亡き妻の携帯が鳴った
北風 嵐
1
いつもより、遅い目覚めだった。台所で音がしている。いつもの朝だと、透(とおる)は一瞬思った。「あれ、誰が朝食の用意をしているのだ」と、パジャマ姿のまま、台所に入っていった。パンとコーヒーのいい匂いがした。
娘の梨花が朝食の用意をしているのだ。
「お母さんの分も用意をするね」と、テーブルの上にカップを3つ置いた。カップは揃ったものでない。夏子のは、結婚前から使っている愛用のカップ。透と梨花のは、夏子が作ったものである。梨花は、ピンク色の可愛いものだ。透のは、釉薬の名前は何と言ったか、黒味をおびた渋い色をしている。
夏子は陶芸を習っていた。結婚前からだから長い。それなのに、夏子の使っているカップは素人が作ったようなものであった。多分、最初に作った記念すべきものだろうと、透は思っていた。
透は夜9時頃、工場の仕事を終えてダイニングで缶ビールを抜き、チーズをツマミに一口飲んだところだった。作り置きの夕食を温めに妻は台所に立ったが、突然ガッシャーンと音がした。
台所を見ると、妻が倒れていた。慌てて救急車を呼んで病院に運んだが、すぐに息を引き取った。くも膜下出血であった。
松山透は従業員6名の電気部品の小さな町工場を経営しており、子供は中学2年の梨花が一人だけである。結婚して10年、来月はそれを祝おうとしていた矢先であった。夏子34歳、透42歳のことであった。
突然の死であった。通夜、葬儀と透はアタフタとした。火葬を終えて夏子は白木で自宅に帰って来た。夏子が朝食の用意をし、3人でテーブルを囲んだのは、たった2日前だったのにと、透は思った。
人の命は明日をもしれない儚いものというが…今、その現実をどう受けとめたらいいのか、取引関係先の弔客もあって、二日間の慌ただしさと緊張は、悲しんでいる暇もなかった。今朝の透は、全くの真空状態である。日常が過ぎていく、その日々の重ねに欠けた部分を見つけ、じわじわと悲しみや寂しさを感じていくものなのだろうか、
そんな透に梨花は、「お父さん、お母さんは私に〈お母さんの思い出〉を作ってくれたわ。家のことは私、がんばるからね。安心して…」と、励ますように言った。悲しみを堪えての精一杯の言葉である。
梨花は生みの母親の記憶がない。母親は梨花が2歳の誕生を迎えた3日後に家を出て行ったのである。相手は工場の従業員であった。
前妻の早苗との結婚生活は3年と少しであった。透は幼子を抱え、保育所の送り迎えと、工場の経営と大変であった。そんな時に、夏子は現れたのである。
「表の張り紙を見て来たのですが…」と、仕事場に入って来た。事務をやっていた早苗が抜けたので、透は事務と現場の仕事を両方やるはめになっていた。
『事務員募集』と表に張り紙を出したのである。夏子は美人だった。こんな町工場に応募して来るのが嘘のように思われた。服装は地味であったが、綺麗に着こなしていた。
簡単な履歴書を見て、即採用を決めた。経理事務の経験はなかったが、教えると飲み込みは良く、堅実な仕事ぶりで、透は生産や営業に専念できるようになった。
透の家は工場と並んであったが、そのうち、保育所の送り迎えもしてくれるようになった。事務に慣れてくると、製品の梱包や配達も手伝ってくれて、男ばっかりの職場に花が添えられたようで、仕事場に活気が戻って来た。梨花もなつくようになり、梨花の3歳の誕生日に家に招いた。
「休みの日は何をしているのですか」と訊くと、
「土曜日は陶芸を習いに行っています。趣味はそれぐらいで、日曜日はすることもありませんので、家のことをしています」と夏子は答えた。
「日曜日にドライブに誘っていいですか」と、初めて職場以外の関係を持った。梨花を近くに住む知人にあずけて、琵琶湖に行き、遊覧船に乗った。船上で透は思い切って、思っていることを口にした。
夏子はすんなり「私で良かったら…」と言ったが、二つのことを口にした。
「いろいろ、悲しい過去を持っています。過去を問わないで欲しいのです。それと陶芸は続けたいのです」と云うことであった。それに、夏子は両親を幼い時に亡くし、親類、縁者はなく天涯孤独であると付け加えた。
1年間の仕事ぶりや、梨花がなついていてくれていることを考えて、透には異存はなかった。結婚式は透の縁者と、工場の従業員の出席だけで行われた。工場の従業員たちも両手を挙げて喜んでくれた。
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