第一章 再会
一
故郷を離れて、愛知県で大学生をしている。
僕の在籍する学部では、小中高校生だったときと違い、八月から二ヶ月間の長い夏休み(という名の試験期間)を経て十月に後期が始まる。最初の一週間の講義を受ければ、週末は体育の日のおかげで三連休だった。今年はその連休に夏休みにでさえ帰らなかった実家の長崎へ帰省をすることにした。
そもそもわざわざ九州を出たのにはわけがあったから、故郷にはなるべく帰りたくなかったのだが、今回は……帰らざるを得ない理由ができた。とても迷って、でも、決めた。
名古屋駅はシーズンオフのこの時期でも人でごった返す。朝ののぞみ号の下り線なら
「遠い……」
切符は二枚。そこに書かれた指定席の車両番号は14のDとE。綺麗に印刷された活字を睨みながらそうぼやいていたら、柳楽さんが「もやしは大変だよね」と余計な茶々を入れてくる。むかついたが反論するのもエネルギーの無駄なので、息を切らしつつとにかく目当ての十五号車前を目指した。ガラガラ、ガラガラガラガラン。車輪の音が煩いが、おかげで振り返らずとも柳楽さんがついてきているとわかる。天井まで届くホームのガラス窓からはねじれた形のビルが見えて、太陽の光を反射し眩しかった。
人混みを縫って、どうにかこうにか目的の場所にたどり着いた。疲れた足を癒したくて屈みこめば、鼓動の激しい心臓がうっかり口から飛び出しそうな、喉元の圧迫感を覚えた。
「おーい、走ったわけでもないのにそんななる? やっぱり朝の散歩くらいして体力つけた方がいいよ。夏休み中引き篭もって、無い体力更に落ちたんじゃないですか?」
うるさい野次の元は、少し紐のあたりに皺のよった紺色のローカットスニーカーで僕の足をつついてくる。僕は眉を顰めて柳楽さんを軽く睨んだ。柳楽さんはちょうどミンティアを口に何粒か放り込んだところだった。苺の香りがこちらにまで漂ってきた。
「柳楽さん、その匂い、ちょっとあれじゃない?」
「あれって何よ」
「似合ってないし、あと臭い。匂いキツい。また舌荒れますよ」
「うるさいなァ……結構これ味旨いよ」
「俺は匂いの話をしてるんですけど」
「食べてないからそれ思うんじゃない? ていうかさ、別にぼかァ君の好みにあわせたいわけじゃないですから」
「車の中でその匂いプンプンさせてたら俺が吐いてるところだよ」
「新幹線なんだから吐かないっしょ。ていうかほんと、暦海クンはうるさい。細かい。今その話どうでもいいわー。よくない?」
「お茶買ってきます。荷物見てて」
「出たー。自由人。あと二分で来るぞ。ちゃっちゃと行ってこいよ」
「はーい」
口の中はからから。早足で歩いている間、ずっと口呼吸していたせいだ。自販機に小銭を入れ、ボタンを押す間も待ち切れず、喉を鳴らして少ない唾を呑みこんだ。額、髪の生え際に汗が浮かんでいるのがわかる。手の甲でそれを拭いながら、ビタミン味の清涼飲料水を買った。心臓は相変わらず荒ぶっている。運動不足を切に実感する。そして少し目も眩む。多分、糖分が足りてないんだ。
歩きながらキャップを開け、中身を飲む。もとの場所に戻れば、柳楽さんは銀色のキャリーバッグを片手に左手でスマホをいじっていた。その足元に僕の荷物が転がっていて、僕は溜息をつきながら肩でそいつにぶつかってやった。
「なーぎらさん。あのさ、なんで俺の荷物下に置いたの? そういうのやだって言ったよね?」
「んー……おわ、ちょ、待てって何度もぶつかってくんな。これ、このツイートだけ打たせて。……だから手元狂うっつってんだろ、ストップ」
「ほんと最低。二分も人の荷物持てないんですか」
「あのさあ、オレの荷物は床を健気に滑ってんのになんで人の重たいの持たなきゃいけないんだよ。どうせ汚れるって。気にすんな」
「ほんと最悪」
僕はふて腐れながら、荷物はそのままにして再びペットボトルの中身を煽った。ホームにベルが鳴り響き、アナウンスが流れる。間もなく、新幹線のぞみ号が二番乗り場に到着します。ホームの足元には気をつけてお待ちください……。
