第4話 招き入れる女

「――あーちゃん、お姉ちゃんのこと覚えてる? 今度こそ美味しいお料理、食べさせてあげるからね」


 持っていた携帯電話で唯子に連絡を入れると、日も変わった夜中だというのに、車を飛ばして迎えに来てくれた。

 あーちゃんも俺も全身ずぶ濡れ。その上、俺は裸足で足元はドロドロ。

 こんな姿だというのに、唯子は躊躇せずに車に乗せて走り出す。


「一体どうしたんです? こんな夜中に突然。しかも、そんな姿で」

「小さい子とはいえ、本人の前じゃちょっと……。少なくとも、あの家には置いておけないと思って、連れ出してきた」

「えーっ、連れ出してきたって……。大ごとじゃないですか」

「…………」


 唯子は驚きの声を上げたが、それ以上話さない俺に気を遣ったのか、黙って車を走らせる。

 向かう先は唯子の家。

 あの家にこの子を返すわけにはいかないし、隣家である我が家では匿えるはずもない。今日のところは、唯子に預かってもらうしかないだろう。




「明日の朝、引き取りに来る。詳しい事情もその時話すから、とりあえず今夜一晩だけこの子を頼むよ」

「そんなこと言わずに、あーちゃんと一緒に泊まっていけばいいじゃないですか」

「そんなわけにもいかないだろ」


 家に着くなり、二人を招き入れようとする唯子。

 だがそれは、いくらあーちゃんがいるとはいえ、男女二人きりのようなもの。

 さすがに、そんな中で一晩過ごすのは、やはり気まずい。

 それでなくても、初めて見る胸元が緩めの唯子の部屋着姿に、少し緊張しているというのに……。


 唯子の家を後にしようとすると、何やら引っ掛かる足元。

 なんだろうとふと見ると、あーちゃんが裾を掴んでいた。

 そこへ加勢するように、唯子までがしゃがみ込んで、一緒になって裾を掴む。


「ほらー。あーちゃんだって、行かないでって言ってるじゃないですかー。行っちゃやだよねー? あーちゃん?」

「…………うん」


 卑怯だ、子供をダシに使うなんて。

 そう言って突っぱねたいところだが、足元には自分の親指をしゃぶりながら、心細そうな顔で見上げるあーちゃん。


「仕方ない、今日のところは泊まらせてもらうよ……」

「ようこそ。いらっしゃいませ」


 唯子のとびっきりの笑顔で、あーちゃんと共に迎い入れられる。

 なんでそんなに嬉しそうなんだか……。


「じゃあ、早速で悪いんだけど、この子を風呂に入れてやってくれないか? たぶんそれで、大体の事情もわかると思う」

「よーし、お姉ちゃんとお風呂入ろっか」


 雨の中、ベランダに放置されていたせいで、身体中ずぶ濡れの錆びだらけ。そして汚れた手で涙を拭ったせいか、顔まで汚れ放題。

 そしてあーちゃんは、たぶん女の子。

 風呂に入れるなら、唯子が適任だろう。それにこれで、説明も省けるに違いない。


「――嫌ーッ!」


 脱衣所から聞こえてきた、唯子の叫び声。

 思った以上に、早くて強烈な反応だ。


「ちょっと! なんなのこれ、一体どうしたの?」


 上半身裸のあーちゃんを連れて、俺に駆け寄る唯子。

 あーちゃんの身体には、あちらこちらに内出血や擦り傷、そして火傷の跡。

 きっとこうなっていることは、父親の記憶から簡単に予想がついた。


「見た通りだ。だからこうして、さらうような真似までして連れてきた」

「こんなに身体中のあっちこっち……。ひどい、ひどすぎる……」


 我が事のように涙を流す唯子。相変わらずのお人好し。

 しかしこの子に対しては、相当薄情な自分でさえも同情せざるを得ない。

 そんな当の本人のあーちゃんは平然としたまま。余計に同情心が募る。


「そんなわけだから、傷に沁みないように気をつけてやってくれ」

「わかった。行こう、あーちゃん……」

「……ん……」


 唯子の差し出す手を拒む、あーちゃん。

 そして俺に駆け寄り、泥だらけの足元にしがみつく。

