5


 目も見えず、官能の感覚もないのに、菜緒は私の心の乱れを敏く察した。

 その日彼女は、感動の欠落した退屈な戯れのなかで、私の髪を撫でたのだった。それは、ひどくさり気ない、ともすれば見過ごしかねないほどに淡々とした、慰めだった。

 私は菜緒のもとを訪れる前に、裕香と再会したのである。私の家に置き忘れていたものを取りに来ただけの、短い再会である。それでも、殺したい記憶たちが、蘇らざるをえなかった。

 かつて、裕香の弟が母を殺した日、私は泣き伏す彼女の背中を擦るしかできなかったこと。裕香が、私たち二人の寝台で、男に身体をあずけきって、叫ぶように喘いでいた、あの光景。そして、なにより、彼女の悲劇を眺めるだけで、救いの手を差し伸べられず、最後まで身を重ねることもできなかった私に向かって、彼女が家を去った日に見せた面差し……。

 涙も流れぬ、力ないその顔は、言葉の限りを尽くした罵倒より、胸を刺した。彼女は、他人を愛しきる力のない私の魂を、知り尽くしていた。私という人間は、裕香を愛してはいても、それより強く私自身を愛している。それを彼女の諦めた眼差しは突き付けるのだった。

 他者へ手を差し伸べるためには、その手が相手を傷付けるかもしれないと知りながら、それでも手を伸ばさざるをえない、やさしさが必要なのだろう。その倒錯を愛と呼ぶのだろう。裕香よりも自分を守ろうとする私に、愛という美しい行為は、ありえなかった。

 私は、菜緒に、裕香についてあれこれと話した。すべてはどうしようもなかったのだと、いくらか甘えるような心地で言った。私には、なにもできることはなかったし、また裕香に罪はないのだ、と。

 菜緒はこだわりない様子で言った。

「きっと、またその人と、くっつくよ。菜緒のことも忘れて、さ」

 彼女の声色に、嫉妬じみた執心はなく、軽やかに笑っていて、揶揄っているようだった。あまり興味がないらしく、それ以上はなにも言わなかった。私はうれしかった。それを望んで、私は菜緒に話したのであろう。

 言われてみれば、再び裕香と一緒になることも、絶対にないとは断言できなかった。愛着とはそういうものだろう。現に私は、時々あの光景を夢に見ることさえあるのだから。愛情をつかめぬ私は、愛情になりそこなった愛着という呪いが、普通より激しいようでもある。

 裕香と再び一緒になるその日に、私は菜緒を忘れ去るだろうか。菜緒とは私にとってなんなのか。私は、そういうことを少し考えようとして、すぐにどうでもよくなった。なにもかも、しったことではないと思った。私は菜緒の美しさに満たされている。それだけだ。

 私にはなにもわからないのだった。なにもわからない、ということがどういうことか、それも、全然しらない。なにかがわかるなら、私は裕香を救えたのかもしれない。

 だが、もうどうでもいいのだ。私は菜緒に触れるだけだ。

 菜緒の腹の傷に手を伸ばした。

 彼女はされるがままだった。

 私は、その生々しい感触に、いつものように、彼女の堕ちてきた穴の深さを想った。

 久遠のむなしさに深い息をつきながら、私と裕香の日々も、なにもかも、うつろな白い光にのみこまれていくように想われた。


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