逃げ込んだ部屋は狭く、中央に小さな丸テーブルが置いてあった。部屋には天井があって、そのことに少しほっとする。テーブルの上には天球儀のような形の置物がある。ボウルのような形の受け皿の中に球体に近い多面体があって、その多面体の表面には小さな穴がたくさん開いている。どこかでこんなものを見たような気がして、首をかしげる。

 そこまで物体を観察して、僕はふと、暗闇にもかかわらず自分が周囲の景色をきちんと認識できていることに気付いた。灯りがあるわけでもないのに……この空間の特殊性なのだろうか。

「猫ってこんな感じの視界なのかな……」

「ハル」

 ぽつりと独り言を言ったタイミングで、こうから名前を呼ばれて、僕の心臓は口から飛び出すほどに跳ねた。心臓は飛び出さなかったけれど、奇怪な叫び声が出た。驚いたから胸が痛かったのか、昂の声だからだったのか、わからない。覚えているそれとあまり変わらないようで、少し大人びた声で呼ばれる名前は、だめだ。

「……なんかごめん」

「いやっ……違う、俺こそごめん」

 振り返ると、眉根を寄せた顔で僕を見下ろす昂がいた。僕はその姿に一瞬見惚れかけて、ここが狭い室内であることを思い出して顔がかっとなって、どうしようもできなくて思い切り昂から目を逸らした。しばらく沈黙が落ちた。僕は心臓の鼓動の音が部屋に響いているんじゃないかと怖くてたまらなかった。

 僕が顔を背けたのを、どういう理由だと昂は思っただろう。先刻みんなに自分が取った態度のことなんて、僕の頭からはすっかり飛んでしまっていた。

「……それ、見とったと? 多分投影機。プラネタリウムの」

 ややあって、昂が僕の後ろにある置物を指さした。え、と僕は間抜けな声を出して、改めてそれを見る。

「スイッチもある。普通につくよ。普通に真ん中らへん、みなみのうお座っぽいのが映るし。下の方にオリオン座っぽいのもある。けどこの部屋がだめなやつ。普通はドーム型の天井に投影するものやけん」

「あ、え? あ……そっか」

 僕は天井を見上げた。

「三人とも先に見たの」

「まあ。とりあえず見れるとこは全部な。言ってもそこの教室とここしか見とらんし、別に何もか。ただの投影機と、黒板の文字、光る床。あと……」

「あと?」

「いや、何でもない」

 昂は目を逸らして黙ってしまった。僕は投影機のスイッチを探した。それはボウル――受け皿の下についていて、わかりやすい。

「つけていい?」

「やけん天井が……いや、別に好きにすればよかさ。綺麗じゃねぇけど」

「こだわりが……昂、プラネタリウムにもよく行ってたもんな。こういうの好きだよね。ああほら、夏休みの宿題でも作ってたじゃん、こういうの。だからなんか見覚えあったんだ」

 一人で納得してカチリとスイッチを押せば、星のような小さな光の粒が天井に投影される。確かに面の天井では、光の粒子の間が妙に近すぎたり離れすぎたりして、あまり綺麗には見えなかった。どれがどの星座かだなんて、もっとわからない。

「……みなみのうお座って、季節いつだったっけ」

「秋」

「この映像からわかったのすごいね。さすが」

 昂が鼻をすすった。それが、照れた時の癖だと僕は知っている。体の内側からぶわりと湧き水のように湧き出で、僕の心を満たす熱があった。昂から幼い頃聞かされたたくさんの星の話が、昂への愛しさとか恋しさとか、初恋の甘苦さと共に鮮やかによみがえっていく。

 故郷を離れてから、否、きっともっとずっと前から、無意識に自分の中に封じ込めていた大事な思い出が、僕の体を血潮のように駆け巡る。僕は服の襟ぐりをくしゃりと握りしめた。息苦しいような、胸苦しいような。