 さっきまでは、唯子と入る気満々だったのに。まったく、子供の心理は難しい。


「えー、お姉ちゃん嫌われちゃった? ちょっとショック……」

「俺だって困るんだけど……。子供を風呂になんて、入れたことないし……」

「大丈夫ですって。それに、びしょ濡れ同士で入った方が、手間も省けるでしょ。私は泥だらけになっちゃった床を、掃除しておきますから」


 あーちゃんの着替え用にTシャツと、タオル類を用意してくれた唯子。

 そして、湯船へのお湯張りまで段取りすると、唯子は脱衣所から出て行った。

 やれやれ、幼女と混浴する破目になるとは……。


 まずはあーちゃんの服を脱がせ、自分はそのまま浴室へ。風呂場でこの泥を落とさないことには、洗濯だってできやしない。

 汚れを落として服を脱ぎ、慣れない手つきであーちゃんの身体を洗ってやる。

 ちょっと摘まんだだけで、折れてしまいそうなほどに痩せ細った身体。そしてその至る所にある、無数の虐待の痕跡。思わず、目を覆いたくなる。


 お湯の貯まった湯船に、二人で浸かる。

 傷が沁みるようだが、温まるまで浸かるように諭すと、じっと我慢している。

 この健気なまでの従順さは、虐待のせいなのだろうか? 素直ないい子に映るが、そう考えると複雑だ。


「パパとママは好きか?」

「……んー……」


 回答なく、うつむくあーちゃん。

 そっと顔を持ち上げ、その目を見つめる。

 だがその目を、すぐに逸らさずにはいられなかった。


 さっきの父親視点からみた虐待の光景は、子供側から見るとその恐怖感は何十倍にも増長されている。

 まるで地獄で鬼に弄ばれる人々のような、そんな圧倒的な絶望感。

 アリが人間に踏みつぶされるような、圧倒的な力の差。

 こんなトラウマを焼き付けられるような体験を、こんな歳で味わわされるなんて。


「あーちゃんの本当の名前は?」

「んー? あーちゃんはあーちゃん。パパは? おなまえ」

「パパのことなんて知らないよ――」


 言いかけて気づいた。

 パパと言っているのは、俺のことでは?

 念のため、自分を指差しながら尋ねてみる。


「――ひょっとして、俺の名前を聞いてるのか?」

「そう。パーパ」

「俺は鳴海沢 和真だ。パパじゃないぞ」

「カズマ、カズマ」

 

 はしゃぐあーちゃん。少しは打ち解けられただろうか。

 身体も温まったところで湯船を出、あーちゃんにシャワーを掛け、自分も浴びる。

 子供を風呂に入れるなんていう、重大任務も無事終了。

 浴室のドアを開け、一歩踏み出す。

 すると、そこには床を掃除する唯子の姿が……。


「あ、あ、ああ……。ご、ごめんなさい、鳴海沢さん」


 慌てて両手で顔を覆う唯子。耳が真っ赤だ。

 そのまま顔を伏せる唯子に、あーちゃんが濡れたままの手で肩を叩く。


「ちがうよ、カズマだよ、マーマ。ねー、マーマのおなまえは?」




 唯子のベッドにあーちゃんを横たえると、あっという間に寝入ってしまった。

 あどけない寝顔を唯子と二人で見届けると、居間に戻って今後を話し合う。


「これからどうするんです?」

「近々、母親と話してこようと思ってる。虐待してるのは、父親だけだろうから」

「でも、それを見過ごす母親なんですよね。そんな人と話し合いになるんですか?」

「そうは言っても、今のままじゃただの誘拐だからな。連絡はつくようにしておかないと、捜索願いでも出されたら面倒なことになる」


 向こうにも負い目があるとはいえ、警察に駆け込まれたらこちらが不利。

 せめて母親だけにでも話を通しておけば、状況は変えられるかもしれない。

 それに何より、サングラスがないと不便だ。ずっと目を逸らしながらでは、会話もしづらい。




「――わかりました。明日は会社を休んであーちゃんのこと見てますから、母親のところへ行ってきてください。和真さん」

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