日常の非日常

桜河 朔

第1話 飛翔

 あの日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。どんなに楽しかった思い出も、どんなに恐ろしかった経験も、あの一瞬の鮮明さにはかなわなかった。何十年も経った今振り返れば、あの頃の僕は薄々ながらも、この一瞬の重大な意味を感じ取って、記憶に深く刻み込もうとしたのかもしれない。だからこんなにも鮮明に僕の記憶の中にあの一瞬は残っているのだろう。

 僕は言う。誰かに尋ねられた時はいつでもこうやって答えるのだ。

あの頃の僕らは、社会という枠の中の、学校という柵に囲まれて、あらゆる制約を受けながらも、何よりも自由だった。


あれは、夏休みが明けてすぐの頃だったはずだ、残暑という表現では生ぬるいほどに、教室の中は蒸し暑かった。窓も廊下につながる扉も開け放たれて、湿気を含んだ風が頬を掠めて行っていた。僕は額に汗を浮かべながら、担任教師が板書していく文字の羅列を無心にノートに書き写していた。

あの日は、黒板がよく見えた。いつもは首を伸ばし、体を傾けながら写していた板書もその日はまっすぐに見ることができた。

理由は簡単だ。教室の一番前の真ん中の席を陣取っていたいつものやつがいないからだ。

 そいつは、背の高いひょろっとしたやつだった。医者の家系だからか、この時期になるとそいつは有名大学の医学部の問題を学校に持ってきていた。誰もが認める勉強の虫、席はいつでも一番前、教師からの期待も大きかった。学校を休んだこともなければ、授業で居眠りしているところも見たことがない。優等生の鑑みたいなやつだった。そんなやつがその日は席にいなかった。

 学校には来ているはずだった。その日の朝に僕はそいつが赤い表紙の問題集とにらみ合いをしていたのをちゃんと見ていたのだから。誰も口には出さなかったが、おそらく教室の誰もがそいつがいないことに疑問を持っていたに違いない。

授業のはじめ、担任教師もそいつがいないことに気づいていた。

――…は、どうした。朝はいただろう、便所か…。

たいして、気に留めているようではなかった、絶対に帰ってくると思っていたのだろう。優等生のそいつが、授業を無断で休むはずがないという考えがあったはずだ。もちろん僕もそう思っていた。すぐにそいつは帰ってきて、いつものように僕の板書の障害になりながらも、熱心に授業を聞き始めるだろうと思っていた。でも、その日は違っていた。いつまでたってもそいつは帰ってこなかった。担任教師は文句を言いながらも探しに行くことも探させることもなく授業を進めていった。誰も、何も言わなかった。

 そいつが帰ってきたのは、授業が残り20分ぐらいになった頃だった。教室の生徒の数人は早く終われと言わんばかりに時計を気にし始めていた。そんな時、そいつが教室に入ってきた。調子が悪そうでも、申し訳なさそうでもない顔をしていた。後日談ではあるが、僕はその時のそいつの顔が、どこか晴れ晴れとしていたように感じた。

 黙ってそいつは自分の席に歩いていった。担任教師が声をかけたが答えることもしなかった。自分の席に立つと、おもむろに机を動かしだした。それには誰もが唖然となっていた。教室中の注目を集めていることなど微塵も気にならない様子でそいつは、自分の机といすを窓のそばに置いた。

 さすがに担任教師も、怒り出した。授業をさぼった上に、意味不明な行動を始めたのだからあたり前である。ただ、そいつは担任教師の叱責さえも耳に入っていないようだった。机を並べ終わると、怒りに顔を赤くしている担任教師を横目にまた、教室から出て行ってしまったのだ。そいつは僕らの視界に一瞬だけ現れ、そして消えていった、ほんの一時で。

 そいつが教室から出て行って数秒後、僕らの目の前を何かが駆け抜けていった。言うまでもない、教室を出たそいつが、教室に駆け戻ってきたのだ。全力で、教室の前を横切って行った。怒っていた担任教師までもが脇に退けるほど、鬼気とした表情だった。勢いを落とすことなく、そいつは自分の置いた机に向かって走って行った。そして、飛んだ。

 すべてがスローモーションに見えるほどの跳躍だった。机を踏み台に、開け放たれた窓の中にそいつは吸い込まれていった。後の顛末は驚くべきことではない。人間は空を飛べるわけがないのだから、窓を飛び出したそいつは、重力にひかれてまたもや僕らの視界から消えていった。

 あの後、どうなったかは僕の記憶には残っていない。あるのはそいつが窓の外に消えていくまでのあの一瞬だけである。同級生のほとんどが僕と同じような様子だった。飛ぶまでは覚えている。でも、そのあとは忘れた。口をそろえてみなこう言った。

 数か月後、そいつはいつものように教室の一番前の真ん中の席にいた。植木のクッションで助かるというお決まりのパターンだった。運がよかったなと担任教師は言っていたが、僕はそうは思わなかった。そいつは頭のいいやつだったから。何もかもわかってやっていたに違いない。助かること前提で、あの窓から飛んだのだ。

 あの日から数年後、同窓会でそいつに僕は聞いてみた。

――あの日なんでお前は飛んだんだ。死ぬ気だったのか。

 そいつは笑ってこう言った。笑った顔は初めてだと僕は思った。

――俺はな、死ぬ気で飛んだんじゃないよ。助ける気で飛んだんだ。親の言いなりで勉強している自分を助けるつもりで飛んだんだ。

――助けられたのか。

――ああ、助けられた。俺は生まれ変わったも同然だな。

そいつは楽しそうに笑った。

――死ぬ時の怖さも、どんだけ痛いかも俺はわかった。もう、怖いもんはないよな。どんな痛みにも俺は同情できる。理解もしてやれる気がする。それは、医者として最高だと思わないか。痛みがわからないから、人は他人を傷つけられるんだよ。どれだけ痛いかわかってるなら、それを人にしようとは、普通の頭を持ってればしないだろ。

 そういうそいつは誇らしげだった。


 「今度のお前は、何のために飛んだんだ。」

同窓会の時と同じ、誇らしげな顔をしたそいつに僕はいう。返事はかえっては来ないけれども、そいつならきっとこういうだろう。

――死ぬ気じゃないよ、助ける気で飛んだんだ。

名前も知らないどこかの国でそいつは、飛んだ。誰の言いなりでもなく、自分の意志で医者になったそいつは、死ぬ恐怖と痛みを知っていたから、誰かを守るために、銃弾に向かって飛んだと聞いた。

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