「そうだった、思い出した……フォーマルハウトだよね、みなみのうお座の一等星。それで、秋の空ではその近くに他に明るい星がなくてさ、ポツンと光って見えるんだよね。秋の一つ星だよね。思い出したよ。それで、俺、その話した時、昂が沖縄だったら南の水平線にもう一つの一等星が見えるって言ってて――」

 僕は、もう投影された星粒を見てはいなかった。あの頃、星の話をする時だけは早口になって、ワクワクを隠せない年相応の無邪気さを見せた昂のことを思い出していた。

「――そう、あれ、アケルナル……って星だよね、もう一つの一等星。昂の一番好きな星」

 振り返ると、昂は大人になって切れ長気味になった形のいい目を丸く見開いて、僕を見ていた。僕は何かわからないけれどやってしまったかと身構えた。でも、昂はただ、一度唇を閉じて、また開いて、穏やかな顔で可愛くないことを言っただけだった。

「一番好きなんて言うとらん」

 ……鼻を鳴らしながら。

「いや言ってたし……なんで、そこでごまかすかな。この話だけは何回も聞かされたし、どれだけ好きか丸わかりだって。それで、ほら、アケルナルはエリダヌス座の一番星。エリダヌス座って名前、実を言うと名前はちょっと忘れてたんだよね、柳楽なぎらさんが口に出すまでさ。あまり普段は聞かないし……冬の天の川みたいな星座なんだよね? でも俺、結局一回も見つけられてないんだよな。オリオン座のえーと、右下の足元から辿ればいいんだよね。ここのプラネタリウムがちゃんとしてたら見つけられたかな……」

「足元って……一等星リゲルな」

「そうそう。はは、その名前も忘れてた、ごめん」

「別に……ふつう、星オタクじゃない限り覚えられんやろ」

「その星オタクから直々に何度も話聞いたのにな」

「……実際に見に行けたことはなかったし、アケルナル」

「長崎じゃ見えなかったもんな。鹿児島とか、沖縄諸島辺りに行かないと」

「それ俺が言ったことだろ」

 溜息をついて、昂は首の後ろを掻きながら目を伏せた。その口からぽつりと呟きが漏れて、案外部屋の中に良く響いたのだった。

 ――そう、結局、一度も見に行かんかった。

 昂は、少し寂しそうにも見えた。でもそれを指摘したら嫌がるだろうと思ったから、僕は黙っていた。昂は、ぼろぼろになった花織かおりの側に居たくて、ささやかだった夢を見ることをやめた。今は離れたくないと言って、高校をやめて、働き出した。昂はそれを後悔なんてしていないだろう。

 僕の勝手な勘。多分、昂はエリダヌス座自体に興味があったわけではなかった。全部の星の中でアケルナルが一番好きだと言い切っていた。それを見るがために、探すために、エリダヌス座について知識を蓄えたけれど、エリダヌス座はとても見つけにくい星座だった。そして、その一等星は、そんなエリダヌス座の一番下に合って、長崎では地平線のずっと下に隠れてしまっていたのだ。

 転勤族のくせに九州の南とか沖縄には一度も行ったことがないとふてくされていた幼い昂を思い出す。マンションを長崎で買ってしまったから、今はもう無理だけど、大学生になったら沖縄に行くんだ、アケルナルが見たいから――まだ小学生なのにそう言った昂が、あの頃の僕にはすごく大人に見えて、かっこいいと思ったのだった。大学生なんてまだまだあの頃はずっと先の未来で、それは中学生になっても変わらず、高校生の時だって、受験期ギリギリにならなければ実感がわかなかった。大学生はきっとすごい人達なのだと思っていた。それを越えたところにいる大人はもっとすごいのだと思い込んだ。

