間章Ⅷ<夜の女神>
セシリアは旗艦ニュクスの執務室で一人、書類を机の上に広げながらコンピュータと格闘していた。
それまでの彼女の艦であった戦艦スクルドは没収され、代わりに討伐のために与えられたのが、この黒塗りの戦艦であった。まるで宇宙の只中においては暗黒の天空と同化してしまうのではないかとも思われるほどの、艶消しの黒。一切の光を吸収し、静かに突き進むその姿は、まさに夜の女神の名が相応しいものであった。
だがそのような艦の外観に注意を払う暇も無く、セシリアは忙殺されていた。
理由は明白である。今回の任務において彼女に与えられた兵数はおよそ五千。その七割が新兵もしくは実戦回数が三回に満たない兵士らということもあり、目下の悩みはそうした者たちを如何に指揮するかというシステムを構築することであった。
軍隊という集団社会には、多くの暗黙の了解がある。否、暗黙の了解を理解しようとすることが、新兵とその他の経験を積んだ兵士らとの大きな違いであるということすらできよう。兵士らのプロフィールを集計したデータベースとにらみ合っていても、解決策は浮かんでこない。すっかり冷めてしまった珈琲のカップに手を伸ばそうとしたとき、執務室に来客を告げるインターフォンが鳴った。
「どうぞ」
入室を促す言葉をかけると、眼前の気圧式のドアがスライドして開き、軍服姿の男が二名、いかめしい顔つきで立っていた。
セシリアは席を立ち、敬礼で迎える。男のうち一人は大将勲章を胸に提げていることを、セシリアは素早く見つけていたからだ。
「楽にしたまえ、セシリア中将」
「は」
男は自分の傍らに立つ、もう一人の男を視線で指し示す。
「彼は、今回の渡航に際して君の補佐を務めることとなった。カルヴィス・ウーゲル中将だ」
かつ、と革靴の踵を合わせる音が響く。
「このたびの作戦の同行を拝命致しました、カルヴィス・ウーゲルと申します」
言葉とは裏腹に、セシリアはカルヴィスという男に普通ではない空気を感じていた。服装や態度、身のこなし、言葉遣いだけならば軍人以外の職業には見えない。だが、乱れた長めの頭髪に顎を覆う無精ひげは、規律遵守を旨とする軍人には似つかわしくない様相であると思えた。
「まあ、今日は彼の紹介として非公式にお邪魔をしたわけだ……忙しいところ済まなかったね?」
「いえ、お心遣いありがとうございます」
背筋を伸ばしたセシリアに男は頷くと、用件は済んだとばかりに背を向ける。
「ウーゲル中将、君はこれからどうするね?」
「もしお時間をいただけるのでしたら、今回の作戦のことについて、セシリア中将と少々打ち合わせをさせていただけませんでしょうか」
「無論だ。では私は先に失礼するとしようか」
二人の視線に見送られ、大将は執務室をあとにした。
ドアが閉まる音がすると、カルヴィスは手を後ろに組んだまま、執務室の壁際の観賞植物に向き合っていた。初対面の、しかも奇妙な雰囲気の男に、どう声をかけようか、セシリアが悩んでいたとき。
「毎度毎度、これだから軍服ってのは肩が凝るんだよなぁ」
襟元のボタンを外し、首周りを締め付ける上着を緩めると、カルヴィスはくるりとこちらを向いた。その顔に、先ほどまでの硬い雰囲気は微塵も無い。
「あ……あの……?」
「まあなんて呼んでくれてもいいけどよ、ウーゲル中将、ってのだけはやめてくれ」
人懐こい笑顔で、ぐいと右手が差し出される。あまりの変わりように、呆気にとられた顔をするセシリアにカルヴィスは意外そうな表情で顎を撫でた。
「お前……握手、したことないのか?」
「……あ、握手くらいなら、私も」
真面目に答えてから、カルヴィスにからかわれたのだと分かり、耳まで赤くなるセシリア。肩を揺らしながら笑い、カルヴィスは執務室の窓に躰を向けた。
「まあ、なんつーか、あれだ……国家殺しの犯罪人だっていうからどんな相手かと思って来てみりゃ……なあ」
その言葉の意味が分からず、曖昧な表情のまま、カルヴィスを見つめる。
「少なくとも、あんたの目は人を殺す人間の目じゃない。まあ、軍人である以上は、どんなヤツだって人殺しなんだがな」
言葉の後半は、何か自嘲気味にさえ聞こえる呟きであった。
「そう気を落とすんじゃねえよ。討伐隊組んで、新米のお子様の子守して、帰って来りゃいいだけの話じゃあねえか」
腕を組み、にっこりと笑って見せるカルヴィス。
その言葉と表情に、セシリアもつられて笑う。ここ数日、自分の胸のうちに蟠っていた、不快な思考の塊が、ずるずると溶けていくのを感じる。
だがそれでも、セシリアの胸のうちは晴れない。カルヴィスが、自分のことを何処まで知っているのだろうかということが、気に掛かるのだ。何も知らず、事態を楽観視しているのかもしれない。全てを知り、しかし知らぬふりを演じているのかもしれない。
それでも、カルヴィスの笑顔はありがたかった。ほんの一時と言えども、自分の苦しみを理解してくれたという、錯覚を感じることができたのだから。
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