秋空飛行
井上大和
秋空飛行
今日もまた、一日の授業が終わり、既に閑散とした校内にチャイムが虚しく響き渡ります。たとえ誰もいない部屋であっても、この音は差別などすることなく、学校の隅々まで、まるで真空を埋め尽くすかのように染み込んでゆきます。それは、この私の、少しさみしくて、何だか隙間が空いてしまった心にも言えることなのでしょうか。
秋も終わりに近付き、この時刻になるともう辺りは暗くなってしまいます。私は、退屈な授業が終わった開放感を噛み締め、この空を眺めます。赤とも青ともつかない不思議な色が、辺りを染めています。この色を見る度に、私は、ここが本当に現実なのかと、少し不安になるのです。
でも何度考えたところで、ここが現実なのか、そうでないのかを見極めることなど、私には出来ません。たとえわからなくたって、特別私が変なことをするわけではないのですから、問題は無いのです。もしここが夢でも、異世界でも、私はただ今まで周りの人々から与えられ、刷り込まれてきた常識というものに、従うだけです。
校舎の裏には自販機があります。私はいつも、授業が終わるとそこでジュースを買って、その横にあるベンチでジュースを飲みます。今日はどのジュースを飲もうか、それが、学校での私に与えられたささやかな自由です。
授業も、先生も、クラスメイトも、選ぶことなんて出来ません。厳密に言うと、誰と友達になるのか、選択授業で何を選ぶのかなど、選択をせまられる場面は多くあります。しかし、そのどれもが結局は、自分との相性や、周りの状況などによって、ほぼ一意に決まってしまうのです。
たとえば、わざと制服を着崩して、周りの目を気にせずに喚き立てるような人とは、私は付き合えません。周りの人の期待を背負っている私が、わがままで自堕落な人間と深く交流することは、あってはならないのです。
そのように、周囲の状況を考えて、一番良いと思われるものを選択していくことで、私たちに与えられているように見える自由というものは、たちどころに無くなってしまいます。
でも、ここに私を縛るものはありません。私がどのジュースを選んだのかなどを知る人はいませんし、その選択が周囲に与える影響も、無いと言ってよいほど軽微です。この瞬間私に与えられるのは、限りなくほんとうの自由に近いものといえるでしょう。だから私は、放課後のこの時間がとても好きで、ずっとこんな時間が続けばいいのに、とさえ思います。
今日私が選んだのは、普段はあまり飲むことのないジュースです。赤紫色をした缶は、さっき見た空の色のようで、どこか現実味のない感じがしました。もしかしたら、私がこのジュースを選んだのは、そんな空の色に惹かれたからなのかもしれません。
ベンチに座り缶を開けると、炭酸ガスと一緒に缶の中の香りが広がります。これもまた、なんだか不思議な香りです。口に含むと、とても甘くて、私は少し幸せになります。
小さい頃から、甘いジュースを飲もうとすると、よく親に叱られたものです。いつしか私は、家でジュースを飲むことはなくなりました。でも本当は、甘い甘い炭酸飲料が、私は好きなのです。
ふた口ほど飲んだところで、ふと、こちらに向かって、足音が近付いていることに気が付きました。これは珍しいことです。私たち、特進クラスの授業が終わる頃には、ふつう部活動も終わってしまっていて、学校には私たち以外ほとんど残っていません。だから、この時間にここに来るような人は、私くらいのものなのです。
一体誰だろう、嫌いな人だったらいやだなと、私の体がこわばるのを感じます。どんどん足音が近付きますが、私は、まるで知らないふりをしながら、あさっての方向を見つめています。
やがて校舎の影からぬっと人の姿が現れます。そこで私は初めて気が付いたように装いながら、そちらを一瞥します。シルエットからして女子のようでしたが、暗くて相手が誰なのかまではわかりません。はたして誰なのだろうと、少し見つめていると、向こうの方から声がかけられました。
