井上大和

 目を覚ますと、窓の外から雨の音が聞こえた。今は夜だろうか、カーテンの隙間からは常夜灯の赤い光を喰らうように、真っ黒い影が滲み出している。

 僕はのそのそと起き出して、カーテンをめくり外を見た。窓には水滴が滴り、いつもならはっきりと見えるはずの夜景を歪ませている。雨の音が、粒が、僕の耳や視界を濁して、感覚を鈍らせているように感じる。僕は洗面所へ行き顔を洗って、そしてポケットに煙草を突っ込んで玄関を開けた。


 空は鈍く濃い灰色をしていて、僅かな明暗の波をうねらせながら、雨の粒を吐き出し続けている。ザア、ザアとサラウンドで鳴り続けるノイズは、この世界にいる僕以外の存在を忘れさせるのには十分な効果があった。マンションの廊下はチカチカと明滅する切れかけた蛍光灯が並んでおり、廃墟のような虚しさを醸し出している。


 僕は、いつもそうしているのと同じ動作で、煙草に火をつけ、夜の空気を混じらせて深く吸い込んだ。雨が運んでくる土埃の匂いが、懐かしさを伴って僕の胸で渦巻く。


 *


 その日僕は校舎の前で、途方に暮れていた。雨が強風に乗って次々と周囲の地面に、壁に、屋根に打ち付けられ、バラバラとはじけていく。玄関の上に気持ちばかり取り付けられた小さな屋根の下では、いずれずぶ濡れになってしまう。現にこうしている間も、靴の上に水滴がたまり、それは数分もしたら僕の靴下を濡らすだろう。


 いつまでも項垂れていてはいけない、前に進むんだ。人生、前進あるのみだよ。と、踏みだそうと決心した瞬間、後ろから僕の肩が叩かれた。

「傘、ないの?」

 振り向くと僕の隣に一人の女子が立っている。

「……そうだね。だから走って行こうと思う」

 僕が言うと彼女は、きらきらと輝く笑顔で笑った。そんなに綺麗なものが、なぜ僕に向けられているのか僕には分からなかった。


「これ貸すよ」

 彼女は右手に持った傘を軽く掲げ、僕に差し出す。鮮やかな色をした傘は、僕が持ち歩くには少し派手ではないか。そう思って何だか受け取れずにいると、彼女はぐいと僕に傘を押し付けた。

「悪いよ、君が濡れてしまうよ」

 反射的に僕はそう言ったが、彼女は頑として譲る気は無いようで、だから僕は渋々受け取ることにした。

「私は、大丈夫だよ。ほら、バスだし。もう来たから、行かなきゃ」

 そう言って彼女は、土砂降りの雨を鞄で防ぎながら、バス停に向かい走り去った。


 僕は思考した。何を思って彼女は僕に傘など貸したのだろう。少し都合の良い考えが幾つか頭の中を駆け巡ったが、僕は理性をもってこれを否定する。彼女が傘を渡したのは、目の前に哀れな学生が立ち竦んでいたから、そうに違いない。彼女は遍く人々を救うという、実に非人間的、理想的な思想を持っているのだ。

 傘を広げて、空に透かしてみると、明るい色が陰鬱な空気を払拭するかのようであった。でもそれは本当に、傘の色のせいだったのか?


 駅の方に向かい歩き出す僕は、ちょうどバスに乗り込む瞬間の彼女と目が合った。彼女は先程と変わらぬ笑顔で、僕に軽く手を振る。僕はそれとなく笑顔を作って、傘を小さく掲げた。


 俯きながらパシャパシャと歩く僕の横を、彼女の乗ったバスが追い越してゆく。そして目の前にある交差点を通りすぎようとした時、バスの横っ腹にトラックが突撃した。轟音とともにバスは大きく折れ曲がる。ガラスの破片がきらきらと舞い、そのままバスは甲高い音とともに横滑りをして、トラックと電柱に挟まれて見たこともない歪な現代アートになった。できるなら一生見たくはなかった。


 トラックから、バスから、灰色の煙が上がって、同じ灰色の空に溶け込んでいく。辺りはしんと静まり返り、雨が傘を打つパラパラという音だけが僕の頭に響いて、それはリフレインのように僕の記憶からフェードアウトしていった。



 翌日僕は、平然と登校し、ざわつくクラスメイトに紛れてちょっと悲しいふりをして、それっきりその日のことも、彼女の事も、全部なかった事にした。僕は薄情だろうか。誰かがこの事を知っていたら、僕を非難するだろうか。

 でも、これ以上踏み込むのは、もっと仲の良い家族や友達のすべき事で、それは僕じゃない。

 知った風な事を言って近付いてゆくのは容易だけれど、本当は知りもしない彼女の過去を踏みつけるなんて、許されない。だから、それっきり。


 そのうち彼女のことをあえて口にする人はいなくなり、本当にそんな女の子なんて初めからいなかったのではないかとさえ思うようになっていった。

 彼女は、ただ僕の横を通り過ぎていっただけの、他人なのだ。街ですれ違うあらゆる人を覚えてはいないように、僕もいずれ彼女のことを忘れてしまう。それだけのこと。


 *


 煙草を携帯灰皿の中でもみ消し、玄関の脇に目をやった。そこには傘立てが置いてあり、二本の傘が刺さっている。くたびれたビニール傘と、もうひとつ、僕には不似合いな程鮮やかな色をした傘。


 永遠に返しそびれたその傘が、使われることもなく玄関先でゆっくりと朽ちていくのを、僕は知らないふりをして扉を閉めた。

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井上大和 @Graviton

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