガネはまだ十三である。父親に散々鍛えられているらしく、剣の冴えはタタラに勝るとも劣らないが、如何せん身体が出来ていない。年長者として、そして王太子として、タタラは負けるわけもいかないのだった。
そのとき、川の脇を上流から歩いて降りてくる老婆の姿があった。籠を背負ったその婆さんは、三人と目が合うと柔らかな笑顔を浮かべた。
彼女は、この里に住むウサギという婆さんである。ウサギはすっかり白くなった髪を無造作に束ね、纏った貫頭衣は所々土に汚れている。山菜を採りに森に入っていたのだろう。籠から何かの葉が飛び出している。
「太子様にイスズ様、それにクガネの坊やも。暑いのに元気だねえ」
「ウサギさんも、良いものは採れましたか」
イスズの問いに、たくさん採れたよと答えながら、婆さんは籠を下ろして中身を漁り始めた。
「今日はフキがたくさん採れたんだけどねぇ。ほかにも、少し硬くなってしまっているけど、イタドリもあったのよ。ほれ、あげるよ」
そう言って彼女は節くれだった山菜を三本取り出すと、まとめて茎をポキッと折った。少し皮をむくと、タタラたちに一本ずつ差し出す。
「いいんですか」
「ああ。いいとも。その代わり、これ運ぶの手伝っておくれ」
タタラの問いに笑顔で顔をしわくちゃにしながら答えると、婆さんは持ち上げた籠をタタラに預けた。タタラは受け取ったイタドリを口にくわえて、その籠を背負う。
口に含んだイタドリを齧ると、みずみずしい食感と共に爽やかな酸味がじんわりと広がり、唾液がじゅわっと誘い出された。
「旨いかい」
三人同時に頷くと、彼女も嬉しそうにしている。そうやって里の方へ歩くうち、ウサギが口を開いた。
「そうじゃ、聞いとくれよ。じつは一昨日、孫に月の物が降りてのう」
月の物が来るようになると、女は子が産めるのだという。タタラはそう聞いたことがあった。めでたいことには違いなく、ウサギは孫のことを嬉々として語っている。曰く、器量もよくて賢い。唄は近所で一番上手いし、作る飯も旨い。そして、婆はこう締めくくった。
「じゃからの、クガネよ。夜這うなら早いうちがええぞ。急がんと他の男に取られちまうでな」
「え、お、俺ですか」
急に矛先を向けられて顔を真っ赤にするクガネを、ウサギ婆はケラケラと笑っている。
「いやいや、歳が近いからのう。じゃが成人がまだ先か。なら太子様はいかがじゃ。じきに成人じゃろうから」
ウサギ婆さんは心底楽しそうである。そして、タタラは心底狼狽えていた。ウサギの孫、ミノリと言っただろうか、少女の顔を思い浮かべてしまったタタラは、慌てて脳裏に浮かんだその像をかき消す。
「まだ成人なんて、日取りも決まっていませんから」
「そこは任せなさいくらい言って見せなさいよ」
「ははは。イスズ様は手厳しいのう」
ひとしきり笑った後、ウサギは何かを思い出したように言った。
「しかしな、月の物が来てからと言うもの、孫の調子が悪うてなあ。大したことはないと思うんじゃが、イスズ様、一応診ていってはくれんかね」
イスズは、タタラとの手合わせを楽しみにしていたクガネに詫び、それが受け入れられるとウサギ婆の申し出を快諾した。そして三人そろって、ウサギと共に彼女の住まいへと向かう。
里の民に病があったとき、それを看るのも巫女であるイスズの役割である。
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