「あれ、美嶋さん?」
その声からして、正体はどうやらクラスメイトの高瀬さんのようでした。彼女とは時々会話をするくらいで、特別仲が良いというわけではありませんが、まずまず良好な関係だと私は感じています。私にとって、本当の意味で仲の良い友達がいるなどとは思えないのですが、少なくとも一般的には、友達と呼べる関係なのではないでしょうか。
「あ、高瀬さん。めずらしいね、こんな所に来るなんて」
「たまたま、ね」
彼女はポケットから財布を取り出し、少し悩んでからコーラを買いました。
「となり、いいかな」
「うん、いいよ」
高瀬さんがとなりに座ると、彼女のきれいなセミロングの黒髪が揺れて、かすかにシャンプーの香りがします。彼女は缶を開け、コーラを一口飲みます。その缶のさわやかなデザインが、明るくて活発な彼女にとても似合っているような気がして、私はなんだか恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになりました。
「美嶋さん、そういうの飲むんだ」
高瀬さんが、私の心を見透かしたように言います。
「これは、いつも飲んでるわけじゃなくて……」
「フフ、別に責めてるわけじゃないよ。ちょっと驚いただけ。ほら、美嶋さんって、紅茶とか好きそうなイメージじゃない」
「そうなのかな? あんまり自覚はないけど」
「そうだよ。美嶋さん、普段から落ち着いてて、優しくて、すごく大人だなと思うんだ。だからそういうの飲んでる所見ると、勝手なイメージなんだけど、ちょっと意外」
「私は全然、大人なんかじゃないよ」
「大人だよ。私、美嶋さんのそういう所、すごく尊敬してるんだから」
思ったことを偽りなく口にする性格の彼女ですから、きっと本心からそう思っているのでしょう。私はただ、申し訳ないと感じました。
純粋でまっすぐな彼女を、私は騙しているのです。私はひたすら、言われるままに、求められる自分を演じているだけで、本当はちっとも褒められた人間ではないというのに。構わず彼女は続けます。
「今日さ、クラスのみんな、駅前に遊びに行くんだって。知ってた?」
「うん、聞いたよ」
「美嶋さんは行かないの?」
「私は、遅くなるといけないから」
私が、そういう誘いに応じることは、ほとんどありません。たいていは、家の都合を理由に断ります。
「高瀬さんこそ、行かないの?」
「うーん、今日はそういう気分じゃなくてさ、適当に理由作って断っちゃった。みんなには内緒にしといてね」
そう言って彼女は、イタズラをした子供のように、てへと笑います。
私にとって、高瀬さんのそういった行動は意外でした。彼女はいつも、クラスの輪の中心にいて、みんなを引っぱってゆきます。今日遊びに行くのだって、さっきまでは彼女が提案したことかもしれないと思っていたくらいです。
そう思ったので、私は、それをそのまま彼女に伝えました。すると彼女は、少し恥ずかしそうに笑って、それから言いました。
「そうかな、美嶋さんがそう言うなら、そうなのかもね」
私には、それがどういうことか理解できず、彼女の言葉の意味を探ろうと、ただ横顔を見つめていました。
切れ長の目や、筋の通った鼻に、蛍光灯の光があたって、普段より強く陰影を作っています。凛とした表情は彫刻のようで、こうして近くで見ていても、その造形が崩れることはありません。
「私ね、みんなと仲良くするってのが、本当はよくわからないんだ」
空を見つめながら、高瀬さんはつぶやきます。
「本とかテレビ、親戚の人だってみんな、青春は一度きりだとか、若いうちに楽しめだとか、そういうようなことを言うじゃない? だからね、私は、なんとなく、そういうものなのかなと思って、そうしているだけなの」
彼女はコーラを口に含み、飲み下します。それに合わせるように、私もジュースを飲みます。
「それでね、そんなんじゃいけないって、本当に自分がしたいことはなんだろうって、考えてみるの。だけど結局、いまいち思いつかないというか、ピンと来ないのよね」
