ひそかなる

糸藤いち

ひそかなる

 なにもかも投げ出したくなるような暑さだった。道行く人のまばらなオフィス街。アスファルトやビルの窓からの照り返しがきつく、全身を炙られている気分になってくる。そんな中、二人は大きな紙袋を両手に提げ、さらに己の鞄も持ち、噴き出る汗をぬぐうことも、眩しい目元に陰を作ることも出来ずに歩いていた。

 二人は横断歩道で止まる。日陰のないそこから逃れる術はなく、ただ信号が変わるのを待っていた。

「篠倉くん、僕を日陰にしないでね」

男が作る陰にそっと入り、少しでも直射日光を避けようとしていた女は、その行動の恥ずかしさを隠すように言う。

「富沢さん。これ本当に今日中に配り終えるんですか?」

「課長の話ではね」

口を開くのも辛いといった風に男が答える。

「これ本当に手渡しする意味があるんですよね?」

「課長の話ではね」

「これ本当に必要なパンフレットなんですか?」

「課長の話ではね」

同じ解答を繰り返す富沢に、篠倉は溜息をついた。

「・・・・・・私、入社して十年になりますけど」

「もうそんなにたつのか」

「今日ほど仕事って何だろうと思ったことはありませんよ」

「篠倉くんは相変わらず難しいことを考えるな」

男が苦笑したところで信号が変わり、二人は再び歩き出した。



 事の発端は、会社パンフレットを作り直したことにある。主に新規の顧客や入社希望者向けに作られたもので、会社の歴史、業務内容、社長の信念などが記されている。そうそう改訂する内容でもないのだが、どういうわけか社長は、これを二年に一度は新しく改訂したがるのだった。そのため、時期が来ると歴史をほんの少しだけ書き足し、写真を撮り直す作業をしているのが、庶務課社員である篠倉達だった。改訂されたパンフレットは、まず一番に得意先へ郵送するのが習わしであったのだが、今年は送ってから誤字が見つかった。ファックス番号が電話番号と同じになっていたのだ。新規先へ配布する際は訂正が必要だが、得意先は普段からやり取りがあるため、わざわざパンフレットを見てファックスをする事はないだろうから、訂正の手紙を出して事を収めようと課内で結論が出た。しかし社長が異を唱えた。曰く、我が社の重要なお客様に間違った情報をお渡しするとは何事だ。今すぐ訂正したものを直接届けに行き、お詫びをせよ、と。もちろん課内で反対はあった。かといって社長を納得させることができる者はいなかった。かくして、直ちに訂正作業が始まった。そして本日、記録的な炎天下にも関わらず、課内をあげての配達作業が行われているのだった。

「そもそも私は例年の改訂作業だって疑問だったんですよ」

暑さによる苛立ちをもぶつけるようにして篠倉は語気を強めた。

「お客さんから、同じ物を送ってこないでくださいって何度か言われていますしね。でも仕事だからって我慢できる範囲でした。だけど今回のは難しいです。だってさっきのお客さんなんか、最初に送ったのを開けてすらいなかったんですよ? 修正したのを渡したら鼻で笑っていましたよ?」

「そうだねぇ」

「だいたいなんだってこんなに分厚くて立派な紙にフルカラー印刷なんですか。だからたった数ページしかないのに、こんなに重くてかさばるんですよ」

細腕で自分と同じだけの荷物を持って怒る彼女を見て、富沢は言った。

「篠倉くんは体力あるよね」

「なんですか急に」

「熱いのに元気だなって。あと僕と同じくらい持っているから」

そう言われて篠倉は照れながら答える。

「中学から大学まで陸上でしごかれていたからですよ」

「だから歩き方が安定しているのか」

「もう。そうですって、この会話、私が入社した時からしてますよ」

「そうだったかな」

「それに富沢さんこそ、私よりたくさん持っているのにスーツ着ているなんて凄いです」

「男の意地みたいなものだよ」

本当は二人とも会話する元気はなかったのだが、軽口を叩いて気を紛らわせないと、暑さで倒れそうだった。そんな二人の鼻先を、醤油と出汁の強い香りが刺激した。それはラーメン屋からの匂いだった。昔から営業していて味には自信があります。そう店構えが言っていた。篠原は唐突に空腹を感じた。まだ昼を食べるには少し早い時間だ。しかし頭の中は味の濃い醤油ラーメンでいっぱいになっている。