 でも、大学生になった僕はまだ子供で、大人が何かもわからない。枯らしたつもりの子供の頃の初恋だって、簡単にまた咲かせてしまう。

 いつも何かが気に食わなさそうな顔をして、そのくせ星について話すときは目がキラキラ輝いて、しかもその知識が笑ってしまうくらいに多くて深くて、そしていつだってどこか寂しそうな昂が、好きだった。好きだ。昂のまとう空気だとか、一緒にいてそわそわしてふわふわする僕の心が好きだ。昂と一緒にいると、僕はこんなにも幸せだ。名古屋での日々が嘘みたいだ。柳楽さんに支えてもらわなければ――子供みたいに連れ出してもらっては外の空気を吸わなければすぐに萎んだ僕の風船のような生や性への執着は、昂の吐息一つでこんなにも簡単に膨らんで、飛べるようになる。簡単なことだ。好きな人と一緒にいたかっただけだ。気持ちを叶えたかったわけじゃなくて、ただ二人でいさせてほしかっただけで。

 これが恋じゃなくて、なんなんだ。好きだ、やっぱり好きだ。好きだ、……好きだよ。

 ……花織や、龍祈たつきがいなければいいのに、そしたら僕は、僕の大事な青春を、気を遣って、隠して、昂と二人にならないように妙に意識なんかしないですんだ――

 そこまで思い詰めた後、僕はようやっと我に返った。なんで僕は、二人のせいに。事実を捻じ曲げるな、僕がただ臆病だっただけで、花織は僕の理解者で、ああでも花織が昂に好かれたから、僕は。

 僕は一歩後ずさった。昂に今の自分の顔を見られたくなかった。こんな暗闇だけど、今は投影機が動いていて、きっと見えてしまう――そう思って無闇に足を動かして、テーブルにぶつかり、よろけた。投影機は勢いよく飛んで転がって、割れた。割れてもまだ光を放ち続けて壁を照らした。その光でできたスクリーンの上に、僕らは不思議なものを見た。

 影絵。

 二つの人影が、映画がコマ送りをされるように動き出す。登場人物はその二人だけ。彼らは、楽しそうに談笑している様子を見せ、やがてゆったりと歩き出した。

 どちらからともなく繋がれたのは、二つの小指。手を繋ぐのをためらい、けれどその細い糸のようなつながりを求め。

 表情なんかわからないのに、二人が幸せそうに見えたのは、僕の願望なんだろうか。僕は気づいてしまったのだ。その二つの影が、どちらも男のものであること。

 ……どのくらい、そうやって繋がっていたのだろうか。心臓がまた急速に鼓動を始めて、僕はただひたすらに、その映像が早く終わってほしくて、切実な思いで願った。僕の願いが通じたか、あるいは最初からそういうシナリオだったのか、やがて二人の影は剣呑とし、言い争い、そして一人が離れて行った。光の外へ行ってしまった。影は一人ぽっちになってしまった。

 残された影が嘆くように崩れて、闇に溶ける。ジーという投影機の微かな稼働音が消えた。光も消えた。部屋が真っ暗になる。なのに、やっぱり僕には、僕の体も昂の姿もはっきりと見えるのだった。

「は? 今の――」

 昂が訝し気に漏らした声に、僕は反射的に立ち上がって声をあげた。

「そうだ、俺さ、昂たちに聞かなきゃいけなかったんだ」

 話を逸らさなきゃと思った。あれが男同士の恋物語だったのだと悟られたくなかったし、もし気づかれていたとしても、考える隙を与えたくなかった。

「は? 何。……ていうか、大丈夫か。転んどったろ」

「大丈夫。尻ぶつけただけ。あのさ、もう一回聞くけど、昂たちって【星の子】なんだろ。自覚もあるよね?」

 昂が、固まったのがわかった。

「ねえ昂、俺だけ仲間外れになんかしないでよ。俺、たつに聞いて少しは知ってるんだ」

 肩にかけていた龍祈の鞄から、ファイルを取り出す。

「じゃ、行こうか。花織や柳楽さんも待ってるだろうし、謝らなきゃな。ごめんな、俺を追いかけてきてくれたんだろ。昂ってそういうとこあるよね。結構心配性」

「ハル」

「行こうか。俺、早くこんな場所から出たいんだよね。巻き込まれただけだしさ」

 昂の言葉を遮り、わざと嫌味がましくそう言って、僕はドアを開けた。心の扉を閉める代わり。


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