第5話 怠慢な女
翌朝、唯子にあーちゃんを任せ、さっそく自宅へ。物陰から機会をうかがう。
そしてついに午前九時、父親の外出を確認。
七時頃から見張っていたので、二時間ほど。長かった……。
後をつけると、そのまま駅行きのバスへと乗り込む父親。
これなら、すぐに帰ってくることはないだろう。
取って返し、まずは自室へと向かう。
盗まれるような物などないが、長期戦になるなら商売道具や着替えは必需品。いつものバッグにあらかたの物を詰めて、サングラスをかけ、準備万端。
施錠を済ませると、その足で隣の家をノックした。
――コンコン。
わずかに開いた隙間から、女が顔を覗かせる。
そして俺の姿を確認すると、恐る恐るドアを開いた。
「なんのために来たか、もちろんわかりますよね?」
「はい……。なんとなく……」
誘拐犯が現れたなら、普通は食って掛かりそうなものだが、至って静か。逆に、恐縮して見えるほどだ。
やはり虐待の自覚があって、罪悪感もあるのだろう。
「上がらせてもらってもいいですか?」
「はい……。どうぞ……」
昨夜は気づかなかったが、部屋の隅にはベビーベッド。
覗き込むと一歳ぐらいの赤ん坊が、スヤスヤと寝息を立てていた。
「弟さんですか?」
「え、ええ……」
「この子にも虐待を?」
「いえ、こっちの子は、あの人の実の子なんです。晶子は連れ子で、この子が生まれるまでは、あの人も可愛がっていたんです……」
事情を語り始めた母親。
実子が生まれた途端に、連れ子の方が可愛くなくなる。なるほど、よく聞く話だ。だからといって、同情心はこれっぽっちも湧かない。
連れ子がいるなら、先々に実子を授かる前提の心構えをすべきだ。
「虐待を止めないあんたも、同罪ですよね」
「……でも、仕方ないじゃないですか。いくら止めても、やめてくれなくて……。力じゃかなわないし、私にまで暴力を振るってくるし……」
サングラスを外してみるが、確かに止めようという努力はしたらしい。
その度に突き飛ばされ、蹴られ、あーちゃんと似たような目に遭っていた。
だが傍から見れば、そんなものはアリバイ作り程度のもの。自分は虐待していないと、言い訳をするために。
「だけどあんたは、あの子とは違う。大人だ。警察に駆け込むなり、離婚するなり、身を守る手段を取ることができる。違いますか?」
「私、一人じゃダメなんです……。前の夫に出て行かれた時も、生活が苦しくて何度死のうと思ったことか……。そんな時に、あの人に出会って……」
「今は生活が楽になったっていうのか? こんなボロアパートに住んでるくせに」
「でも……でも今別れたら、五百万の借金だってどうやって返せば……」
依存症なのか、それとも自立心が足りないのか。
少なくとも、目の前で我が子が命の危険にさらされているのに、その命を守る最大限の努力を怠っている時点で、母親の資格はない。
「じゃあ子供を施設に預けて、あんたは死ねよ」
「…………え?」
「ああ、すまない。本音が出た。だけど、少なくとも今のあんたには、あの子を返すわけにはいかない。ただし条件が飲めるんだったら、返してやってもいい」
「条件……ですか?」
「虐待の事実を警察に通報して、旦那を逮捕してもらう。その上で、旦那とも別れる。これができないならあの子は返せないし、こっちの方から児童相談所に通報してやる」
あの父親とは、キッパリと縁を切ってもらうのが最低条件だ。
昨夜の風呂で両親を好きかと聞いても、楽しかった思い出を何一つ思い出さなかった、あーちゃん。
虐待さえなくなれば、少しずつでも楽しい思い出が綴られていくことだろう。
「…………」
下を向き、沈黙を始めた母親。
どうしたらいいか、少しは真剣に考え始めたのだろうか。
いや、むしろ打算的な考えを巡らしているように見える。
「どうするんだ? 条件を飲むのか、飲まないのか」
「…………」
やや凄んでみせると身を縮め、息を吸ったまま顔を引きつらせる母親。
確認のために合わせた目に浮かぶのは、やはり暴力を振るう旦那の姿ばかり。
やはり、自己保身しか考えていないのか……。
「わかり、ました……。あなたの言う通りにします。その代わり、晶子はすぐに返してください。約束は必ず守りますから」