彼女は不意にこちらを振り向き、目が合ってしまった私は、反射的に、視線を逸らします。
「美嶋さんはどうかな。やりたいこととか、目標とか、そういうのってある?」
高瀬さんが、まっすぐ私を見据えます。
この場を取り繕うような嘘を、私はたくさん知っています。でもなぜでしょう、彼女の視線にさらされた私には、それらが全て、無意味だと感じられました。
「私も、やりたいことって、わからない。こういう時にはこうした方がいいんだ、こうしなきゃいけないんだと思って、その通りにするだけ。それがいいことなんだって、ずっと思ってた」
言葉が、自然と私の口からこぼれてゆきます。
「でもそれが、誰にとってのいいことなのか、私は知らないの。そのルールを決めたのが、一体誰なのか。私がそのルールに従うことで、一体誰が得をするのか。私は、自分の気持ちがわからない。だから、誰が作ったのかもわからない決まりごとを、私は真似してるだけなの」
どうしてでしょう、こんなこと、誰にだって話したことがないのに。
混乱する私に、高瀬さんは優しく言います。
「美嶋さんの中には、とても厳格なルールがあって、いつだってそれに則って行動している。それが幸せなことなのかは、私が決めることじゃない。でも、それを続けられるというのは、すごいことだよ」
「それは、違うよ。すごくなんかない。私は、ただ怖くて、何が怖いのかはわからないけど、そういう感覚から逃げたくて、そうしているだけ。いつも思うの、私、本当の気持ちとは違うことをして、みんなを騙すようなまねをして、それはとても、ずるいことだって」
「ずるくなんかないよ。だって、心の中のことなんて、どんなに偉い人だって、見ることすらできないんだよ? 自分以外のある人っていうのは、結局はその人の外見と行動の一部でしかないんだよ。例えば仲良くしている人がいたとして、その人が実は私を憎んでいたとしても、それを一言だって口にしないままいなくなってしまったら、私にとっては永遠に仲のいい友達なんだよ」
それは、本当でしょうか。確かに心の中は、誰にも見ることはできません。だけど本当に、誰にも見えないからといって、よこしまなことを考えるのが許されてよいのでしょうか。
「だからね、美嶋さん。あなたは、周りのすべての人にとって、間違いなく素晴らしい、愛すべき人なんだよ」
「……私には、決められないよ」
二人の間を、沈黙が支配します。私はそれに耐えられなくて、ジュースを口にします。でも、しばらくすると、それも無くなってしまいました。
それに気付いてか、高瀬さんが、私に話しかけます。
「ねえ、美嶋さん、知ってる? 自分のルールを破るのはすごく難しいけど、他人の作ったルールを破ってしまうことって、実はとても簡単なの」
彼女は立ち上がり、コーラを飲み干すと、その缶をごみ箱に放り投げました。静かだった校舎裏に、缶のぶつかる音が広がってゆき、そしてまた、打ち付けられた波が引いていくように、周りの静寂がこの空間を浸食します。
「少し、散歩しない?」
そう言う高瀬さんの表情はとても優しく、でもその目は、私に何かを訴えかけるようでした。私は、それに応えなければいけない――応えたいと、思ったのです。
私も立ち上がると、手の中にある缶をみつめました。空はもう深い藍色に染まっていて、その缶の色は、ちぐはぐに見えます。私は缶を握りしめ、ごみ箱に向かって思い切り振りかぶります。夕闇色の缶が、放物線を描いてごみ箱に吸い込まれて行き、からんと鐘を鳴らしました。
「ナイスシュート!」
微笑む高瀬さんに、私もまた、笑顔で応えます。
「ありがとっ」
校門を出た私たちは、どこへ向かうでもなく歩き始めます。さっきまでとは違って、何でもない、本当にとりとめのない話をしながら、郊外の道を歩きます。