「入ろうか?」

どうやら富沢も同じだったらしい。篠倉はすぐさま頷いた。

「このままだとミイラになります」

「そうだね。二人揃って倒れる前に入ろう」

急に気力が戻ってきた二人は足取りも軽く店に入っていった。



 「らっしゃっせー。おふたりさまー、テーブル席どうぞー」

明らかにやる気のないアルバイト風の男が案内する。二人は大きい荷物に苦労しながらも席へついた。粗雑に出された水を一気に飲み干しメニューを見る。が、二人は妙な顔で互いを見た。

「私が暑すぎるからかと思ったのですが」

「僕もそう思ったが、これは違うね」

二人が期待していたより店内が冷えていなかったのだ。それどころか、暑い。外気とあまり変わりがない気がする。

「注文の時に温度を下げてもらいましょう」

「そうだね。じゃ、僕は冷やし中華にしようかな」

「私は元祖醤油ラーメンにチャーシュー追加します」

よしよしと言ってから富沢は手を軽く挙げ、男を呼ぶ。男はのっそりとした動作でやってきた。これからくる昼のピークを思うと怠くて仕方ないという顔をしているが、富沢は構わずにテキパキと注文と水のおかわりを頼む。

「それとクーラー、もう少し下げてくれるかな」

「無理っす。壊れちゃって送風しかできないんすよ」

男は早口でそう告げると、厨房へ引っ込んでしまった。二人が何かを言う隙などなかった。

「良くない事は続くね。冷たいのに変える?」

「いえ、今のお腹は醤油ラーメンしか受け付けないです」

「だけど汗が凄いよ」

「ごめんなさい。汗かきで」

篠倉は恥ずかしそうに慌てて鞄からハンカチを取り出し、汗を拭き始めた。

「スポーツやってた人って、ちゃんと汗が出るよね。健康的でいいじゃない」

「富沢さんだって汗凄いですよ」

「僕はスーツを着ているからだよ」

そう言い合いながら二人して汗を拭き、二杯目の水もあっという間に飲み干してしまった。

「昨日も記録更新と言っていたけれど、今日の方が暑いんじゃないか?」

「昨日は風がありましたからね。にしても日が当たらないだけで、かなり違いますね」

「クーラーがかかっていれば最高だけれどね」

「それは言わないで下さい」

そんな他愛ない会話をしながら、篠倉は富沢を観察していた。一番は手である。元来、異性の手が好きな質なので、特に意識していなくても見てしまう。富沢の手は特別だった。好みの造形をした手に、ほっそりとした結婚指輪がとてもよく似合っていた。その手で触って欲しいと思うのだが、もちろん決して表情には出さずに、会話を続けるのだった。



 食事はすぐに運ばれてきた。それと同時に空席ばかりだった店内が客で埋まり出す。人が多くなったため店内の気温はさらに上がる。

「早く食べて、どこかでコーヒーでも飲もうか」

「はい」

頷き、篠倉はスープをすすった。汗を大量にかいたからか。塩辛さが特別美味しく感じる。胃がさらなる追加を求めてうねっている気がする。大きな一口で麺をかき込む。同時にひいていた汗が背中から湧き出てきた。暑い。だがそれもまた食欲をそそる。チャーシュー、麺、スープと食べ進めていく。汗が止まらない。背中だけでなく、頭のてっぺんから、こめかみから汗が流れていく。汗を拭きたい。でも、もう一口。ああ、額から汗が流れてくる。顎に伝う。拭きたい。拭かなくては。と、箸を置こうとしたその時、正面からハンカチの感触があり、驚いて顔を上げた。富沢と目が合う。

「あ、ごめん。つい」

「あの、ありがとう、ござい、ます」

放っておいた汗を富沢が拭いたのだ。一気に恥ずかしくなり、顔が赤くなるのを気付かれまいと、篠倉は下を向いた。

「まだちゃんと拭けていないから」

彼女が下を向いても気にせずに、富沢は汗を拭いてやっていた。その手を振り払うことも出来ず、篠倉はされるままになっている。そっと下を向いたまま彼の皿を伺うと、すでに空になっていた。いつもそうだ。彼は食べるのが早い。富沢の手が離れた隙に、篠倉は自分のハンカチを額に当てながら食事を再開した。が、今度は長い髪を押さえる手がなく、邪魔で食べにくい。夏場はいつも結い上げているのだが、今朝は寝坊したから下ろしたままにしたのだ。おまけに慌てていたから化粧ポーチを忘れてきた。その中にはヘアゴムが常備されているというのに。まったく先程の富沢の言葉ではないが、良くないことは重なるものだ。こうなったら早くこの場から離脱するしかない。汗を拭くのを諦め、髪を抑えながら食べ進める。するとまた噴き出た汗を富沢が拭った。

「汗を流しながら一生懸命に食べてる姿って見ていて気持ちが良いね」

「ありがとうございます」

戸惑いながら再度お礼を言う。こんな行動をする富沢によこしまな気持ちは一切ない。実際、目が合った時の表情や手つきは、まさに良き父親そのものだった。自分は仕事の同僚どころか、子どもと同じ庇護すべき存在でしかない事実を突きつけられ、胸が痛くなる。

「すぐに食べちゃいますから」

「ゆっくりでいいから良く噛んで食べな」

きっと小学生の娘にも同じ事をして、同じ事を言っているのだろうなと想いながら、篠倉は慣れ親しんだ胸の痛みが引くのを待った。新入社員として入社して以来十年、庶務課で富沢と共に働いてきた。新人から面倒を見てきたから篠倉くんはいつになっても二十二歳なんだよねと、何度も言われている。もしも篠倉が、女と見なくても良い、せめて同僚として見て下さいと言っても、関係に傷をつけるだろう。今こうして同じ課で働けることだけで満足しなくてはならない。そう思うからこそ、課内で一番面倒を見てもらい、子どものように扱われるのは、嬉しくもある一方で叫びたくなるほどの寂しさがあった。



 複雑な想いと共にラーメンを食べ、水を飲み干した。

「お待たせしました。行きましょう」

「そんなに焦らなくていいよ」

「早く涼しいところで一息つきたいです」

「それもそうだ」

笑って立ち上がろうとした時、テーブルに富沢のハンカチが取り残されていることに気付いた。

「忘れていますよ」

「お、いかんいかん」

手から離すとすぐに忘れるんだよなと言いながら、ハンカチを畳み直してポケットにしまうのを、篠倉はじっと見つめていた。

「どうした?」

「なんでもありません。早くアイスコーヒー飲みに行きましょう」

二人は重たい紙袋を持ち、再び強い日差しの中を歩き出した。富沢の後ろを歩きながら、篠倉はずっと彼の尻ポケットを見つめていた。彼のハンカチに私の汗がついている。この事実が彼女の中で様々感情と共に膨らんでいく。ハンカチにはきっと、ファンデーションもついただろう。それとも、とっくに汗で流れ落ちてしまっていただろうか。だが、あのハンカチで彼は私を、優しく優しく拭ったのだ。夫が仕事中に女の汗を拭いたハンカチだとは知らず、彼の妻はハンカチを洗い、干す。そして丁寧に畳むだろう。もしかしたらアイロンまでかけるかもしれない。ああ、なんて心が震えるのだろう。その光景を想像するだけで暑さなんか気にならなくなっていく。たまに自分は本当に富沢に恋をしているのか、疑問に思うことがある。暗くも楽しい想像が出来るから好きなのかもしれない。他人のものを好きな自分に恋をしているのかもしれない。

 篠倉は彼の背中に抱きつき、再び流れてきた汗をなすりつけたい衝動にかられながら、なにに恋をしていてもいいと思った。なにに恋をしていても、この気持ちがあると仕事が楽になる時がある。今がまさにそうだ。だからこの気持ちをずっと大切にしまっておこう。篠倉は、富沢のハンカチにファンデーションがついていて、それを妻が見つけたらどうなるだろうと想像し始めた。それを機に私の気持ちに気付いたら、彼はどう思うだろう。どんな表情になって、どんな言葉を発するのか。想像の世界をさらに飛躍させながら、彼女は富沢の隣を歩き始めた。

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ひそかなる 糸藤いち @tokunaga_riku

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