新編 妖乃園
第一部 帝都、窺狙はれり。
序章
金属板を、刃を潰した短刀で無理矢理に掻くような、まるで神経を直接擦り合わされるような不快感を呼び起こす音が夜闇に響いた。
月明かりすら、ここまでは差し込んでは来ぬ。幾重にも重なり合った梢に茂る葉は天然の天蓋を形成し、たとえ唐突に雨が降って来たとしても、雨粒は直接下にいる者を打ち据えることは無いだろう。
鼻をつままれても分からぬほどに凝縮した、闇。
その中で弱々しく明滅しているのは、鈍く濁った赤い光。ぐじゅる、という水音が響き、次いで何かとてつもなく巨大なものがずるずると引き摺られる音がする。
「ふむ」
男の声がした。どうやら、この闇の中で男は何者かと話をしていた。
だが肝心の相手の声は一向に聞こえぬ。猛烈な臭気があたりに立ち込めてきたのは、声のすぐ後だった。
「この眼球は、もう使い物にならないね」
それに答えるかのように、先刻の金属音が響いた。
多くの者にとって不快であろうその音を至近距離で耳にしながら、端正な青年の顔には渋面どころか皺一つ刻まれぬ。白いシャツをきっちりと着込み、上着を脱いでいるためにサスペンダーが露になっている。髪は夜の光をも受けて煌きを放つ金であり、その青年が日本人でないことはすぐに知れた。
青年の右手には、レイピアと呼ばれる細身剱が握られていた。高価な品であるらしく、そのヒルトには蔦をあしらった細工が施されており、ナックルガードと一体化する形になっている。
その剱の切っ先には、赤い果実のような球体が突き刺さっていた。ぼたり、とその球体から粘液が滴り、地に落ちる。
「僕の剱をそこいらの貴族が持っているものと一緒にしては困るな」
手首の閃きだけで、その球体を振り払うと、青年は虚闇に向けてその切っ先を突き出す。
その向こうには何があるのか。攻撃の意図か、それとも威嚇か。
だが次の瞬間、切っ先は闇に消え、三度目の苦悶の金属音が大気を震わせる。不思議なことに青年はその場から一歩たりとも動いてはいない。
それなのに、剱は間違いなく闇に没している。
―――いや、見よ。
それまでは一メートルにも満たぬほどであった刀身は、いつの間にか優に二メートルを超えるほどの間合いを誇る武器となっていた。
「赤城山に住む妖魔でもこれにはかなわないだろう? これは魔術武器……
ぐっと柄を握る指に力を込める。
「<
「ご無事でしたか」
周囲の異臭がまだ消えやらぬ空間に直立する青年の背後で、年配の男性の声がした。
その響きは流暢な英国英語であった。抜き身の細身剱を携える青年の後ろで光が生まれ、きっちりとタイを結んだ初老の男性の姿が浮き彫りになった。
その光によって、青年の前に倒れ伏すその異形の姿が闇に浮き彫りになる。身の毛もよだつほどに巨大な、大百足。それが、赤城山の守護妖魔であった。
「図体だけは大きいがね。
「は、申し訳ございません。いらぬ心配でございましたな」
一礼する男性に向き直ると、青年は左手に持った紙片を指で弾いて見せた。
「契約は終了だ。流石は
「その紋章は、
初老の紳士はふと青年の手元にある紙片に目を落とした。そこには指を広げた程度の大きさの真円が描かれ、その中央には直線と円形からなる幾何学文様が描かれていた。
知らぬ者にとってはそれは戯れ書きにしか見えぬであろう。しかし青年にとってそれは力の源の一つであり、自らが駆る大いなる技の一つであった。堕王召喚呪と呼ばれる、数々の古の王をこの世界に呼び寄せる召喚魔術書に記された、
「相変わらず見事な博学ぶりだな、アルバート」
「光栄の極み」
腰に吊った鞘に細身剱を納めると、青年は樹の幹に手を当てて天を振り仰いだ。
そこからだけ、夜空が見える。中天にかかった月が如何にも風流な風景を醸し出している。そこに東屋と酒があれば、月を肴にすることも出来そうなほどだ。
だが青年は天を一瞥しただけで踵を返し、歩み始めた。
「どちらへ?」
「山を降りる。もう田舎暮らしは満喫した」
「と、すると……帝都へ?」
「ああ」
青年の横顔に笑みが宿った。
「挨拶をしておかないといけないだろうからね。もっとも、あちらは望んでいないかもしれないけれど」
「では、私めもお供いたしましょう……ムートン様」
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