第二章第一節<Bushwhackers>
ラーシェンはふと足を止め、聞き耳を立てるように空を仰いだ。視線の先には、渦を巻く鈍色の雲がうねっているだけであり、その悪天候も今にはじまったものではない。今こうしているこの場所でさえ、気を抜けば時折よろめいてしまいそうな突風が吹きつけてくる。上空の対流は凄まじいものであるのだろう。
だが、ラーシェンが感じたのはそんな天候の予兆ではなかった。
追われている。否、尾けられている。
自分を監視するような意識を感じるのだ。今、こうして足を止めている間は何処かに身を隠しているのだろう。どんなに気配を探ってみても、人数や場所などの詳しい情報までは分からない。
だが、確実に、尾けられていることだけは間違いない。ラーシェンは耳元で吹きすさぶ風鳴りの音を聞きながら、踵を返した。いつまでもここで探り合っていても、埒が開かない。再び気配に背を向け、数歩歩き出したときだった。
背後で石の崩れる微かな音がした。その瞬間、はっきりとした気配がラーシェンの感覚に飛び込んでくる。
それまでは息を殺し、動きを止め、気配を隠すのに必死になっていたものが、物音をさせてしまったことによって動揺したのだろう。気づかないふりをしてさらに数歩歩き、そして振り向きざまにベルトに吊っていたセミオートマチックのハンドガンを狙いをつけずに一発撃った。音の聞こえた方角への威嚇の射撃であったが、効果は抜群であった。
とりわけ大きな岩陰の後ろから、髭面をした男が姿を現す。手にしたサブマシンガンのグリップから手を離し、両手を上げた格好で出てくる。
「さっきの村から尾けているな……何の用だ」
髭面の男は、顔を強張らせたまま答えない。数秒睨み合っていたラーシェンは、第二の威嚇としてハンドガンのグリップを両手で握った。
それにより精密な射撃が可能になる。一発目とは違い、今度はお前を撃つ意志がある、という表示であった。
だが髭面の男の視線がふと逸れた瞬間、ラーシェンの足元の瓦礫が火花を散らした。目の前の男は銃を撃てる態勢ではない。
「甘いなぁおい」
やや斜め後ろから声がする。
複数か。正面の男に狙いを定めたことにより、自分たちへの注意が逸れたという判断か。
「そこまでだ、四丁の銃が狙ってるぜ」
どす黒く濁った欲と殺意が込められた男の声だ。ラーシェンはなおも正面の男に銃を構えつつ気配を追っていたが、やがてハンドガンのトリガーから指を離した。多数対一、という状況である上に、彼等は仲間を人質に取られたくらいで怯む類の人間ではないと判断したからだ。
どうせ、正面の髭面を撃ち殺したところで、彼らはなんとも思わないだろう。いやむしろ、分け前が増えたと喜んで見せるくらいのことは平気な連中だ。ラーシェンがホールドアップの姿勢を取ったことを確認すると、周囲の物陰から見るからに胡散臭い連中がごろごろと姿を現した。
「たかが一人の旅人相手に、賑やかだな?」
「普通のしみったれた奴なら、俺らだって一人か二人で充分よ」
下卑た笑いが風に乗ってさざめいた。
「てめえよお、ショップの小娘にえらく気前がよかったそうじゃねえか」
「まだ持ってんだろぉ、レアメタルをよぉ」
「とりあえず、素直に渡しゃあ……」
自分を取り囲むようにして立つ男たちが口々に好き勝手な威嚇の言葉を吐き出す。
だが、その中の一つが不意に途切れた。
様子が変だと判断した仲間が、その方向に顔を向けた瞬間。恐怖と混乱、その二つの感情に精神の全てを支配された男の絶叫が上がった。恥も外聞もなく上げられたそれは、上げることで己の躰を縛る恐怖の呪縛を解き、かつ仲間に危険を知らせる動物としての本能か。薄闇の中からぐいと伸びてきた細い腕は、男の頭を掴むと造作もなく持ち上げた。足をばたつかせ、何とか逃れようとする男の努力もむなしく、がっしりと頭部を掴んだ指は頭蓋骨を握りつぶした。胸の悪くなるような音をさせて、頭部を破壊された男の躰から力が抜ける。
そのときになってはじめて、男たちは自分たちに襲い掛かってきたものがなんであるのか、理解したようだった。
「撃ちやがれェ!!」
リーダー格らしき男の号令の下、残った三人の男たちはラーシェンに突きつけていたはずのサブマシンガンを斉射した。砂煙の混じった風の向こうから、銃弾の前に姿を現したのは、巨大な妖魔。四肢を張って四つんばいの姿勢を取っているそれは、巨大な裸体を晒す女の妖魔であった。剥き出しになっている豊満な乳房を揺らし、悪鬼のような形相の妖魔はぐるりと睥睨すると、恐るべき跳躍力で男たちに向かってきた。
「うああああッ!!」
悲鳴と共に、男の一人が頭上から覆いかぶさるようにして落下してくる妖魔に組み敷かれる。銃を持つほうの腕を戒められ、信じられない膂力で岩に押し付けられ、ぼきりと折れる。痛みと恐怖で麻痺しかかった男の頭に血まみれの口腔でかぶりつくと、悲鳴は止んだ。
残るは二人。あっという間に仲間を半数近くまで減らされた男たちは、既に戦意を喪失していた。銃を放り出し、仲間を食っている隙に背を向ける男たちに、ラーシェンは喝を飛ばす。
「逃げるなッ!!」
たとえ逃げたところで、追いつかれるのは必至である。今以上に混乱した状況では、みすみす命を自分から捨てているようなものである。その喝で踏みとどまったのは、リーダーらしき男だけであった。ひぃひぃと掠れた悲鳴を上げる髭面の男は数歩も進まぬうちに、背後から再び妖魔に飛び掛られ、岩場に頭部を激しく打ちつけ、絶命する。口の周りを鮮血で染めた妖魔が、こちらに振り返った。
「ひッ」
悲鳴を漏らす男とは対照的に、ラーシェンは懐からVAを取り出した。無理を言ってチャージしてもらっておいて、やはりよかった。スイッチを入れ、OSが起動すると同時にアプリケーション<
<創造せられしブラフマー、繁栄せられしヴィシュヌ、破壊せられしシヴァの名を冠せられし大いなる者よ、悪しき邪気を祓いたまえ、偉大なるトリムールティの名に於いて>
>It takes 90 seconds until making a sanctuary zone......
「クソッ」
カウントダウンが開始されると同時に、ラーシェンは妖魔に向き直った。片手でVAを支えたまま、ちらりとディスプレイに視線を再度落とす。アプリケーション起動と同時に、VAは周囲に散逸する怨念の構成要素を分析し、妖魔の属性を確定していた。
<分析終了 妖魔タイプ確認 India系列 種族名称
「上等」
メイフィルの言葉に偽りはなかったわけだ。先刻の男たちの戦いを見ている以上、この妖魔には銃は効かない。無論、至近距離で撃てば傷をつけることはできるのだろうが、こうした場合、相手を倒すことが出来ない攻撃に意味はないのだ。
ハンドガンをベルトに戻し、ラーシェンの指が太刀の柄を撫でる。微かに触れた柄が、妖魔の気を感じ取ったのか、微かに震える。
「お前も分かるか……行くぜ、<
既にカウントは70まで減少していた。だがこのままVAの発動を待っているわけにはいかない。
「頭を狙え! 何があっても動ずるなッ!」
男に指示を下すと同時に、ラーシェンは指を柄にやったまま疾走を開始した。サブマシンガンの銃声を聞きながら、妖魔がこちらに意識を向ける。
だがその顔に着弾している様子はない。
下手糞が。
妖魔も迫り来る男が、これまでとは違うことを悟ったらしい。頭上から奇襲じみた戦法で襲い掛かるのを止め、四肢を張ったまま、恐るべき力を秘めた前腕で横薙ぎに振り抜いてきた。
ラーシェンは膝を軽く曲げると、脚に意識を集中し、渾身の力で垂直に飛び上がった。爪先のすぐ下を、男の頭蓋を握り潰すだけの力を持った爪が擦過する。ふわり、と外套が風を孕んで翼のように広がったときであった。
懐のVAが聖域展開準備を完了した電子音を鳴らす。
妖魔の足下に光が生まれた。それと同時に妖魔が咆哮を上げる。視覚化された曼荼羅が妖魔を捉えた瞬間、袈裟懸けに斬り下ろされた。
動きを縛られた妖魔の急所を、太刀は正確に破壊していた。
とん、と着地するラーシェンの頭上で、断末魔の苦悶をあげる妖魔。その輪郭が徐々に失われ、空中に溶けるようにして四散していく。
立ち上がり、鞘に刀身を戻し、振り返るラーシェン。妖魔の攻撃は全て自分に向けられたものであり、男に危険はないはずであった。
だが視線の先に男はいない。
逃げ出したのか。
纏わりついてくる怨念を振り払うようにして歩き出すラーシェン。
だが、悲鳴は再度、上がった。
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