食道をキンキンに冷えた液体が通過したことで、喉が潤い、楽になった。頭にかかっていたもやのようなものも一緒に晴れたような心地がする。隣を見れば、柳楽さんは相変わらずスマホをいじってツイッターのタイムラインを見ていた。彼のタイムラインには自撮りアイコンやペット、風景写真のアイコンが立ち並ぶ。アニメやゲームのキャラクターアイコンが並ぶような僕のそれとは大違いだな。僕はポケットからスマホを出す気にもなれず、暇つぶしもできないまま大人しく新幹線の到着を待った。柳楽さんのキャリーバッグについた剥がれかけのステッカーを見ながら、僕はぼんやりと物思いにふけった。
今回、このルームメイトは何故か僕について行くと言って聞かなかった。そして僕よりかさばる荷物を持ってきているわけで。この大きなハコの中には、彼の着替えと、そしてPS4が入っているのである。若干呆れてしまう。
僕の秘密――僕は女の子を好きになったことがない。ゲイセクシャルと言い切るにも自信が無いが、初恋をずっと引きずっている。多分、まだ好きだ。夢にまで見て未だ何度も思い出すくらいで、いっそ嫌になる。それでも初恋から逃げるように愛知へ進学して、三年が経った。意外とあいつに会わなくても生きていけるものなんだなって思ってる。
柳楽さんは僕とは違って派手な見た目で、男女問わず仲が良く、人気者って感じの人だ。人をからかうところは好かないけど、柔軟で、懐の深い人で……。きっかけはよく覚えていないけれど、少しずつ話すようになって、話しやすくて、気づいたら一緒にいることが自然になっていた。気が緩んで、僕は僕が抱えている問題を、悩みを彼に話してしまったわけだけれど、それを聞いても「へえ」の簡単な一言で終わらせた。そんなところに僕は好感を持って、信頼して……依存して、いる。柳楽さんのところに転がり込んでから、実際僕の精神は随分と安定した、と思う。
断っておくと、そういう関係ではない。友達というほどお互いのことを好きではないし、相棒というほど分かりあってもいない。僕は柳楽さんを好きだと思ったことはないし、彼もノーマル。それでも柳楽さんは、僕が故郷に帰ると聞いて、頼んでもいないのに付き添いまでしてくるような、変わったところのある人間で、そんな部分に僕は救われてもいるわけなのだった。家族とも違うこの関係は、何と名前をつければいいのか。
……人が密集した熱気で湯だった頭の汗を、秋風が冷やしていく。僕が手で汗を拭ったところで、柳楽さんは僕の肩をつついて、向かってくる電車を指さした。
「お、来た。えーと。座席は、あー……えっと、14のE、か」
切符の片方を渡せば、柳楽さんは文字を指先でなぞって確認した。柳楽さんの息が耳たぶに触れる。くすぐったいような、もどかしいような妙な気持ちになった。
のぞみ号は無事到着。風圧を感じて、僕らは顔を上げた。白い機体は一斉に各車両のドアを開ける。
「切符」
列の前の人たちがのろのろと乗り込むのを待ちながら、僕はちらと後ろを振り返る。
「俺が持ってるの、Dだけど、窓際に座りますんで、よろしく」
切符をひらつかせてそう言えば、柳楽さんは眉根を寄せて、反論する。
「は? いやオレのスマホの電池そろそろやばいから。やめて。コンセントの側がいいの。だから俺こそ窓際がいい。譲り合いの精神を……あのな、舌打ちしない」
僕は素知らぬ顔でさっさと新幹線に乗り込んだ。柳楽さんの溜め息と、ガラガラという音が後に続いた。
*
【十月二日】
【十二件の新着メッセージがあります】
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『ひさしぶりー 元気にしてるかぁ?』
『こよちゃんの大学は、さすがにもう夏休み終わっちゃったかな 秋だもんね』
『でももしできたら、数日こっちに帰ってこれん?』
『あんね』
『たつが、帰ってきたんよ』
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『こよちゃん』
#スタンプ#
『このとーり!』
『お願い!』
#スタンプ#
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