学校の周りの風景を私はよく知っているつもりでしたが、この時間にはいつもまっすぐ帰ってしまうので、新鮮な気分です。真っ暗な道を、まばらな電灯がちかちかと照らしています。細い道の外側は、真っ黒に塗りつぶされているようで、何も見えません。遠くにあるマンションやビルの明かりだけが、ぽつりぽつりと寂しく並んでいます。
どれくらい歩いたでしょうか、私たちは、公園にたどり着きました。丘の上にあるその公園に遊具などはなく、ちょっとした展望台のようになっていて、街を一望できます。駅前のビルや看板、信号、街灯、それらが各々に輝いて、星座を形作っているようです。
空を見上げると、またそこにも星が輝いていて、私たちはまるで、その光の粒の中のひとつになってしまったかのようです。
「私ね、この景色が、すごく気に入ってるんだ。難しいことを考えて、何もわからなくなった時に、ここに来るの。そうするとね、私が求めているものってのは、こういうものかもしれないって、思い出すの」
高瀬さんの髪が、さらさらと夜風に揺れています。
「それが具体的に何なのかは、わからない。でも、曖昧で、つかみどころのない、この空気みたいなものがね、私の帰る場所なんだって、そう感じるの」
彼女は私の方を見ると、ちょっと恥ずかしそうに笑います。
「えへへ、ごめん、わからないよね」
そう言った彼女は、突然私の手を取りました。急なことに、私はびくりとしてしまいます。
「ねえ、向こうまで行ってみようよ」
高瀬さんは街の方を指差すと、私の手を引いて、返事も待たずに走りだしました。階段を駆け下りると、公園の木々や照明が、私たちの後ろへ流れてゆきます。そして私たちは、真っ暗な世界に放り出されました。
――自分の心の中を、直接見せることはできないけど、それを、言葉や行動で伝えることはできるでしょう?
暗くて細い道を、ふたりで駆けてゆきます。並んだ電灯は、滑走路に並ぶ誘導灯のように私たちの行く先を示しています。
――そして、相手の言葉や行動を、心の底から信じることも、簡単ではないけど、できるの。
次第に、建物の明かりが瞬き、流れ始めます。笑い合い、駆けまわる私たちは、無邪気な子供のように見えたかもしれません。
――もしその二つがうまくかみ合ったとしたら、それは、とても素敵なことだと思わない?
橋をひとつ渡ると、そこはもう街の中です。様々な色をした光が、次々と私の視界に飛び込んできて、目が回りそうなほどです。
――あなたは、とても正しく、美しくあろうとする。
あふれる光の海を、私たちは泳ぎまわります。彼女の目に映り込んだ光の粒子が、ぐるぐると踊り始め、やがてはじけて空に帰ってゆきます。
――でもあなたは誰より悩んで、苦しんで、真剣に生きてる。
暴力的なほどの輝きの中に、私の身体は埋もれてしまいます。もう自分がどこにいるのかさえ、わかりません。
――ねえ、美嶋さん。
どこからか私を呼び戻す声が聞こえました。私は辺りを見回し、高瀬さんの姿を探します。でも、気配はありません。私は怖くなって、彼女の名前を呼ぼうとしました。すると不意に、耳元で彼女がささやきます。
「そんなあなたの真剣さが――いいえ、そんな真剣なあなたが、私は好きだよ」
はっとして振り返ると、彼女の姿はたちまち人ごみの中に消えていってしまいました。そして気がつくと私はひとり、駅前に、ぽつんと取り残されていました。さっきまで輝いていた街の明かりは、何事もなかったかのように、いつもと変わらない実用的で味気ない光を辺りに投げかけています。
もう夜も遅く、門限の時刻などとうに過ぎています。私は、ルールを破ってしまいました。それは一体、誰のルールだったのでしょう。でも、そんなことよりも、外はだいぶ冷え込んでいるにもかかわらず、なぜか身体が内側から熱くなっていくのが、私には不思議でしょうがなかったのです。
秋空飛行 井上大和 @Graviton
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。秋空飛行の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます