第二章第五節<奇門遁甲>
二月十九日。突撃第一段階を終了した西郷軍の目の前で、突如熊本城が炎上をはじめた。
当初、水前寺の怨敵調伏の
このとき、西郷軍はまだ鎮台軍の展開した奇門遁甲の布陣を知らなかった。また、西郷軍突入の方角が、杜門、死門、傷門の方角に相当することもまた、事実だったのである。
強力な風水呪詛を帯びた西郷軍は、信じられぬほどの損害を受けて後退を重ねる。
そして二月二十二日。いまだ辛うじて包囲網の形を保っていた西郷軍に、小倉第十四連隊が接触、同時に密偵により、政府軍が博多港へと到着した情報がもたらされる。
いつまでも熊本城に拘っていては、敗北は必至である。撤退をはじめる西郷軍は、血路を見出さざるを得ない状況へと陥ったのであった。
「先生」
すぐ近くで銃声と悲鳴とを聞きながら、桐野は煤に汚れた西郷の前までやってくる。
「博多に政府軍が到着した模様です、このままでは、我等は挟み撃ちに逢うでしょう」
「後退、か」
「いえ……それよりも、我が軍にはまだ体力があります。一部を離脱させ、政府軍を迎え撃ってはどうでしょうか」
「政府軍の数も兵装もわからんままにそんなことをすれば、わざわざ死にに行かすようなものだぞ」
「しかし、先生はこのまま引き下がるおつもりですか!」
桐野は、傍らの樹の幹に拳を叩きつけた。
「失礼」
口を挟んで来たのは、神祇調士の水前寺であった。
「なんだ」
「いえ……熊本城での戦に、ちと見過ごせぬものがありまして」
「えぇい、今はそのようなことを論議している時間はない!」
いきりたつ桐野を制し、西郷は水前寺を見据えた。
「こやつは、お前のような侍とは違う……我等には分からぬものを、こやつは感じたかもしれんだろう」
「しかし!」
「聞こうか」
水前寺は頭を垂れ、そして語り始めた。
「熊本城への突入隊は、鎮台軍によりほぼ全滅……あの炎上も納得しかねますが、背水の陣にて臨んだ奴等にほとんど損害が見られぬというのは、いかがなものでございましょうか」
水前寺の説明に西郷が大きく頷きかけたとき、西郷のすぐ頭上で何かが爆ぜた。
はっとなる三名の視線の先に、身を隠しながらこちらに銃口を向けている二人の兵士が見える。
「くそっ」
桐野が腰の愛刀を抜き放つよりも早く、水前寺が懐に忍ばせた右指には二枚の神折符が挟まれていた。気合一閃、投じた折符はその形状の通りに神の霊力を宿した矢となり、兵士の眉間を貫いて昏倒、即死させる。
「手短に申し上げます」
向き直った水前寺は、興奮した口調で言葉を続けた。
「熊本鎮台はどうやら城を中心として奇門遁甲と呼ばれる風水兵法を展開した模様……我が軍はそれにより、呪詛をかけられているものと思われます」
「そんな、馬鹿な」
「恐らく、あちらにも術を操るものがいたのでしょう……陣に呪いをかけられたのでは、如何に出陣に祓い清めましても、洗った布に墨を上塗りするが如くでございます」
そのようなものが存在するなど、思いも寄らぬ。しかし水前寺の言葉が真実であれば、我等は呪いを帯びたまま戦わねばならぬというのか。
「幸いにも、呪詛は私の術で清めることができます、しかし……軍全体の清めとなると、今のままでは」
「どうすればいい」
「現時点での戦いを出来得る限り、早くに終結させ、全軍を一堂に集めること、にございます」
そうすれば、祓いができる。今のままでは、全身に油を浴びたまま火矢を掻い潜って戦っていることに等しいからだ。
「桐野君、指揮は任せる」
「はっ」
機敏な動作で一礼し、退出していく背を見やりながら、西郷は深い息を吐いた。
ともすれば、この窮状に士気すらそがれかねない自分を無理矢理に叱咤する。誰が倒れようとも、自分だけは倒れるわけには行かない。
西郷は黙したまま、右胸に手を当てた。
そこには、一通の書状がある。したためたのは、出陣前。宛先は内務卿、大久保利通。
かつての友は、今、何を思いながら我を討つか。生温い友情に縋るつもりはない。しかし、自分の真意を、大久保に伝えたい。新政府というものを別の覚悟から見たその姿というものを、俺の口から、お前に伝えたいのだ。
「西郷様!!」
逼迫した水前寺の叫びによって、西郷は剋目した。
先刻の兵士によって、守備網にほころびが生じていることに気づくべきであった。
眼前に迫っているのは、銃兵弓兵混成の軍兵。
「西郷ォ!」
「早くお逃げくださいッ!」
水前寺は西郷との間に立ちはだかると、十指全てにありったけの神折符による霊矢を取り出す。
これだけの敵を前にして、最早無傷で守り通せるとは思えぬ。そして、西郷もいまだ、奇門遁甲の呪詛を帯びている身なのだ。
「高天原天つ祝詞の太祝詞を持ち加加む呑んでむ、祓い清め給う! 吐菩加身依美多女とほかみえみため、祓い給え清め給えッ!」
ぱん、と何かが破裂するような音声が響き渡る。それと同時に水前寺の両手が閃き、神矢が放たれる。
「てぇッ!」
眼前で兵らが銃と弓を一斉に掃射。それと交錯する形で水前寺の神矢が兵士らを打ち据え、ばたばたと倒れる。
まさに雨霰と迫り来る銃弾と矢は水前寺のみならず、西郷の背をも槍衾にする、筈であった。
しかし西郷を狙ったそれらは、悉くが軌道が途中で折れ曲がり、結果全ての攻撃は水前寺へと向けられる。
咄嗟に西郷の「穢れ」を払い、それを一身に取り込んだ水前寺による術の効果であった。周囲の禍事の全てを、爆発的に膨れ上がった水前寺の呪詛が取り込むことによって西郷への被害伝達を防いだのであった。
がくりと膝をつき、一度身を波打たせて血塊を吐く。
その唇が何かを呟いたが、それは言葉になる事無く、水前寺はうつ伏せに倒れたきり、動かなくなった。
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