「それは、娘が心配だからか? それとも、旦那が怖いからか?」
「もちろん、あ、あの子が心配だからです……」
伏し目がちの返答。なんてわかりやすいのか。
明らかにその場凌ぎの返答。あーちゃんを本当に返していいものか、判断に迷う。
しかし、返してくれと意思表示されているのに返さなければ、それこそ誘拐犯。
それにあーちゃんだって、ちゃんと愛してもらえるなら、実の親の方が良いに決まっている。
「受け渡しは、明日でいいですか?」
「いえ、すぐにでもお願いします。これ以上、あの子がいないと、その……」
続けかけた言葉の先が、少し気になる。
だが『すぐにでも』という言葉は、返還希望の強い意志と受け止めておこう。
最後に一日ぐらい、一緒に遊んでやりたかったが仕方ない。
決心が鈍らないうちにと、唯子に電話を掛ける。
「――話がまとまったから、あーちゃんを連れてきてもらえるかな……」
橋の中央付近で、母親と一緒に唯子の車を待つ。
この辺りは、どこへ行ってものどかな田園風景。似たような景色ばかり。
アパートから歩いて行けて、しかもわかりやすい場所がいいと、母親の希望でここを待ち合わせ場所に決めた。
線路の上に架かる、この辺りでは大きな橋だ。
似たような車が向かってくる度にドキリとするが、ことごとくハズレ。
さっきからもう、何台見送ったかわかりはしない。
さすがは国道、思った以上に車の往来が激しい。
それから、ぼんやりと待つこと三十分、クラクションの音に我に返る。
少し行き過ぎたところで停車する、ピンクの軽自動車。
窓を開け、身体を乗り出す唯子。こちらに向かって、大きく手を振っている。
「すみません、お待たせしました」
後部座席からあーちゃんを降ろし、手を繋いで登場の唯子。
こちら側は、俺とあーちゃんの母親。
引き渡す前に最後の確認をする。
「約束は忘れてないですよね? 自分の口で、内容を言ってみてください」
「はい……。夫とは別れます。そしてこの子を虐待していた件で、警察にも必ず相談に行きます」
「必ず守ってくれるんでしょうね」
「…………はい、必ず」
念押しの返答は、消え入りそうな声。
やはりここまで来ても、約束を反故にされそうで心配だ。
だが、現状は誘拐。そして愛情は、実母にもらった方が良いに決まっている。
さっきの決断を思い返し、あーちゃんを母親へと引き渡す。
「じゃあね、あーちゃん。バイバイ」
寂しそうに手を振る唯子。
相変わらず親指をしゃぶりながら、首を傾げるあーちゃん。
そして母親は、そのあーちゃんの手を引き、深々と頭を下げる。
俺はといえば、自分の家に帰るには母親たちと同じ方向なのだが、
今日のところは唯子の車で駅にでも連れて行ってもらって、ほとぼりが冷めるまでホテル暮らしでもしよう……。
俺たちは唯子の車へ。母親とあーちゃんは反対方向へ。
後は車に乗ってそのままお別れなのだが、名残惜しく振り返る。
するとちょっと進んだ先で、しゃがみ込んでいる母親。
熱心にあーちゃんに何か話し掛けているようだが、その顔色は真っ青だ。
何やら不穏な気配を感じて、ゆっくりと近づく。
「ごめんね、あーちゃん。ママ、やっぱりパパとはお別れできないよ。だから、一緒にお空に行こう?」
やっぱり、あんな母親にあーちゃんを返すんじゃなかった。
一刻を争う言葉が耳に入り、慌てて駆け出す。
――プァーン。
タイミングの良すぎる電車の警笛。
この場所を母親が指定したのは、最初からこれが目的だったのか?
すっくと立ちあがる母親。
そして、あーちゃんを抱きかかえる。
向こうから走ってくる電車は四両編成、橋の上で起こっていることなんて知りはしない。
線路への飛び降りを阻止するように、橋の欄干側に身体を滑り込ませる。
しかし、あーちゃんを抱えた母親が飛び出したのは、反対側の車道。
(くそっ、そっちかよ……)
完全に逆を突かれ、伸ばした手も母親の背中を捕えられない。
もう間に合わない。万事休すと、固く目を閉じた。
耳に響く叫び声。
「――イヤーーー!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます